ディーリアス:舞曲(フェンビー編)

デュラン(fl)フェンビー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(EMI)1979版・CD

編曲元を寡聞にして知らない。舞曲と呼ばれる曲はラ・カリンダからのアリアと舞曲のフェンビーによる編曲(これはこのトラックのあとに収録されているので別物)、ハープシコードのための舞曲(これがディーリアスとは思えないような生ぬるい後期ロマン派で憂いのある同曲とは長さも違う)、チェロのための曲(不明)が確認できるが、何かの抜粋かピアノ曲かもしれない。三分弱のディーリアスらしい【踊れない舞曲】で、ほの暗いメロディに沿ってリズムを刻むさまはヴァイオリン・ソナタの中間楽章などでも聴かれる調子だ。鬱曲と言えよう。ただ、ディーリアス特有のオーケストラの重さが無いのは編曲作品だからか。演奏は良い。
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ディーリアス:イルメリン前奏曲

○フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD

唸るほど美しいヴァイオリンの音色。まだ単純な、それだけに純粋にメロディの爽やかな感傷と細やかなハーモニーにやられてしまう。フェンビーはほんとにこの音楽を愛している、もっと言うならディーリアスのメロディを愛している。バルビローリというメロディの異才がディーリアスにおいて独特の高みを示す一方、フェンビーは使徒としての十二分の役割を果たしている。とにかく、弦楽合奏の響きも黄金に眩く輝き、絶品。木管やハープも音色を損ねない。強いて言えばホルンに少し違和感があるが曲のせいだろう。

ディーリアス:弦楽合奏のためのソナタ(フェンビー編)

フェンビー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(EMI)1979版・CD

通常大編成版としては【去りゆくつばめ】のみ演奏されるものだが、これは編曲者が弦楽四重奏曲を全曲、四楽章すべて弦楽合奏用に編曲したものだ。単純に肥大化させたわけではなくソロの導入や奏法の工夫などしっかり創意も入れた編曲になっている。私は原曲から先に入ったので【去りゆくつばめ】即ち三楽章の【大仰さ】に辟易したのだが、鄙びた素朴な味わい、これはディーリアスが室内楽についてはあまり手を付けなかった理由、耳で聴くぶんにはボロディン2番めいた楽しさがあるものの、弾くと結構なんだかなーという偏ったアンサンブルの感じがあり、私の譜面にはビーチャムの手が入っている旨書いてあるが、やはり編成の大きく分厚い響きを動かしてこそのディーリアスであるのだろう(ピアノは別)。その点、フェンビーは純粋な【ディーリアス節】を取り出し、軽やかな味付けを施すから、いわばディーリアス晩年のフェンビーが口述に基づき書いた作品にとても近い聞き心地がする。【夏の歌】が好きなら比較的楽しめるだろう。四楽章構成で聴くと案外いけるなあ、と思ったのは、編曲者自らの指揮であるせいもあろうか。オケもリリカルで、専門室内楽団に要求されるようなキリキリするほどのアンサンブルの力は無いが、それが鄙びた民謡風味にもあっているか。【去りゆくつばめ】はただ、原曲をお勧めはする。あの哀しみ、ディーリアスの愛したつばめが今年は遅く飛び立っていった、心象的な、微細な音符の動きは大編成には不向きだ。

ディーリアス:遅いひばり

ロルフェ・ジョンソン、フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1981/3/31-4/2・CD

恍惚とした穏やかさの上にしめやかに歌い上げられる。フェンビーの作曲家への愛情が感じられる。ディーリアスにしては単純で、ただ和音をゆっくり揺らすだけの管弦楽は、このいかにもディーリアス好みの主題を静かに盛り上げる装置に過ぎない。歌唱は驚くほど幅のある声色を上手に使い分けてフェンビーに同意する。ディーリアスらしい小品。「遅いひばり(去りゆく雲雀)」と「遅いつばめ(去りゆく燕)」は別の曲。後者は原曲弦楽カルテットなので根本的に抽象度が違う。これは直接的である。

ディーリアス:夏の歌

○フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD

作曲家晩年の右腕以上の存在であった、エリック・フェンビー。四肢は萎え視覚を奪われた作曲家の口述する素材に基づき、ほぼ編曲するように仕上げた作品の、当人による録音である。さすがに感情的なものが感じられ、極度に純化された単純な旋律と和声、構造のうえに展開されるドラマチックにあけすけな気分を、音色においてはさほど配慮していないが、明るく透明なロイヤル・フィルの弦楽を素直に煽って「ディーリアスの夢想」に迫ってゆく。バルビローリがその歌心を存分に発揮した名演があるので、それに比べれば無機質な響きが気になるかもしれないが、これはフェンビーの作品としても最高傑作と言えるわけで、その人がこうやっているのだからこちらのほうが、扇情的過ぎない方がディーリアスの性格的にも正しいのだろう。良い演奏である。フェンビーは他にも録音があるのではないか。

ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲

ホルムス(Vn)ハンドレー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1985版・CD

世紀末音楽を代表する作曲家としていっとき流行ったディーリアス。しかし昔からディーリアンという黄昏時に浸り込むマニアを集めてきた人であり、半音階の多用と風変わりな和音進行の目立つ取っつきづらい掴みどころの無い作品が、突然何物にも替えがたい世俗と隔絶した傑作に聴こえることがある、そういった特色を持つ。この作品など特にそうで、この演奏は比較的大作りで丁寧だが尚一層、そういうやり方をされると何を聴かされているのか最初はわからないだろう。同じような音が、同じような和音を載せてうねうね上下する旋律線に寄り添い、その幅はけして広くない。マンネリズムを感じさせる(これに浸れるかどうかがディーリアンになれるかどうかの境目)。オケはこれまた真骨頂的に美しいだけでなく、変な音で絡んできたりして奇妙な後味を残す。新世紀の扉を開けたドビュッシーが評したようにただ美しい三和音だけの作曲家、民謡音楽を用いて心象的な表題付音詩を紡ぎ上げるだけでなく、複雑な要素を注ぎ込み協奏作品など抽象音楽にも取り組んだ意欲的な時期のディーリアスの作品であるからして、ファーストチョイスには向かないけれど、慣れてきたら割と細かく聴いていくと独特の書法が面白く、それが有機的に繋がり連なっていくところで初めて浸り込む要素を見出すことができよう。とくにヴァイオリン協奏曲は協奏曲の中で一番良く書けているので、取り組んでみるのも一興かもしれない。

ディーリアス:春初めてのかっこうを聴きながら

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(pye/Dutton他)1956/6/21・CD

「牧歌」を中心に5曲PYEレーベルへ一日で録音された中の一曲だがこれが最もバルビローリの美質を表した、また個性を発揮したトラックと言ってよいだろう。別項にも挙げた新しい音源ではなおさらそうだが、もはやディーリアスかどうかよりバルビローリの弦楽器に対する偏愛~チェリストであった(バッハの無伴奏抜粋はCDにならないのだろうか)~がいかに曲と同化して感傷の極みを聴かせられるか、といったものであり、しょうじきマーラーなど金管が表面に立つ曲では裏目に出ることもあるのに対して、けして典型的イギリス人として生きたわけではないディーリアスが、自らイギリス民謡への偏愛をはじめとしたその情景への憧憬を抱えていたことは音楽が語っており、フランスに生きた(同時にドイツは血の故郷であり出世までの重要な支持国であった)ことが作品の機械的構造に影響したことは否定できないが、「北国のムード」でさえグリーグの北国ではなくスコットランド国境っぽい、バルビローリもまたイタリア歌劇に並みならぬ適性を示しそのルーツもはっきりイタリアなのに、RVWやディーリアス(ホルストはほとんどやらなかったがボールトがいたせいか・・・ディーリアスもビーチャム存命中はほとんど記録を残していない)には「そこまでやらなくても」という「イギリス演歌」というような「イギリスこぶし回し」がきいていて、いや、変なイメージは植えつけるまい、これを聴いてその世界から抜け出せなくなる人が出たこともうなづける「ディーリアンの理想とするディーリアス」を体現した演奏になっている。没入具合もさることながら木管、カッコウの声の模倣ですら具象性を失い音楽に耽溺してしまう。ほめすぎたが、さすがにこれをながら聴きできるほどイギリス嫌いではない、私も。

ディーリアス:イルメリン前奏曲

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(pye/Dutton他)1956/6/21・CD

LP時代の名盤で永らくPYEレーベルの事情によりお蔵だったが今では各レーベルが盤にしている。ステレオ初期で良い音とも言えない音源だが、ダットンなど少しデジタルな加工が音を硬くしている感もある。LPとは少し違うイメージだ。バルビローリの慈しむような弦楽器の扱い(弦楽器だけ注力してあとは木管がソロをきれいにやれば、法悦的なディーリアスはできあがってしまう)が音色にまで及んでいることを、きちんと聴くには復刻状態も重要な要素だ。この曲は前時代的なロマン派で和声的な特徴も少なく、メロディ一本槍。そこがバルビローリ向きだ。メロディだけでもディーリアスであるところがまた、おもしろいところではある。

ディーリアス:ピアノ協奏曲

フォーク(P)デル・マー指揮RPO(UNICORN)1991版・CD

いかにも古臭い曲で両端部で少し妖しい和声が世紀末ディーリアス感をかもすほかはほとんど前時代の遺物、すなわち同時代に世にあふれていたであろう二流作曲家のロマン派協奏曲ふうである。どこかで聞いたことのあるような代物で、これの原総譜が返却されないことに怒っている代筆書簡を持っているが、なんでこんな曲にすでに個性的作風を確立していたディーリアスがこだわったのか理解不能なところもある。新しい録音でも、これが単一楽章のまとまった曲でなければ聴いてられない・・・と私は思う、そういう曲である。

ディーリアス:チェロ協奏曲

デュ・プレ(Vc)サージェント指揮RPO(EMI他)1965/1/12,14・CD

とりとめもなく比較的高い音域で途切れもせず歌い続けるチェロと和声的に絡み合いまた途切れ途切れに支えていくオケ、24分半あまりをこの調子で単一楽章で通すというのは弾く方ももちろんだが聴く側は睡魔を禁じ得ない。美しいしきちんと構成され有機的に絡み合った要素の集合体なのに、ぜんぶ同じに聴こえる。ゆえに演奏機会は少ないのだろう(ヴァイオリンとて同じようなものだが)。平易さが特徴的なのでデュ・プレもじっくり取り組んでおり表情をつけようと頑張っている。デュ・プレにしては太くしっかりした音だ。オケは職人的にうまくつけてくる。半音単位で重なってゆく分厚い響きを綺麗に整えあげてディーリアスの音楽を損なわないようにしている。半音で揺れる旋律の気まぐれな連なりの中にはモダンな雰囲気を持つ調性の不明瞭なものもあり、取り出してみると部分部分は面白いのだが、まあ、普通はそんなこと考えず「浸るため」だけに聴くBGMかもしれない。こんな綺麗な曲書いておきながら渡仏後はピカソたゴーギャンだムンクだミュシャだと並み居る20世紀の立役者たちと社交的に付き合い、羽目を外すことも…それが死へつながる病を得てしまう原因…多かった。画家イェルカと出会ってからはその行動はストイックになったようだが、逆に「ディーリアン」しか相手にしないこのような曖昧模糊とした耳触りの良いだけの黄昏をえんえんと書いてしまっても文句を言われなくなったのだろう。長いだけに聴きやすい部分、前衛的な部分も盛り込まれ、ラストでは一時期親しくしていたヴォーン・ウィリアムズを思わせる田園の中に消えてゆく。佳作に佳演、これ以外あっても同じになるだけか。

ディーリアス:春一番のかっこうを聞きながら

ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(columbia/somm) 1927/12/19・CD

作曲家存命中の演奏であり、20年代はまだホールに臨席していた記録があるから聴いていた可能性がある。しかし時代が時代。もともと旋律的ではあるのだが明瞭に描きすぎて、林に残るかっこうの声とのコントラストが際立たない。耳優しくもはっきりとした鳥の歌を、厚い和音で埋め尽くすディーリアス全盛期の作品、ビーチャムの芸風は一貫して速くしっかり、だが情緒の必要な部分は慈しむようなフレージングで作曲家以上に曲を知り尽くした様、だが録音がこうなので参考に、というくらいか。オケはさすがのロイヤル・フィルではあるが音色の明るく輝かしいところは聴き取れず他のオケと技術面以外のメリットは無いように聴こえる。そっとやってくる春を味わうには晩年の優秀な録音を取るべきだろう。

ディーリアス:ブリッグの定期市

ビーチャム指揮交響楽団(columbia/somm)1928/12/11、1929/7/10・CD

フルートの序奏からさっさと始まりオリエンタルなフレーズ(五音音階は田舎のイギリス人にとってはオリエンタルでもなんでもないだろうが)を強調することなくいきなり進む。しかし、やはりこれは50年代の録音同様に冒頭だけで、短い民謡旋律に注意深い変奏を加えていく中身は旋律に耽溺しまくる。この曲はディーリアスが初期に簡素なオーケストレーションでただ民謡を洗い直すだけだったり、全盛期に常套的な濁った和声を駆使し半音階で煙に巻いたりしたものとは異なる過渡的な時期のもので、元となった民謡を歌曲翻案したグレインジャーの直接的影響も大きいだろうが、薄く明るい響きを保ちながらハープなどフランス風の綺麗な装飾を加え木管中心で進めつつも、フランスのそれとはまったく異なる優しい民謡は旋法的な特性を上手く引き出されて、まったくの旋律音楽として編曲され、部分的にはのちの半音階的な曇りを持ち込まれているとしても世俗性を感じさせない。それだけに、ここまで煽ってもあまり臭みはなく、ただただ感傷的な風景を想像させるのみである。田舎の市場の音楽だが、それは都会の想像する理想の田舎でもあり、ビーチャムは生粋の都会人だから単純な愛の歌をこう抽象化してなお感情を煽れたのだろう。良い音。

ディーリアス:ダンス・ラプソディ第一番(ビーチャム編曲)

デル・マー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1991版・CD

これはちょっとディーリアスだと言われても、、、ディーリアスの魅力は管弦楽の扱いが不可思議なところで、ここまで「一般的」で、こなれた編曲されてしまうと、主題だけ持ってきて、和声からリズムから編成から楽曲構成からまるきり別人がやったのか、よっぽど初期作品なのか、忘れ去られたたぐいのオリエンタリズム狙った劇の断章なのか、というところ多々で、ディーリアスとして15分も聴くのはちょっと辛い(すべてがすべてディーリアスらしくないわけではないが)。同じアルバムに入っているフェンビー指揮のディーリアスに比べまるきりプロフェッショナルな仕上げ方をしてしまっている、というのもおかしな言い方だが、二番とされるものより、ラプソディックな各要素が露骨であり、後半に「和声的な音楽」と化していくところでやっと違和感が薄まった。

ディーリアス:ダンス・ラプソディ第二番

フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD

妙な味のする曲で、ディーリアスっぽさが薄まり、前期の軽い雰囲気、ドビュッシーにおける「春」のような明るく典雅な中にも、気まぐれに創意の散りばめられた飽きさせない構成が面白い。劇的な不安、オリエンタリズムが織り交ぜられたり、まさに狂詩曲だ。散文的で、ワルツ主題がそれほど引き立ってこない管弦楽曲。演奏が重いがオケの音色のためにどんよりとはしない。音楽に印象派があるとしたらこういうのこそ印象派と呼ぶべき。田舎臭い民謡、木管の挿句がまた都会的なものと入り混じって不可思議だ。

ディーリアス:幻想的舞曲

フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD

こういう歪んだワルツ好き。何かの編曲か抜粋だと思うが、いつものディーリアスの半音階、常に厚い響きの動き方は定形化しているし、旋律の展開もいつものディーリアスのやり方、最後は前期っぽいチープな明るさも出るが、ラヴェルやプロコフィエフも玩んだウィンナーワルツのこれもまた奇怪なパスティシュなのか。とにかく主題がディーリアスのワンパターンにはない魅力的なものなので、短いですが、できればもっとこなれたワルツの歌い手の振ったものにてどうぞ。音色や録音は良いんですけどね。

ディーリアス:歌劇「マルゴ・ラ・ルージュ(赤い鸚鵡)」~前奏曲

メレディス・デイヴィス指揮ロイヤル・フィル(EMI)1968版・CD

ラヴェルが編曲したので有名な歌劇からの3分半の抜粋で、なんてことはない小品である。歌劇全体も録音が出ているが、なかなかの出来栄えで、その全体をこの小品から窺い知ることは不可能である。演奏もぱっとしない。

ディーリアス:シナラ

ジョン・シャーリー=カーク(Br)グローヴス指揮王立リヴァプール・フィル管弦楽団(EMI)1969版・CD

10分の短い歌曲なので埋め合わせに使われることが多く、これともう一つトマス・ハンプソンがフェンビーと組んだものが唯の2つの録音として長らく、いろいろな曲と詰め合わせられてきた。現役だと思うが今はWarnerが超廉価盤に押し込んでいるだろうか。フェンビーのディーリアスは網羅していた筈だがunicornのディーリアスシリーズが手元に何故か揃わず、どこかへいってしまったので聴き比べができない。ディーリアス最盛期の作品ではあるが、ただ「日没の歌」から外され放置されていたものを最晩年になってフェンビーらの発見・助力により完成させられた。内容はダウスンの頽廃的で官能の香り漂う詩文に依り、これは専門のサイトでも見て読んでいただけると良い。ディーリアスは退嬰的な作曲家ではない。世紀末を体現する「官能的な」作曲家であり、「頽廃的な」作曲家であり、リヒャルト・シュトラウスらと同じ空気を吸い、グリーグからアメリカ南部の農場歌からドビュッシーの造る様々な色彩を貪欲に吸収して絵画的文学的背景に投影し結実させていった。歌詞を取り入れた作品と純器楽作品で印象が異なるのは音楽そのものというより、具体的な内容の影響がある。この作品を彩る音はもうディーリアス好きならどこかで聴いたことのあるような代物に過ぎない。遠目に見ればほとんど同じようなものである。最初と最後の静かなムードは、前者は同時期の、後者は晩年の作品に全く同じものを見いだせよう。中間部にかんしていえばドラマティックで、これは最盛期の歌劇作品にみられるものに近い。よく書き込まれてはいるが、やはり聴いたことがある。では、これは取るに足らないものなのか。

歌詞がある。シナラは遊女であり、これは若き者の恋慕の詩である。デカダンの臭い濃厚な、自分勝手な情熱の、生命力を生のママ抉り取ってみせたような印象が個人的にはある。ディーリアスは同時代者として、おそらく同じようなものを見て、同じような放蕩に溺れ、それを思い出してはこれを書く気になったのだろう。その内容があって初めて楽曲は他の器楽作品とは違う個性を確立できた。カークはうまく感情の起伏を過度にならずに歌い、歌詞の示すものを鞣すのでも過激化するのでもなく、グローヴス卿の冷静なオケに載って表現している。これこそディーリアスなのだというものを僅かな時間で実体験できる作品である。

ディーリアス:別れの歌

サージェント指揮ロイヤル・フィル、王立合唱ソサエティ(EMI)1965版・CD

何度も何度も復刻されている名盤、ディーリアス晩年の大規模な合唱曲である。米国詩人ホイットマンの草の葉から「告別の歌」5曲、原文を読まずとも内容はそのものズバリ、大地と自然すべてのものへの惜別であるから、ググれば一部訳文も出ては来るが、曲だけ聴いてもよくわかるし、正直歌詞が聞き取れなくても気持ちがわかるくらいに詠嘆しっぱなしで、むしろ詩は曲に合わせて作られたのではないかとすら思うかもしれない。特定の人間との生々しい別離ではなく自然の中に自ずとあらわれた別れのことばを描写したホイットマン、これは船出の姿でディーリアス自身も海を好んだと言われるが、英語で書けばマーラーの大地の歌「告別」とおんなじになってしまうものの、自己憐憫だの陶酔だのとは隔絶している。唯一諦念を感じさせるピアニッシモは共通するかもしれないが、ディーリアスの半音階は決して諦めを示してはいない。その人生の中に現れて消えたドビュッシーの語法をすら取り込むスケールの大きな世界の中で、ひたすらに眼前にあふれる美と、それとの別れを惜しむのみだ。眼前に見えている「はず」の美。当然作曲はフェンビーが手伝っていると思われるが、他の晩年作と比べて幾分まだ壮年期の力が残っているというか、ただただ旋律、ただただ和声のずれ落ちていくだけ、というわけではない。一時期おなじく晩年作の「夏の歌」にハマった私だが、あれはかなり単純化された音楽で規模も小さく演奏次第というところもある。こちらは原詩の存在によりディーリアス自身に残る強い「あこがれ」の意志が具体性を帯びてフェンビーに伝わり、ダイレクトに音となっているのだ。そうして、誰が聴いても感傷を負うことを余儀なくされる、そういったものではないか。サージェントは手際の良さというよりも合唱団やオケの持つ輝かしい響きが既に曲の性向に合っているとしてそのまま丁寧にまとめ上げている。今や古びた音かもしれないが初演者であるという感情もそこはかとなく感じられる演奏である(サージェントにそのての感傷は似合わないが)。

ディーリアス:夜明け前の歌

サージェント指揮ロイヤル・フィル(EMI)1965版・CD

サージェントらしく仕上げている。薄明の音楽、黄昏の音楽と評されるディーリアスの管弦楽曲は音を減らすのではなく音を詰めた状態で和声的に動かしていく、そこが同時代のフランス前衛音楽的な新しさにもつながり、一方でしっかり書き込まれた内声部は中欧世紀末音楽的とも言われる。変に感情的にもならずスマートな捌き方をしてこそ本質がバランス良く現れる。サージェントは、イギリス瑞逸のオケに相当メリットがあるのも確かだが、同曲に要求されるものを全てきちっと盛り込んでまとめてきており、輝かしいくらいの音色によってビーチャムの時代の新即物主義的な表現から一歩離れた美しい結果を残している。

ディーリアス:遅いつばめ(フェンビー弦楽合奏編、弦楽四重奏曲第三楽章)

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)1969版・CD

なんとも難しい曲で、はっきり言えば原曲を聴くべきである。原曲である弦楽四重奏曲もビーチャム監修の譜面が使われるが、これは四本以上の弦楽器を使って大袈裟にやる曲ではなく密やかに燕の旅立ちを見送る心象的な音楽で、こうも肥大化させてしまっては旋律の力が分厚いハーモニーの流れに負けてしまい、逆に和声のみ聴く音楽として割り切らないと、聴いてられない「恥ずかしい曲」になってしまう。繊細な和声そのものはディーリアスの真骨頂で半音階的に揺れるさまがワグナーとも一線を画した爽やかかつ諦観に満ちた独特のもので聴き応えがある。ディーリアス晩年の助手(以上の存在であることは何もディーリアスに限らず米英の大家ではたびたびあることだった)フェンビーの行為については賛否あるようだが、個別の三曲を弦楽合奏用に編曲して作った組曲に編入された(また弦楽四重奏曲全楽章を編曲し「弦楽合奏のためのソナタ」として自身で録音している)。バルビローリの録音についてはEMIではかなり編集したようなものがあり、実演記録とかけ離れた様式で神経質に整えられなめされたスタジオ録音(マーラー6番など)には違和感をおぼえる。お国ものであるRVWやディーリアスでも、弦楽器において「のみ」透明感、異様な調和を求めた感のする録音がある(自身がチェリストであるため弦楽器への要求が奏法の細部に至るまで、しかも楽曲によってそれぞれ異なったものまであったと伝えられる)。バルビ節と言われる特徴的な歌謡表現もむしろ抑え気味になってしまう。非常に残念な「タリスの主題による幻想曲」の録音の「継ぎ目」など、今はキレイにされているかもしれないが、カラヤンと同時代の人だったんだなあ、というところである。グリーンスリーブスも余り評価しない人がいる。とにかく響きの調和に神経質でかつボリュームがあり、現代的な意味で研ぎ澄ますことなく、ひたすら稀有壮大になってしまう。つまりこの曲もあんまりにも稀有壮大なのである。そんなにつばめが去るのが悲しいのか。原曲を知らないならこちらから聴いたらいい。原曲を知っているなら、あの悲哀を大声で叫びあげるような編曲に演奏なので、おすすめしない。いくらパセージによってソロやカルテット編成を混ぜ込んでも視覚的効果程度のものしか出ない。

そんな演奏なのに、なぜか末尾で綻びが出る。うーん。

ディーリアス:カーニバルに(ポルカ)

パーキン(P)(unicorn)1983版・CD

1885年のピアノ小品で無邪気なポルカそのもの。それ以上でもそれ以下でもない、軽い作品。演奏評不可。

ディーリアス:高い丘の歌

フェンビー指揮RPO、アンブロシアン・シンガーズ(unicorn)1984版・CD

ディーリアスの作品は単純→複雑→単純という流れがあると理解している。最後の「単純」は身の自由が利かずフェンビーらの手を借りたせいだ。「複雑」期においても右腕としてのイエルカ(ジェルカ)夫人のテクストや解釈者以上の存在だったビーチャムらの助力なくして成り立たなかったと思っている。この作品は最初の単純から複雑への過渡期で、単純期にみられた前時代音楽や異国の音楽からの影響、ロマン派的な「つまらなさ」は払しょくされ、旋律の抒情性を維持しつつ、半音階を織り交ぜた(しかしまだ濫用はしない)ドビュッシーとはまったく隔絶した「雰囲気音楽」に移行したものだ。和声的影響もほぼ無い、もしくはほんの要素としてしか取り入れられないからそれはむしろドビュッシーとは言えない(ドビュッシーはディーリアス評を一言だけ詩的にのべてはいるが和声的な面での「落ち着き」を皮肉ったようにも取れる)。複雑な時期の思索的雰囲気はまだなく、素直な曲想が多いものの、連綿とつづく風景に、これが凄いのだがまったく飽きを感じさせずに大規模交響詩として、ほの明るい表現に終始する。ちっぽけな「人間」を象徴する無歌詞合唱はフェンビーにおいてはかなりそくっと、控えめに入っていて、後年的な自然そのものを描いたようには聴こえない抽象音楽の起伏に寄り添う。フェンビーは手慣れたもので初演をになったオケも、この輝かしい音を前提に演奏されてきた曲なのだなといった風。きらめくひびきにレスピーギの「ローマの噴水」終曲の影響を感じる方もいると思うが作曲年は先んじている。音の少ない心象的表現が高音のピチカートや打楽器など剥き出しでとつとつと現れるところ、レスピーギとともにホルストを思わせる、これは親交あったヴォーン・ウィリアムズの「理念」にも通じる表現で、ディーリアスなんてドイツで名を挙げてグレ・シュール・ロアンで一生を終えた外国系の人じゃないか、と言う人はもっと聴いた方がいい。これはイギリス的な音楽への「布石」である(言うまでもなく「惑星」より前の作品)。

ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番

メイ・ハリスン(Vn)バックス?(P)(SYMPOSIUM)1937・CD

先に譜面からやつれて枯れ落ちる曲のイメージを持ってしまったため、どの録音を聴いても快活で生命力に溢れ過ぎて聴こえてしまう。この一楽章も若々しくて、健全で、世紀末作曲家の代表格で、計算ではなく感覚的に歪んだメロディ、半音階的なゆらぎ、奇妙に重い響きを特徴とするディーリアスには似つかわしくない感じがするのは先入観だろうか。ムンクとパリのモルグに死体を見に行ったような人で、放蕩の末に梅毒に罹患し遂には半身不随にいたるも、それでも激しい性格は抑えられなかったと言われる。この作品は白鳥の歌とされるが、晩年は(その存在には賛否あるが)イエルカ夫人のみならず若きフェンビーの手を借り、極端に単純で素直な作風で、素直に涙を誘う作品を「口述筆記」した、そのうちでもとくに民謡の引用が際立ち、郷愁とともに諦念を感じさせる作品である。おそらく間違いないと言われているバックスのピアノも明晰でタッチが強めに感じられ、作曲家と交流深かったソリストの活き活きとした動き、しかしオールドスタイルのメロメロな音程感(ディーリアスで音程が悪いとわけがわからなくなる!)が非常にアマチュアっぽい印象を与えて入り込めない。録音はノイズはあるが音像はよくとらえられていて、とくに二楽章の「老人のダンス」みたいな激しくもハラハラ枯れゆく趣は出ている。特有の浮遊感ある進行に沿いひたすら旋律を歌うだけの三楽章ではさすがにその域を理解したような調子になるが(ピアノの音数も極端に少なくなる)、感傷は煽られない。この録音については、歴史的記録としての価値のみのものであろう。

ディーリアス:三つの前奏曲

アブラモヴィック(P)(動画配信)

春という名はついてませんが、春らしい雰囲気の曲。ドビュッシーも意識していた、わりと古い人です。ピアノはけして得意な分野ではないけど、一部の和声を除き個性的ではないけど、情緒はある。メロディもある。

https://youtu.be/0z0DtLlEqKk
音声のみ

ディーリアス:ヴァイオリン協奏曲

○ゲルレ(Vn)ツェラー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster)1963/6・LP

ディーリアスらしい曲に、ディーリアスらしい演奏。やや単調で技術的に不安なソリストではあるが、だからこそ見えてくる曲の不可思議さが何とも言えない。調性の不安定さが山場の無い不思議な協奏曲に更なる不思議を加え、ただ時の過ぎゆくままに浸りこむ事のみディーリアスを理解できると思わせる。起承転結付けず、響きと動きで聞かせていくのがこの曲にはあっているのだ。○。

ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第2番(ターティス編)

○ターティス(Va)リーヴス(P)(pearl他)1929/10/7・CD

うーん、これはどうなんだろう。ピアノはパラパラと硝子の粉を撒くように美しく、曲は最初からディーリアス節全開で(ディーリアスの室内楽は決してディーリアスの本領とは言えないが)、ターティスがオクターブ下げて弾く音楽は、どうにもディーリアスに聴こえない。ディーリアスは案外と高音が重要である。オクターブ以外にもいじっているかもしれないが(最後も唐突に聴こえたが)、増してターティス自身もヴィオラの音色を活かしきれず中途半端なヴァイオリン的奏法で通しているかのようだ。歴史的価値とピアニストに○。ミスもある?

ディーリアス:小管弦楽のための二つの小品

○エルダー指揮ハレ合唱団(ho)2005/11/3・CD

エルダーはディーリアス向き!厚い和音を適切にひびかせその移ろいを適切に聴かせる。繊細な音線を密やかに絡ませ、ハレ管の好演もあってこれはじつに心に染みる演奏。二つの小品といっても一曲目が春初めてのかっこうを聞きながら、二曲目が川の上の夏の夜というそれぞれ独立して演奏されるしっかりした演目で、前者はかっこうの直接的描写にあざとさがありながらもディーリアスらしい濃厚なロマンチシズムを漂わせた、印象派とはまた違った明るい雰囲気音楽、後者は木管ソロと弦ソロの線的な絡みでほとんどが構成されるという、少ない楽器が室内楽的に絡んで進む曲だからこそ、特殊な響きの目立つ、ディーリアスとしてはかなり前衛的な難曲。新ウィーン楽派の活躍した時代の曲というところまで思いはせる。エルダーの軟らかい音でいながら速めのさっさとしたテンポも曲をだれさせないでいいが、これはやはりハレ管が天晴。○。

ディーリアス:海流

○アレクサンダー(B)シューリヒト指揮バイエルン放送交響楽団、合唱団(archipel)1963/3/8・CD

この時期にしては録音はあまりよくない(おそらくモノラル原盤)。シューリヒトの意外な演目だがこの人はイギリスでも人気があったしディーリアスの同時期の曲がドイツ語で書かれているものが多くイギリスよりドイツで先に認められたという経緯もあり(この演奏はドイツ語歌唱によるものである)、また、聴けばわかるのだが晩年シューリヒトのさらさらとした演奏ぶりが透徹したような曲の性質にあっており、これを選んだ理由がなんとなくわかる。シューリヒトというとブルックナーだが晩年のブルックナーの芸風を更に薄めたような、海流というより渓流のような軽々とした透明感にちょっとびっくりした。バリトンはしっかり主張しており、バックオケ・合唱とのコントラストが明瞭である。ビーチャムあたりと比べると面白いかもしれない。客観的に引いたようなディーリアスというのもなかなかだ。

ディーリアス:二つの水彩画

○バルビローリ指揮新交響楽団(HMV/dutton)1948/4/1・CD

二曲からなる弦楽合奏のための編曲版だが、ディーリアスはこのくらい薄い編成の方が雰囲気があっていい。バルビの濃過ぎる表現もこの小品においては変に発露せず、すんなりと、かなりバルビにしてはてんめんとせずに通している。○。

ディーリアス:「人生のミサ」~第二部への前奏曲第3番

○ビーチャム指揮LPO(somm/columbia)1938/2/11・CD

SP起こしだがかなり高音域を削ってしまい音が篭ってしまっている。これはホルンが活躍する「山の上に」とは違うが、同じ主題を使用しており、内容的にはよりディーリアスらしいオーケストレーションを楽しめる、短いながら変化あるもの。ただ、、、これだけじゃよくわからん。
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