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シェーンベルク:室内交響曲第1番

クレンペラー指揮ベロミュンスター放送管弦楽団(weitblick)1960/4/24チューリヒ放送スタジオ録音・CD

オケ名についてはweitblickでは当時の名称を勘案しこれで統一したとのことなので、今後海賊盤など出回ったとしてもチューリッヒないしスイス云々の名がついていれば同一の可能性がある。スタジオ録音だそうだが思ったより状態は悪い。ボロボロな印象を持つ人もいると思う。発掘音源レベルという印象そのもので保存状態が悪かったのだろう。モノラルなのは当然。情報量はあり、リバーブをかけると迫力が違ってくる。クレンペラーは個性的な表情はみせず正面から、マーラー的なものととらえ決して初期シェーンベルク特有の「臭み」を強調しない。和音はそのままの響きで提示され、創意より全体の調和と構成を重視する。オケのレベル(状態)はこの録音では何ともわからない。中庸の音色とは言えるか。この曲はシェーンベルク初期作品としては有名なペレアスや浄夜やグレの歌より聴きやすい曲種の「交響曲」なので、連続して演奏される事実上の一楽章制ではあるが、ここでもクレンペラーらしくもなく、自然に受け容れられる。一か所、欠落ではないかと思えるほど峻厳な断裂的表現があるがこれはクレンペラーらしさの唯一感じられるところかもしれない。
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シェーンベルク:主題と変奏op43b

クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1944/10/21放送(1944/10/20)live

シェーンベルクが室内交響曲第二番のように調性的な作品に回帰「しようとした」作品で原曲は吹奏楽、これはオーケストラ版の初演である(初演アナウンスがあるので記載上の21日は放送日と思われる)。初期に立ち返るには書法が簡素化しすぎ、これは音に色を籠めないクーセヴィツキーがやっているせいもあるがウィーン時代のローカル色がすっかり抜けて抽象化されて、主題とその半音階的な動きには同時代アメリカアカデミズムに横溢していた晦渋さが滲み、交響曲のように強引にでも聴き通させようという明確な構成を持たない変奏曲という形式を用いた結果、ただダラダラとしてパッとしない音楽になってしまった。

シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」

ミトロプーロス指揮NYP(m&a)1953/10/29live・CD

完全にノイズリダクション、擬似ステレオ化されているが情報量が削られておらず聞きやすい。一楽章制の大曲で初期シェーンベルクの様式に沿ってひたすら後期ロマン派、リヒャルト・シュトラウスの傍流のような(しかし楽器の扱いが単調で官能性の質(ハーモニー重視)が違う)分厚い管弦楽。散漫な印象はあり、ミトロプーロスはウィーンふうの音色を交えつつドラマティックに描き出し、ウィットの欠片もない曲のままに真摯に高精度の演奏を繰り広げる。「浄夜」のように癖のある半音階の多用は目立たないが、それはミトロプーロスが「うまくやっている」からかもしれない。あのニューヨーク・フィルをライヴでここまで厳しく律せているのも(単調な曲とはいえ)ミトロプーロスの技量なのかもしれない。ミトロプーロスはクラスナーとの一連の録音などシェーンベルクが「行ってしまった先」の音楽はいくつか録音があるが、この時期となると今は同じ盤収録のVPOとの浄夜ライヴと、RCAの同曲正規録音くらい。

シェーンベルク:セレナード

ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(col legno)1958ドナウエッシンゲン音楽祭・CD

意気軒高のシェーンベルクの才能を実感できる。ストラヴィンスキーふうに最小限に整理された音要素のどこにも怠惰な様子はなく常に音楽が変化し音色が変化しそこに同じ景色は二度とつながらない。それでいて「個性」をしっかり印象付けることのできる小品集だ。ギターの孤独なひびきは月に憑かれたピエロを思わせる。ペトラルカのソネット(4楽章)で官能的な表現ののち突如バリトンが中世歌を歌いだすのは弦楽四重奏曲第二番で無調宣言とともにソプラノ独唱を加えたことを思い出させる(ここでは十二音技法が試みられた)、この人独特の感性によるものだろう。ハイドンのような眠りを許さない。また多くの部分にマンドリンが導入されメヌエット(2楽章)などでは諧謔的な風味を加えるとともに、「小夜曲」であるからこそマーラーの「夜の歌Ⅱ」の世俗的用法をも意識しているかもしれないと思った。シェーンベルクはヴァイマールのひととき世俗音楽にも手を染めているだけあり音楽は高尚なだけではなく人心に寄り添うことも必要だと感じたのか(私にとっては心の乱れ狂った時に寄り添ってくれる作曲家なのだが)、「何らかの」主義主張を抽象化しておさめたのだろう。バスクラやヴァイオリンといった楽器にくわえそういうものを使うことでとにかく耳に新しく聴こえる音楽になった。冷えた抒情は慣れてくればちゃんと音楽として聴ける。音列技法というのはわかってしまえばそういうものとして聴ける(これは頭の切り替えであり混乱ではない)、厳格なまでのセオリーに基づくものであるからこそ意味がある。それだけを使うのも20世紀的には袋小路だったが。ここまでこんなに思い入れない曲について書いているのはロスバウトのせいである。ものすごく見通し良くきわめて緊密なアンサンブル、さらに音の太さ大きさにも厳しく指示を与えたかのようなバランスよさ。モノラルだが面目躍如とはこのことである。同曲は新ウィーン楽派と浅からぬ仲のクラスナーでたしか二種、現役はミトロプーロス指揮のもの(おそらくミトロプーロスがシェフでクラスナーがコンサートマスターであったミネアポリス交響楽団のメンバーによるアンサンブルか)だけ持っていたかと思う。

シェーンベルク:ピアノ独奏付きヴァイオリンのための幻想曲op.47

マカノヴィツキー(Vn)ノエル・リー(P)(meloclassic)1963/3/29live南ドイツ放送・CD

単にヴァイオリンとピアノのための幻想曲とも表記される。最晩年作であり先鋭さや厳格さより「音楽性」をとった感もあるが、それよりもかつてのウィーンへの追憶を抽象化したが如く重音の官能性はベルクを、とつとつと、時折走る点描的な表現による思索性はウェーベルンを想起させられざるを得ない。だが編成からしてもあくまで簡潔で、展開は依然シェーンベルク的でやや古風な印象もあり、晩年作にしばしば見られる焼き直し感や日和った感は全くしない。これは6分あまりの短い曲にも関わらず多くのことを学ばせる。今でも頻繁に演奏され、グールドの声掛けで録音されたメニューインの録音は有名である。現代作品にも優れた適性を示すこのコンビにおいては、硝子細工のように見通し良く生臭さのない、かといって血の通った生き生きとすらした印象を受ける。同じ盤に入っているストラヴィンスキーのコンチェルタンテとはえらい違いで、芯の通った楽曲となっており(むろんその技法に支えられたものだが)、心のささくれだったときに共感するシェーンベルクの音楽であるが、これは冒頭を除きむしろ現代に生まれ変わったロマン派音楽のような、何とも言えない味がある。何度でも聴ける音楽だし、もう理由を伝えるにはスコアの分析くらいしかないのかもしれないが、とにかく名曲である。そして、名曲であることをストレートに伝える完璧にシェーンベルク的な、否、ウェーベルン的な、豊穣にして簡潔な演奏である。余計な解釈もなく、計算でできるものではない。模範だ。それにしても良い音の奏者である。太過ぎず細過ぎず、品格ある色艶を安定した技巧のもとに煌めかせている。古典派も非常に上手く、ボウイングに絡めた細かいヴィヴラートの使い方が極めて上手い。

シェーンベルク:浄夜(1943年版)

○エリアスベルク指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)1976/4/19live・LP

オケがいいのか分厚い音響で乱れも少なくよくできた演奏となっている。それほど揺れず進んでいくスタイルであるがゆえに乱れをきたしにくいのかもしれない。この曲はけっこう細かい音符で雑味を呼び込むことが多いが、版の問題もあるかもしれないけれど、ここではほとんど気にならない。○。

シェーンベルク:弦楽のための組曲ト長調

○フリッチャイ指揮BPO(audite)1949/11/28チタニア・パラストlive・CD

古風な組曲との原題どおり調性音楽として書かれており、旋律要素もはっきりしており、構成要素の呼称から新古典主義の作品であることは明白だが、世紀末ウィーン風とでも言うべき半音階的進行や音色効果は、初期作品から生臭さを抜いて職人的に仕立てあげたふうであり、そのくせなかなかにくせ者な技巧がちりばめられている。とても人好きするが、それはアイヴズでいえば三番交響曲のような位置付け、決して模索の結果の到達点ではなく一種妥協の意図せぬ成果というか筆のすさび的なものと考えるべきだろう。ツェムリンスキーを想起するくらい逆行しているのだ。フリッチャイは比較的余裕のあるオケから溌剌とした輪郭のはっきりした音を引き出している。よく響きが整えられ作曲家の創意をわからせる配慮が嬉しい。○。

シェーンベルク:歌曲集「架空庭園の書」

○ダンコ(SP)ルーター(P)(audite)1955/11/3・CD

シェーンベルクが無調への突入を宣言した記念碑的作品だが15曲のゲオルゲの詩による歌は決してそれまでのロマン的な世界~多分に夜の雰囲気を孕んでいる~より離れていない。技法的にはともかく作品的にはアイヴズの歌曲と遠からずの現代的抒情が漂い、シェーンベルクの前衛的なのちの作品にみられる一見荒んだような「自由な」世界にはまだいたっていない。シェーンベルクのような作曲家は時代と切っては切り離せない。厳しく荒んだ心にのみひびき、安穏とした心には毒である。これはまだ毒になりきれていない。スザンヌ・ダンコの抑制された歌唱を楽しもう。ピアノの奏でもさらりと美しい。

シェーンベルク:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲

○ヴァルガ(Vn)クルシェネク(P)(audite)1951/9/24・CD

後期作品にもかかわらずシェーンベルクらしいというか、ヴァイオリンが色っぽい。縮緬ヴィヴラートを駆使するソリストのせいもおおいにある。クルシェネックのピアノは素晴らしく鋭敏。それに対して少し前時代的すぎる演奏かもしれない。○。

シェーンベルク:室内交響曲第1番

○フリッチャイ指揮RIAS交響楽団のメンバー(audite)1953/1/10放送音源・CD

演奏日異説あり。15楽器版による演奏でフリッチャイの鋭い発音が曲にマッチして、響きのぬるまゆさより厳しさが伝わる熱演。だがライヴ的な軋みが詰まらない怜悧さを遠ざけ耳馴染みよくしている。わりと旋律性があり初期シェーンベルクらしいピチカートなど駆使した音色変化の面白さにも惹かれるいっぽう、単一楽章に多要素を押し込めたけっか散漫な印象も与えるが、この演奏でも山場がわかりづらく終始テンションの高い弦楽器と、数では勝るはずが余り引き立って来ない管楽器のひたすらわたりあうアンサンブルをきくのみになってしまう。曲の問題か。マーラーの夜の歌を想起するフレーズがあるが全般はやはりブラームスを突き詰めたかんじだ。○。

シェーンベルク:浄夜(弦楽合奏編)

○ストコフスキ指揮ヒズ・シンフォニーオーケストラ(guild他)1952・CD

わかりやすい。確かに弦楽合奏としては最初からバラケがみられ現代の精度からすると失格、というところもあるのだが、ロマンティックな内容を分厚い響きでうねるように表現していく、シェーンベルク特有の薄い響きとブラームス的構造のアンマッチをそういうものでカバーしていくのは、やはりストコの腕というよりほかない。曲の魅力がわからない、という向きには勧められる。ただ、録音は古い。○。guild盤、私のプレイヤーだと飛ぶ場合があり、PCなど専用機ではないものにかけるとうまく再生できない可能性あり。長い収録時間の最後の長い曲だからか。

シェーンベルク:ワルソーの生き残り

○ハイドマン(語)シェルヒェン指揮ダルムシュタット歌劇場管弦楽団他(tahra)1950/8/20・CD

非常に評し辛い曲だ。この曲に演奏評というのは成り立つのだろうか。ウェーベルンを評するほうがまだたやすい。シェルヘンが徹底的に擁護した作曲家であり、その腕がまた確かだったことは伺える、程度にしておこう。音はやや悪い。

シェーンベルク:浄夜

○スペンサー・ダイク四重奏団、ロッキア(2ndVa)、ロビンソン(2ndVc)(NGS)1924/10/10、12/30・SP

これも正規WEB配信化がなされている。スペンサー・ダイクというヴァイオリニストが構造のしっかりしたブラームスっぽい音楽に向いていることがよくわかる。時折混ざる奇妙なコード進行を除けば単純化された後期ロマン派室内楽そのものとして聴こえ、しかしそれほど噎せ返るような音色感は出さず、程よい温もりのあるイギリス的な音できっちりと締めている。ずいぶんと古風ではあるが聴きやすく、いい演奏だと思う。苦手なくせに譜面まで持ってる私だがこれなら聴ける、というか譜面と突き合わせると何か見えてきてしまいそうなので突き合せません。○。

シェーンベルク:地上の平和

○ヘルムート・コッホ指揮ベルリン放送ゾリステン他(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LP耳馴染みの良い宗教音楽のような曲なので拍子抜けするが、これはこれで美しい。シェーンベルクはこういうのも書けたのだなあ。コッホの指揮は過不足無し。○。 ,

シェーンベルク:浄夜~弦楽八重奏版(原曲)

ハリウッド弦楽四重奏団他(CAPITOL)部分的にはワグナー系なのだけれども、この室内楽編成の原曲で聞くとやっぱりブラームスっぽさは否めない。というかブラームス的な繰り言がブラームス的な緻密な響きを伴ってひたすら耳に流し込まれる、これが好きモノには堪らないのだろうが、私は正直退屈で堪らなかった。とはいえ原曲であるからまだ救われているように思う。弦楽合奏でやるには音楽が厚ぼったすぎる。せめてどこかにマーラー的なものがあったなら魅力を感じられたろうが、うーん、私の全くの個人的な好みからすれば「無し」である。演奏がまたワグナー/マーラー風のくぐもりを取り去って単にブラームス的な構築性だけを押し出しているから尚更そう感じるのかもしれない。ツェムリンスキー的と言ったほうがいいのかもしれないが、総合的に、無印。いや、たぶん八重奏版としては第一級の演奏だということは予測できるが。,

シェーンベルク:室内交響曲第2番

ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(LIVE SUPREME:CD-R)2003/1/25live 二楽章制。1番に比べよく練り上げられ、無駄が無い(30年以上も暖めていたのだからあたりまえかもしれないが)。1楽章は妖しい響きを持ち、ちょっとフランス的な感じもする。調性はあるのだが、不思議な印象をのこす。アイヴズの音楽を思わせる。2楽章はマーラー、リヒャルト・シュトラウス、あるいはフランツ・シュミットを想起する音楽で、しかし贅肉をこそげ落とした凝縮された音楽になっている。ブーレーズの演奏はこの楽章をとてもスマートで透明な音楽として描き、言ってみればフランス近代音楽のように響かせていて面白い。全体のハーモニーの移ろいを重視し、個々の楽器については自己主張を許さないかのような指揮ぶりも、この曲に関してはアリかな、と思う。だが無印にしておく。,

シェーンベルク:室内交響曲第2番

ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(EN LARMES:CD-R)2003/6/17LIVE 面白くない。現代音楽的に演奏するならこの曲は長すぎる。主張がどこにあるのか、近視眼的には配慮の行き届いた純度の高い音響の堆積ではあるけれども、全体としてのまとまりに欠けている。無論曲のせいもあるのだが、最後まで退屈だった。シェーンベルクは物語性がないとだめだ。無印。,

シェーンベルク:室内交響曲第1番

ブーレーズ指揮ウィーン・フィル(LIVE SUPREME:CD-R)2003/1/25liveブーレーズが冷たいのは昔からだから仕方ない。問題はウィーン・フィル(メンバー)の冷血ぶりで、ずいぶんと見通しはいいが、感情移入しづらい人工的な演奏に仕上がっている。ウィーン・フィル(メンバー)は機能的には高水準だが昔ながらの艶がまったく感じられない。冷美、という言葉をウィーン・フィルの演奏に当てはめる事になろうとは思わなかった。無調前のシェーンベルク、リヒャルト・シュトラウスの影響色濃い時期のシェーンベルクらしい、生ぬるく気持ちの悪い(ファンのかた失礼!)雰囲気を漂わせる曲だが、ブーレーズの手によって全ては結晶化された。シェルヒェンの演奏もある意味結晶化したものだが、ブーレーズほど徹底してハーモニーの縦をそろえたものではないため、その崩れ具合が却ってこのシェーンベルクの(たとえば「浄夜」のような)悪趣味な音楽(ファンのかた失礼!)の出所を明らかにして、結果として原曲の目したものを抉り出すことに成功している。ブーレーズのそれからは、生臭いニオイが漂ってこない。新ウィーン楽派の側から見た調性時代のシェーンベルク、という視点、ブーレーズらしいが、ブーレーズのマーラーを知る立場からするともっとマーラー的な分かり易い音楽を組み立ててほしかった。この演奏はわかりにくい。アンサンブルもさほど緊密ではないし(何か求心力のようなものがなく、捉えどころのない音がいくつもきらめきながら通り過ぎていくような感じがする)鈍重さも感じる。原曲どおり15の独奏楽器でやったほうが緊密でよかったかもしれない。無印。単一楽章。,

シェーンベルク:室内交響曲第1番

デルヴォ指揮コンセール・パドルー管弦楽団(DIAL)現代音楽の貴重な音源を提供していたダイアルのLPは次々とCD復刻されているが、この盤はまだではなかったか。デルヴォーのきびきびした指揮と昔懐かしい艶のある音色(それであるがゆえに音程が二の次になっているけれども)をきらめかせるパドルーのおりなすちょっとフランスふうのシェーンベルクの登場である。かなり他の盤とは印象を異にする演奏で、録音が悪いのが玉に傷だけれども、生々しくしかしスピード感のある演奏である。最初はかなりごちゃごちゃっとするが次第に雲が晴れ、木管と弦が室内楽的にからみあうさまが、音が薄いだけにひときわよく聞き取れる。シェーンベルクのマニアっぽい複雑な構造がきちんと噛み合わされないままに勢いだけで進んでいくような音楽は独特。内声部がよく浮き立ってきていて、むしろ旋律的な音が沈んでしまうきらいもあるが、新奇なひびきをタノシムのには最適。マーラー「夜の歌」に似た音形があるがほぼ同時期の作品(初演はこの曲のほうが先)なだけに興味深いものがある。最後にふたたび冒頭の回想があるがここでやっぱりごちゃごちゃっと乱れているのが残念。,

シェーンベルク:室内交響曲第1番

シェルヒェン指揮スイス放送管弦楽団 ORCHESTRE DE LA RADIO SUEDOISE(TAHRA)1955/11/6 WESTMINSTER盤評参照,

シェーンベルク:室内交響曲第1番

シェルヒェン指揮ケルン放送交響楽団 ORCHESTRA E CORO DI RADIO COLONIA(STRADIVARIUS)1959/3/2 WESTMINSTER盤評参照,

シェーンベルク:室内交響曲第1番

ゲール指揮ベルリン室内管弦楽団(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LPモノラルだが擬似ステの盤を買ってしまった。失敗。左右の感覚が気持ち悪い。奏者の我の強い演奏ぶりで、やや耳につく。勢いがあり歌謡的だがどこか冷たい音も、どうなのだろうと考えてしまう。シェーンベルクは生温くやると気持ち悪くなるのでこの音がいいのか、とも思うが。各楽器がバラバラで融合しないのは擬似ステのせいだろう。とにかくキンキン五月蝿い。面白いけれども。無印。,

シェーンベルク:室内交響曲第1番

◎ブール指揮ベルリン・ドイツ交響楽団(TOE:CD-R)1968精度の高い演奏だ。鋭角的なアンサンブルを構じたうえで、熱気溢れる音楽作りをしており聞きごたえがある。ブーレーズのような無機質さがなく、精度と熱気のギリギリのせめぎあいというのだろうか、このライヴ感は難解なシェーンベルクというイメージを覆し、ひびきの美しさだけではない音楽の本質を知らしめてくれる。マーラー臭が濃いのも特徴的だが、こういう演奏スタイルだからこそ臨界点の音楽マーラーの影響が浮き立ってきたのだろう。付点音符付きの行進曲音形はマーラーの6番あたりを思い起こさせるし、そのほかにもいろいろと聞こえてくる。録音も悪くないし、気持ちの悪くなるようなマニアックに入り組んだシェーンベルクの音楽を手の届くところに持ってきたその手腕は素晴らしいものがある。今まで聴いてきたこの曲の演奏で一番耳馴染みがよかった。さすが現代音楽の十字軍の末裔ブール。◎。,

シェーンベルク:室内交響曲第1番

○シェルヒェン指揮アンサンブル(westminster)1964/6ステレオで圧倒的に音のいいウェストミンスター盤をとりたい。この曲は細かな(マニアックな)仕掛けが数多くある。細かい音の蠢きをとらえられないと、この曲の真価・・・それはもはやロマン派的発想ではない・・・はつかめないだろう。その反面、ロマンティックな発想に基づく、たとえばマーラーのような音楽を求めた場合、ライヴ感溢れるストラディヴァリウス盤のほうがしっくりくる可能性もある。曲を分析的に捉えたければウェストミンスター、ノリで捉えたければストラディヴァリウス盤、とでも言っておこうか(ターラ盤はその中間といった感じで半端だ)。前者はほぼ無調音楽に聞こえる。しかし後者はまさに末流ロマン派音楽に聞こえる。オケのせいもあるだろうが、この差異は非常に興味深いものがある。未だ爛熟した世紀末音楽の香りをのこすものとして、作曲家をして「私の第一期最後の作品」と言わしめたことからも、この作品の過渡的(両義的)位置づけが読み取れるだろう。私は「浄夜」や弦楽四重奏曲第一番、「グレの歌」「ペレアスとメリザンド」といった「第一期」作品を好まない。爛熟というより腐れ果てたようななんとも生臭い香りを感じてしまうからだ。(マーラーと近しく、素材にも影響が聞き取れるのに、聴感がなんでこんなに違うんだろう、とも思う。)しかし、この室内交響曲第一番は、生臭さが抜け、凝縮された編成にマニアックなアンサンブル、硬質な響きの感覚、高度に技巧的でよく書き込まれた譜面が、「次の音楽」を予言する。なかなかに興味深い曲。シェルヒェンは抜群ではないかもしれないが、ふたつの方向からこの曲を奏でる事に成功しているのだ。(ストラディヴァリウス盤は1935年版との表記あり),

シェーンベルク:月に憑かれたピエロ

レイボヴィッツ指揮ヴィルツオーソ室内アンサンブル、セムセル(SP)パリー(P)(BAM)モノラルだが音は冷たくクリア。シェーンベルクの記念碑的作品で、その独創的な響きと神秘的な雰囲気はラヴェルやストラヴィンスキー、ミヨー、オネゲルなどフランスの音楽家にも強いインパクトをあたえた。アプローチ方法は違うものの、フランス現代作曲家の志向するひびきの音楽と感覚的には同じである。レイボヴィッツはフランスの作曲家・指揮者だがシェーンベルクに師事し、シェーンベルクの作品を多く指揮した。硬質の響きの交錯とおしゃべり的歌唱の奇矯さは、ともすると気が狂ったような感覚をおぼえるものだが(たぶん1分と聞けない人もいるはず)レイボヴィッツは何らかの意味付けをするように首尾一貫した音楽作りを目指しており、いくぶん聴き易い。古い録音なので歌手の声がややオールドスタイルなのは仕方ない。この演奏を聞きながら頭に浮かんだのはメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」だった。もっともこちらはまだ無調の作品なわけだが、結局調性を失った音楽というのはそこに一定の秩序があろうがなかろうが素人耳には同じにきこえるというわけである。気分の余裕があるときにはこんなものを聴くのもいいかもしれない。,

シェーンベルク:ワルソーの生き残り

シェルヒェン指揮ダルムシュタット劇場管弦楽団他(RCA)1950/8/20結局この人は半世紀近く使ってどのくらい進歩したのだろう。この曲は過度に肥大傾向にあった時期よりそうとうに洗練されてはいるが、室内楽的な緊密さを指向した「月に憑かれたピエロ」あたりとはどっこいどっこいではないか。音列手法もフツーの耳からすれば無調と何等違ったところのない雑音。この人の「オンガク」っていったい・・・とちょっと考え込んでしまう私はじつはシェーンベルク(から立ち昇る生臭いニオイ)がもともと苦手なのだが、この曲は嫌いではない。短いし、過剰な演出も無い。とくにこの演奏はシェルヒェンの手によるだけあって、何かを訴える力がある。しかしその「何か」とは?セリフや題名に意味付けされたものとしては価値あるだろうが、純粋に音として聴いて、感動はあるか?空虚な響きに彩られた殺伐としたものだけを感じた。妙にささくれだったものを感じる以外に、何も感じなかった。それにしてもクーセヴィツキー夫人の追悼としてこんな曲を選ぶか普通(笑)。ストラヴィンスキーでさえ「オード」で追悼の意を表しているというのに。第二次大戦のもたらした惨禍をうたった曲は沢山あるが、ある意味(意味など無い、という意味も込めて)もっともカタストロフの真実に近いものを表現できた音楽であろう。これは演奏を聞き比べるたぐいの曲ではないが、とりあえず無印としておく。,

シェーンベルク:ワルソーの生き残り

○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団他(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LPとても美しく仕上がっている。文字通りの生き残りの男のモノローグから始まり、ガス室へ一人一人と送られる恐怖の感情の高ぶりに従ってささくれ立った(でも必要最小限に削り上げられた)管弦楽がヒステリックに叫び出す音楽だ。しかし透明でかつ人間的ですらあるケーゲルの演奏は、「聞けユダヤの民」の唐突な合唱にいたるまで一貫した美質に貫かれており、それはマーラー的な意味でロマンティックですらある。聞きやすい演奏なので機会があればどうぞ。私の盤には擬似ステレオ表記があるが、聞いたところかなり聞きやすく本当のステレオのように聞こえる。○。,

シェーンベルク:グレの歌

レイボヴィッツ指揮パリ新交響ソサエティ(音楽院)管弦楽団他(VOX),

シェーンベルク:グレの歌

ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団他(PEARL他)/(ANDANTE),

シェーンベルク:月に憑かれたピエロ

○ビェルクステン(語・歌)コリッシュ(Vn)オーバー他(archiphon:CD-R)1967/4/16live

録音はモノラルのライヴではまずまずか。室内楽編成でドビュッシーの延長上のような音響風景を更に点描的に簡潔化し、逆にミヨーをはじめメシアンらフランス近代の作曲家たちに影響をあたえた名曲である。無調といってもそこにはかなり旧来の音楽の痕跡が認められ、マーラーをはじめさまざまな作曲家へのオマージュ的な表現が聞いてとれる。それらもほとんどショスタコ的なまでに削ぎ落とされている。演奏は繊細で表出力のごり押し感のないもので、すんなり音楽的に聴ける。あくの強さがないので普通に面白い。心象的な音楽であり、ちょっと気に病んでいることのあるときにしっくりくる曲でもあるが(シェーンベルクは多かれ少なかれそういう曲を書いたが)これは別に通常時にも聞ける「ならされた」演奏である。作曲家ゆかりのコーリッシュはそれほど自己主張しない。語謡含め、わりとアンサンブル的な演奏である。○。

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