ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲

モントゥ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1959/7/19live・CD

昔の性急さや感情任せのリズム主義的なところは影を潜め、牧神の見本のような演奏に仕上がっている。時代からは驚きのステレオ録音だが弱音の多い曲だとソロ楽器の音に少し靄がかかったようになるのが惜しい。僅かにパチパチも入る。曲が進むに連れ響きを厚くして音楽に起伏をもたらす配慮に気付かされ、ライヴでのモントゥーの芸が聴衆に支持されたのもわかる。ボストンのソロ陣も上手い。よくフランスオケ風の音を出す。
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ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲

ニコレ・アンリオ・シュヴァイツアー(P)モントゥ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1959/7/19live・CD

驚いたことに明晰なステレオ録音で迫力を増している。環境ノイズか放送パチパチのようなものが僅かに気になる他は、50年代ライヴ録音としては満点。モントゥーの指揮は力感も派手さもあるがそれよりバランス良さが目立ち、楽曲のスコアを踏み外さずに省略もせずに裏の細部まではっきり、楽団の力を存分に発揮させている~フランス近代ものにはメリットのある楽団だ。確かに巧さ以外に突飛な特徴をあげづらいが、この聴きやすさは立派なメリットだろう。アンリオは同時代ミュンシュ以外の指揮者ともよく演っていたようだが、さすがに同曲くらいでは動じない。楽団と正面から組み合ってしっかり弾いている。楽章毎に拍手が入るのはご愛嬌。つくづくこの曲はフランクのもの以上にフランスの交響曲だと思う。オケが前に出ることが多く、ピアノ協奏曲的な感じはそれほどしない。

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲

キンケイド(fl)ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(victor)1924/4/28・SP

ソリスト名は挙げられているが音色など聴きとれる状態ではない。ノイズは物凄く、楽器数も少ない。木管ソロだけが密集してアンサンブルしているような骨董録音である。恍惚としたテンポ設定と、各楽器の決して個性的ではないが主張しあう、響きの色彩感のみ伝わる。しかしこの時代でそれだけ伝わるだけでも大層なもので、黎明期のレコード業界でストコフスキーがさかんに持ち上げられたのは、他が余りに凡庸だったりレコードと言うものの特性を活かさず録音したかということでもある。それだけでもなく、じっさいストコフスキーはドビュッシーを得意とはしていて、改変等のレベルはともかく、のちの良い録音でも評価できる耳馴染み良い演奏を繰り広げている。大正時代から一貫したものはある。あらえびす(野村胡堂)氏がなぜストコフスキー盤を推すかと言って、録音芸術として優れたものが当時相対的にこれしかなかったからであり、また、当時の現代音楽を理解可能な明確な形で、届く音楽として作れたのもストコフスキーその人くらいだったのだろう。最後がブツ切れるのはSPではよくあること、この後の録音の方が演奏時間が短いから盤面制約のせいでもなく技術陣の問題だろう。

ラヴェル:ツィガーヌ

D.オイストラフ(Vn)ブール指揮ORTF(ina)1959/6/1(1959/6/21放送)live

ina配信でもAmazonデジタル配信でも聴ける。直前のプロコフィエフより音が明晰。別録か。冒頭から軽く、技術的にも独特なところがあり民族性が薄い。粗さが目立つというか、この曲特有の繊細で特殊な表現に豪快で野太いヴァイオリニズムがマッチしてないと感じた。オケが入り(相変わらず見通しよく適切だが音色が少し鄙びている)安定はするものの、合っているのにどこか違う、こういうのは東欧のヴァイオリニストやグリュミオーあたりが得意とするものでヴィルトーゾには向かない。ブラヴォは飛ぶ。独特だからかも。

レスピーギ:ローマの噴水

モントゥ指揮ボストン交響楽団(SLS)1963/8/4live

モントゥーは同曲を得意としただけあり、すんなり聴けてなおかつ印象深い演奏。スタイル的にはスマートなのだがそれなりに力感もありまとまりがあって美しい。終盤急にノイズや撚れが増え、萎えさせるものの聴衆反応はなかなか凄い。この録音ではちっとも迫力は伝わってこないが、さぞ色彩的で圧倒する演奏だったのだろう。

ファリャ:スペインの庭の夜

カーゾン(P)ホルダ指揮ナショナル交響楽団(decca/dutton)1945/9/26・CD

ダットンは痩せてデジダル臭い音に整形されているがリバーブかけると情報量十分。ホルダの色彩的な演奏を楽しめる。作風は古くドビュッシーふうの印象主義的な音楽であり、楽想は多くはないが時に打楽器的なピアノのメロディを通していくぶんはフォルムを整えていくものの、それほど明確な描写音楽ではもともとなくドビュッシーのスペイン語翻案みたいな、新味のない作品だから近代フランスの響きと民族的なリズムのダイレクトな融合っぷりに好き嫌いが別れると思う(私も苦手なほう)。カーゾンのピアノはナチュラルで適度に感情をこめ、ふんぷんとする南欧のメロディーに拘泥することなく、曲をことさらにはピアノ協奏曲のようにしていない。終わり方がブチっと切れるような感じなのは元の録音がそうなのか。構成感のない曲ではである。

ミヨー:秋op.115~Ⅱ.アルファマ

ロン(P)(columbia/cascavelle)1935/5/10・CD

ミヨーは季節を題名とした作品を複数ジャンルに書いているが、春を扱うものが多くピアノ曲でも春だけで二集の曲集を書いている。言うまでもなくエクサンプロヴァンスのユダヤ人集落に生まれた出自から楽天的でこだわらない性格により、牧歌的作品を量産したわけで、しかしこの録音の三年前に作曲された時期はけして体調的にも思わしい状況にいたわけでもなく、牧歌風のフレーズも、らしくない沢山の音で飾られている。これは三曲からなる小品集の中間にあたり、さほど個性を発揮せず新しい工夫のないかわり、華々しい効果を与えるピースとなっている。ロンはタッチをヴィルトーゾ風に変え、もっともヴィルトーゾのやる曲ほどの音数は無いのだが、この曲はこうやるのだと言わんばかりに弾ききっている。

ミヨー:ブラジルのソーダード~ⅩⅡ.パイサンドゥ

ロン(P)(columbia/cascavelle)1935/5/10・CD

クローデルの秘書としてブラジルに逃れた時期、当地の音楽に強く影響されて書いた作品として有名で吹奏楽などでも演奏されるが、ミヨーのピアノ独奏曲はサティの音符の少ない簡潔な音楽の影響があるせいか、独特の孤独感や抽象的な雰囲気が出て良い。ブラジルの思い出、ブラジルの郷愁などと訳されることも多いが、各地方の名前を題名にもつ。これは終曲にあたる。タンゴのリズムにのって、でもブラジル的なラテンの明るさはなく、孤独な響きのステップが踏まれていくうちに、別の音楽によって断絶し交錯し、まさにミヨー独自の複調、というか複数の異なる雰囲気を持つ音楽との簡潔な邂逅をへて、ステップを止める。短い中にもミヨー、そしてミヨーのピアノ曲の一種「高潔さ」のあらわれた曲である。単なる翻案ではなくミヨーの作風にブラジルが取り込まれたのだ。ロンは難なく弾き通す。旅先のミヨーの孤独を適切な表現で示している。ロンは他にも録音があったのではないか。

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ミヨー:ピアノ協奏曲第1番

ロン(P)作曲家指揮ORTF?(columbia/cascavelle/pearl他)1935/4/5・CD

被献呈者と作曲家による骨董記録だが、今聞いてもやっぱりこの曲の決定版。一楽章は録音のせいもあって少しまだのりきっていないが、二楽章は前衛性がパリのオシャレな洗練により後年の作品より晦渋にならずに済んで、ロンだから硝子のような響きが、六人組の世俗性より、ミヨーもわりと仲の良かったラヴェルに近い仄かな感傷を燻らせる。何より派手に始まる三楽章のロンの大御所たる表現力、曲がじつに簡潔に上手く出来ている、そこにきてタッチの確かさとスピード。重すぎず大風呂敷すぎず、これぞフランスのピアニズム。これに尽きる(その盛り上がりはまさに新古典主義!)。作風がミヨー得意のプロヴァンス風の牧歌的な旋律で曇りのないもので、全三楽章でも15分もかからないから初心者にもわかりやすい。細部が聴こえないゆえ一部技巧に陰りがあるように聴こえるかもしれないが、この曲だから弾けないはずはない。錯覚だろう。pearlのほうが音が聴きやすかった覚えがある。自作自演新録はアントルモンだが作曲家も年を取りアントルモンも芸風が芸風なので熱量とスピードは劣る。オケは聴き劣りしない。オケ名は原盤にちゃんと書いていないようでまちまちだが、まだ設立されてなくてもまあ書いてある通り、ということでハテナ付きで。

ブロッホ:三つのスケッチ「ユダヤ人の生活より」

ネルソヴァ(Vc)バルサム(P)(decca)1950・CD

古くノイジーな録音だが、チェロの陰影ある音色をうまく使った民族主義を昇華させた作品で、それを巧緻に聴かせる演奏となっている。ちょっと「呪術的な音階」や指先を転がすような装飾音が混ざるほかは、普通の人が聴けばそれほど違和感のない、憂愁のメロディーをひたすらかなでるチェロ曲に聴こえるだろう、それほどまでにユダヤの音律はクラシックに浸透し我々もそれを通して普通のロマン派音楽のように享受することができるのである。ネルソヴァはそれでもあからさまに音色に民族性(ユダヤの民族性というのも語弊があるが)をあらわしているほうだが、違和感を感じさせないように、臭みを発しないように、揺れはすくなく、絶妙のところを行っている。音は決して安定して太いわけではないが音色が物悲しくて何とも言えない味のある演奏である。

プロコフィエフ:トッカータ ニ短調 op.11

ブルショルリ(P)(meloclassic)1965/11/19live私的録音・CD

プロコフィエフのピアノ曲は絶対ハマるので聞かないことにしている。こうやってアンコールピースを一つ聴くだけでも新鮮まくりで沸き立つ。ブルショルリはしょっぱなから持ち味である重くて強い音を駆使して、曲の要求のまま打楽器的な音楽を推進していく。ただ指が回るとかスピードを見せつけるということはしない。音がすべてちゃんと実音として響く。だから短くても聴き応えがある。生誕100年記念盤収録。

ファリャ:バレエ音楽「恋は魔術師」~火祭りの踊り(ピアノソロ版)

ブルショルリ(P)(meloclassic)1965/11/19live私的録音・CD

これはちょっとやり過ぎかな。最初の主題ではテンポがよたり、第二パートでは表情を作り過ぎ。もっとも、面白い。この曲に私がルビンシュタイン的な勢いと力強さしか求めないのはかつてロシアの先生の実演で物凄くカッコの良い豪快な弾きっぷりを観たからで、こういう起伏を付けるソロピアノ演奏を聴いたのは初めてだった。録音は悪いが一応内容は聴き取れる。それほど音が細かく絡み合う曲ではない。生誕100年記念盤より。

デュティユー:ピアノ・ソナタ

ブルショルリ(P)(meloclassic)1950年代パリ私的スタジオ録音・CD

私的録音だけありボロボロでかなり聴きづらい。私的演奏なのにまったく瑕疵の無い、目覚ましい技巧を示す一楽章などそちらに耳が行くので気にならないが、繊細で張り詰めた二楽章や深く重い響きから始まる(この響きがブルショルリを特徴付ける)三楽章では、メリットが損なわれる面もある。フランスのピアニストに多い、細かい音符を胡麻を撒くようにパラパラ示す演奏家ではなく、音のすべてにきちんと重さがあり、この速さと確かさはナンカロウがロール紙に打ち込んだ音なんじゃないかというくらい、物凄いところが聴かれる。指が20本あっておのおの30センチの長さがあるんじゃないかと思わせる。曲ははっきり言ってドビュッシーとメシアンの間にあるような没個性的なもので技巧的表現以外余り新しい工夫の重ねられた音楽には聴こえないし、三楽章20分は長いが、アイヴズのソナタが聴けるならじゅうぶん楽しめるだろう。この作曲家の時折折り挟む単純な美しさは、やはりボロボロの録音が目立って残念。ブルショルリ生誕100年記念盤収録。

ドビュッシー:前奏曲集第1巻~Ⅹ.沈める寺

ブルショルリ(P)(meloclassic)1966/12/18live(事故直前の最後の公開演奏会)クルジュ・CD

生誕100年記念盤に収録。全般に録音が不明瞭なのは非正式記録とはいえ惜しい。冒頭、泡の主題(具象的でも神秘的でもなくはっきりしたタッチで抽象化された上向音形)の音量が極端に落ちているのも録音のせいだろう、これはこの曲の出だしとしては痛い。しかし、じきに総体的なクレッシェンドが松葉を開いていくうちこのソリストの大伽藍を聳え立たせるような表現に圧倒される。重く、いささかの不安も抱かせない和音、不明瞭な、狙ったような発音は一切なく幻想味はあくまで曲構造から醸し出されるものに限られ、明らか過ぎるくらい、リアル過ぎるくらいの発音で(録音のせいもあるが低音の残響はマノノーンの潮流のように聴こえる)、でも、ただ解釈を音にしているのではない、何かしら心にズシリとくるような要素をふくみ、深い水の底から現れそして沈む巨大なモノをじっさい眼前に幻視させる。単体で演奏されることが多い曲だからなお、存在感の大きな作品で内包する要素も、たくさんの方が多方向から分析されるくらいにはあるのだが、このスタイルだと衝突する要素が発生して自然さを失いかねないところ、バランスが良い。そもそもの設計が良くできている。その威容に、時間をかけてじっくり演奏されていると錯覚するが、計測上はかなり早い。あまり音楽外の要素を入れて聴きたくないのだが、この直後にブルショルリは事故で演奏家生命を絶たれる。技巧派で同時代作品の解釈表現に一家言あった人として、これが録音記録の最後になったというのは、不謹慎かもしれないが、意味のあったことのように思えてならない。最後に、巨大な寺院~音楽性~とともに、水底へ消えていったのである(聴衆からすると)。

バッハ:フーガの技法BWV.1080(弦楽合奏版)~?未完

カラヤン指揮大ドイツ放送国営ブルックナー管弦楽団(meloclassic)1944/12/14リンツ・放送用スタジオ録音・CD

実在のことで物議を醸した演奏だが録音は戦中ドイツの良好なもの、と言ってもこれを聴いていたら音が気持ち悪いと言われたので一般向きではないのだろう。言われてみれば浅くて音場は狭い。でもクーセヴィツキーのマタイを思い起こせばとんでもなくノイズレスである。非常に机上論的というか、私が言うまでもなく抽象化された作品で古典芸能の手本みたいな、最小限のスコアに演奏者が表現を付け加えて成立するたぐいの芸術である。そしてその幅はけして広くはない。45分でプツンと切れるまで(未完は未完でほんとに切れるし、順番も異なり全曲でもない)、まったく平板に同じような音楽が「違った動きをし続ける」。カラヤン(の時代のオケ)のイメージとして編成が大きすぎるとかアンサンブルが甘いとか、そんなものの有無はこの平準化された音符の羅列の前には何の意味も持たない。難曲だからまとまらないとか、原典は実はこうこうだからこうこうしたとか、そういう余地はこのスコアには無く(編成や楽器や奏法を変えたらともかく)、だからといって揺らぐものは無いのである。つまりこの「何もしない」のがカラヤンの解釈である、そして、聴いて思ったのはこれはやっぱりフーガの技法である。ただそれだけだ。ブルックナー信奉者ヒトラー肝入りのリンツのオケで戦局の悪化により3年しかもたなかったか、さすがに音が揃って下手ではなく(生気の有無は何とも言えない)、残響のせいもあるが教会音楽ふうの雰囲気もあり、かといって~バッハの多くの作品には通俗的な側面があると思うがこれはそこが無い~抽象音楽に徹した演奏ではなく、どっちつかず。まだ若い手練れのシェフが上等な素材を与えられたのでそこそこ美味い料理を作った、というか、せっかくブルックナーの名を冠したオケでカラヤン自身ブルックナー指揮者であったのに、ブルックナー的なロマンティックな面白味が余り持ち込まれず素材の良さのまま提示されている。「お仕事」という言葉が浮かんだ。録音のせいもあって今後あまり聴くことは無いと思う。そもバッハならもっと面白い曲はある。教科書のような作品はまだ私にはわからない。

プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

D.オイストラフ(Vn)ブール指揮ORTF(ina)1959/6/1(1959/6/21放送)live

ina配信でもAmazonデジタル配信でも聴ける。コンサート冒頭を飾ったせいか、まだ熱していない感および余力を残している感。最初は音がメロウで意外(豪胆な音よりこのくらいの柔らかく適度に細いほうが耳に優しい気もするが贅沢な物言いだ)。解釈表現的に少し堅い感じもする。プロコフィエフの冒険的な時代のトリッキーな仕掛けが、確かな技術により鮮やかに浮き彫りにされてゆく。鮮やか過ぎてすんなり通り過ぎてしまう。しかし技巧を見せつける二楽章にてオイストラフここにあり、というとんでもない曲芸的な表現を披露する。曲芸、というと小手先のイメージがあるがすべて「実音を伴う」。あまりの速さに小手先の動きが省かれるところまで聴いてしまうのはヘッドフォン派の悪いところだが、演奏精度は全般にあくまでライヴであり、オイストラフの録音でもあまり上には置けないと思われるかもしれないが、そのように聴くべきだ。三楽章は変な楽章でソロヴァイオリンが冒頭と最後の主旋律以外は高音アルペジオや変なトリルや装飾音でオケの伴奏にまわるようなところがある。シゲティの技術的限界と表裏一体のギリギリ切羽詰まった表現とは違い落ち着いた安定感が内容的な部分に何か足りないものを感じさせるが(この演奏はオイストラフにしては集中度の高さはなくいつも以上に灰汁が抜けている、前プロだからだろう)これは普通はこれでいいのだろう。客席反応も曲への馴染み無さもあってか普通で、長い拍手の後の方が少し盛り上がる程度である(舞台上に戻ってきたタイミング)。書き忘れたがブールのバックは素晴らしい。やや複雑な曲を鮮やかに処理、響きの透明感を維持し技巧的解れを許さない。同オケ同時代にこの高精度の演奏は素晴らしい。

ピエルネ:バレエ音楽「シダリーズと牧羊神」第一組曲~Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ

デルヴォ指揮ORTF(ina)1955/4/4

朝にはぴったり。デジタルアルバム(Amazon等)でもina配信でも聴けるコンサート中の一曲(ルフェーブルのシューマン協奏曲をふくむ)。通常演奏される第一組曲冒頭の無邪気な四曲が選ばれている。内容はいかにもドロドロらしいのだが、このあたりでは学校を舞台にした爽やかで印象派的な響きの音楽であり、特に一曲目「小牧神の入場」は古くからお馴染みの鮮やかな色彩の映える小品である。ちなみに「牧羊神の学校(小牧神の入場)」「パンの笛のレッスン」「ニンフの生徒たちの行進」「ダンスのレッスン(ヒポリディア旋法に基づく)」以上になる。この演奏だとコンサート中盤であるせいかオケが乗っていて、ちょっと気が強すぎる感じもする。派手なリズムでダンスの気を煽るデルヴォーの指揮のせいもあるかもしれないが、これはこれで、よく耳に届く音楽になっている。もともと決してリリカルな内容ではないので、リリカルな場面だけ取り出したとはいえ正しいのかもしれない。劇場張りにやってくれるデルヴォーの同曲録音は貴重だ。

ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

モントゥ指揮ACO(RCO)1939/10/12live放送・CD

冒頭から性急で意思的な強い表現に驚いたがオケの性格もモントゥーの年なりのところもあるのだろう。あけすけなトランペットの響きにもびっくりする。真っ直ぐ突き進むのではなく、縦に音を叩き付け続けるようなミュンシュとは違うスタイル。二楽章のリズムには舞踏的な要素も強く感じる。リアルな音色で楽想変化が明瞭な一方、とくに弦に技術的雑味が多い古い演奏、さらに、ノイジーな録音で余りに状態がひどく、テジ化音源で聴いていると盤面の問題なのかリッピングミスなのか識別できないほど多様なノイズが重なり、多くの部分が耐え難い。ダイナミックな志向の一方で例えばハープや低弦のかもす幻想味が損なわれまくっているのも悲しい。正直鑑賞には値しないが、モントゥー壮年期のフォルムの緩い前のめりっぷり、気を煽るせっかちな芸風はそれなりの色彩味を放ち魅力が無いわけではない。速すぎて吹けないなど三楽章にも技術的問題は多々きかれるのだが、とにかく私の盤の単なる劣化による悪印象かもしれないので、そこは少し割り引いて読んでください。正規盤にしてはひどすぎる。

ヒンデミット:気高き幻想組曲

マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1967/10/25・CD

マルティノンのイメージ通りの演奏となっている。マーラーを得意としただけに中欧音楽でも期待させるものがあるが、これは莫大であまり曲の芯を捉えていないように聴こえる。退屈なのだ。理知的に構築してはいるが楽団はそれを譜面通りに演奏している、そこに加えるものはなく、遅いインテンポで壮麗さを演出しようとするとそこでヒンデミットのわかりやすい曲の内蔵するマンネリズムが表面化し、1枚CDではあわせて収録されたバルトークやヴァレーズにくらべて聴き劣りは否めない。中低音のひびかない楽団の性格もあるのだろう。ヒンデミットはやはり中欧の作曲家であり想定されているのは重い響きである。

ヴァレーズ:アルカナ

マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1966/3/21・CD

新奇な音要素を騒音主義的に加え、前衛に必要な理知性より、結局勢いを重視した楽曲に聴こえてしまう。明晰な表現を持ち味とするマルティノンでさえこうなってしまうのだから(トランペットの駆使や複雑なリズムなどアイヴズのようにうるさく、打楽器に頼るような表現は強引で、全体の構成感も希薄)これはあとは好みだろう。この楽団がやっているのだから、これ以上の技術も求められない。ピアニッシモの響きの美しさはヴァレーズ独自のもので、マルティノンらしい精緻さが有利に働いている。ジョリヴェが好きなら聴ける音楽です。
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