スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

グリエール:弦楽四重奏曲第4番

○ベートーヴェン四重奏団(WESTMINSTER/MELODIYA)1950年代・LP

ロシア盤は実際に出版されたか不明。ベートーベンQがミャスコフスキーとのカップリングで出したもの。演奏は緊密だが過度な緊張はなく暖かく楽しめる。初期グリエールはグラズノフの影響が強く、この曲の前半楽章においては和声や拍節構造にまるまるグラズノフ初期のカルテットと同じものが聞かれる。そしてグラズノフが初期にたまに新鮮な和音を投入してはっとさせた、それもそのまま、グリエールは倍量くらい新鮮な音を投入している。半音階的な音線にはもっと西欧寄りの洗練された感じがあり、後半チャイコフスキー的なバリエーションが綴られていくあたりでは西欧志向が随所にあらわれる。佳作ではあるがグラズノフをさらに拡大したアマルガム作曲家という性格がまだまだ強い作品。
スポンサーサイト

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」短縮版

○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(PASD)1958/1/9シカゴデビューコンサートLIVE

PRISTINEのWEB配信。録音は悪い。作品は十八番である。短縮版はストコフスキの依頼で編まれた作曲家自身によるもの。二楽章にシカゴの弦の鋭さが感じられる。ライナー時代のロマンチックな美しさと厳しさがそのままストコフスキに受け継がれ、とくにチェロが素晴らしい赤銅色の音を出している。フィラデルフィアなどと違った中欧的な響の厚みがとても安定した聴感を与える。木管も非常にうまく、抽象化された表現が逆に作品のワグネリアン的な部分をはっきり浮き彫りにしている。スケルツォなどややばらけてしまった。やはり中欧的な鈍重さがある。いい面もあるが。しっかり立体的だ。○。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1967/11/19LIVE

録音はややノイジー。だがストコフスキの力強さと粘り腰が活きるのはやはりロシアものなど後期ロマン派の大曲だと思わせるボリューム感と勢いをかんじる演奏で、フランス系でまとめた前中プロとくらべて説得力は強い。オーマンディのようにゴージャスながら厳しく(オーマンディはセルのようなところがあると思う)整えるよりも、拡散的な自発性を促し上手くドライブしていくため、録音としてはだらしなさや雑さを感じさせるが、ライブ感においては凌駕して強く訴えるようなものを持っている。短縮版委属者としてのストコの自信あふれる板についた表現が更にプラスされる。リヒャルトの影響の強い緩徐楽章の木管アンサンブルからコンマスソロのあたり、このオケとは思えない精度で法悦的な豊饒を示すとともに、けしてだらだら流されないテンポ、アタックの強さに鋭さが感じられる。○。

グリエール:ハープ協奏曲

○ツォフ(hrp)ケンペ指揮ライプツィヒ・フィル管弦楽団(URANIA)1950・CD

じつに国民楽派的な協奏曲でドヴォルザークが書きそうな調子になんとも鈍重なハープが太い旋律をきざむ。しかしグラズノフほど個性というマンネリズムに籠囲されておらず、ハープの魅力を引き出すかどうかは別として、聴いていてストレスのない娯楽作品である。この演奏はひときわドヴォルザークを思わせる。オケの音色のせいか、ソリストの奏法のせいか。民族の生臭さがなく、だが、ロマンチシズムを濃厚に漂わせる。○。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~短縮版

○フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団(DG)1955/9(LP評)ドイツ・グラモフォンの戦後モノラル録音はどうも余り音がよくない。篭っているし、なんだか弱々しい。この演奏はフリッチャイの水際立った指揮が曲のうねるようなドラマ性をどう引きずり出しているかに興味があって手にしたものだが、録音のあまりの貧弱ぶりに、どうも終始「集中力の欠けた凡演」に聞こえてしようがなかった。グリエールの革命前の代表作であり、世紀末的な雰囲気を横溢させた壮大な絵巻物だが、ここでは中間楽章の精妙な音作りにフリッチャイの奮闘ぶりが聞こえはするものの、退嬰的な題材(イリヤ・ムーロメッツは最後は化石となって斃し、同時にルーシのすべての勇士が死んでしまう・・・どうでしょう、帝政ロシア末期にふさわしい題材!・・・)のそのものに、暗く陰うつな雰囲気に沈殿していくような終わりかたであり、そして「始まりかた」でもある。物すごく暗い。ベルリンの音だからなおさらクライのか。ボロディン=グラズノフのあからさまな影響がみられ、その点ではいくぶん楽天的な箇所もなきにしもあらず、フリッチャイ盤もそういう箇所ではそれなりに明るさを「演じようと」してはいるのだが・・・うーん。高いおカネを出して手にする価値はありません、きっと。(CD評)DGの特典盤としてプロコフィエフの「古典」1954/11録音(同じDGに同年1/4録音とされるものもある(フリッチャイ・ボックスに収録)が異なる演奏かどうか不明)と共にCD化。はっきり言ってLPとは音質が段違い。暗く何を言っているのかわからない録音だったのが、明晰で緊張感溢れる演奏に聞こえるようになっている。上記のイメージとは全く違います。引き締まった男っぽい渋さのある演奏。○ひとつ。あとで補筆します。,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~短縮版

○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ANDANTE)1940/3/27 ストコフスキ/フィラデルフィアの録音は戦前戦中の時代にしては驚異的な良い音で残されている。この録音も古さは感じるものの聴くのにとりたてて支障はない。また、短縮版とはいえ46分を要しており、十分な聞きごたえだ。3楽章がちょっと短い感じはするが、長い曲が苦手な人にはオススメではある。この曲を駄作と断じる人もいるようだが、帝政ロシア末期という爛熟した時代の産んだ最大の記念碑的作品であり、グラズノフのつたえた伝統をしっかり受け継いだ作品としても重要である。そんなにしゃっちょこばらなくても、多彩で美しい旋律だけを追っていても十分に楽しめよう。晦渋さは無いとは言わないが殆ど気にならない。旋律の流れは分厚い音響に埋もれることなくきちんと自己主張している。この演奏はそのあたりの配慮が行き届いているので、「ロシア物?チャイコフスキーくらいしか知らないよ」という面々にも理解しやすく出来ていると思う。ストコフスキの面目躍如、颯爽と、さわやかに、ロシアの昔話を語ってみせたかれの非凡さに打たれた。なんだかんだ言っても録音が古いので、○ひとつとしておく。それにしてもああ、何て面白い曲なんだろう。,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~短縮版

○ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(CAPITOL/SERAPHIM)帝政ロシア末期のロシア産交響曲の中でとりわけ強烈な光をはなっているのがこのイリヤ・ムーロメッツだ。華麗で派手な音響と親しみやすい民謡旋律が、時折半音階的な陰りを見せながらもとてもストレートに心に伝わってくる。こういう曲だからストコフスキがやるとぴたりとハマる。ただ、ストコフスキはデロデロ系指揮者ではない。手兵ヒューストン響も明るくはっきりした発音を行い、音色で謡い込むのに長けたオケではないし、ストコフスキは音響こそ派手指向だがテンポに関してはわりあいとストレートに突き進むようなところがある。ロシアの憂愁などを求めるのはお門違い。たとえばとても美しいグラズノフふうのスケルツォ、3楽章のとりわけ親しみやすい第二主題についても、鮮やかな色彩に染め抜かれた響きの中で明るく朗々と謡われる。細かいニュアンス表現には欠けているが、骨太の演奏は魅力的だ。ストコフスキの近現代モノはとてもよい。スコアに新奇さが加えられていればいるほど、ストコフスキの(編曲)手腕が発揮され、原曲の求める以上に人好きのする派手な曲に脱皮させられる。そのような演奏はいい面悪い面があるが、少なくともこのようなマイナー曲を紹介するのには最適な一枚だ。手元にあるLPが二枚共盤面状態が悪く演奏の内面に潜り込み仔細まで味わい尽くすことができないので、ほんとうは◎かもしれないが、とりあえず○ひとつとしておく。,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~短縮版

○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(RCA)1971/10/6この曲の一番の魅力は妖しさにある。その点オーマンディの棒はいささか明るく即物リアルすぎて物足りない。また、音色が安定しすぎて変化に乏しい(あっけらかんとしているのはアメリカの楽団ならどこでもそうだろうが)。3楽章の美しい第二主題でバイオリンのポルタメントが僅かに聞こえるのは寧ろ奇跡だ。解釈もわりと一直線なので、たとえば1楽章など冗長に感じてしまう(じっさい冗長な楽章ではあるが)。キレの良さは2楽章の冒頭などに感じられるが、献呈者グラズノフの影響色濃い3楽章ではもっと鋭い刻みが欲しいところだ。力感がありすぎて鈍重なひびきになってしまっている。もっともこの盤ステレオ正規盤にしては録音が悪いので(国内盤のくせに音がよれたりしていてびっくり)その不明瞭さゆえそう聞こえるのかもしれないが。グラズノフをひきあいに出したが、グリエールはグラズノフより響きが開放的で聞き易い。4楽章の陰うつさは物語の酷い結末をあらわしているが、それまでの楽章の断片を巧く織り混ぜドラマティックな音楽に仕上げている。モダニズムふうの焦操感にまみれた闘争のすえ、長調に転じペットが高らかに凱歌をうたう場面は前半のクライマックスで全曲中もっとも効果的な場面だが、オーマンディはあまりに引っかかりなく過ぎてしまう。しかしそのあと3楽章などの断片がからみあって民族的雰囲気を高めたあと、再び弦が凱歌をうたう場面は比較的効果的にできている。オーマンディはやはり弦楽奏者だな、とヴァイオリンのポルタメントを聞きながら思った。そういえばこの曲は構造的で対位法的な組み立てを楽しめる場面も多いのだが、高弦と低弦がかけあうところで、高弦の音に低弦が負けているように感じるところがある。中低音域が今一つぐわんと響いてこない、と感じる人も多いのではないか(たとえばシェルヒェンのウィーン国立歌劇場管弦楽団の充実したひびきを思い出して欲しい)。オーマンディがヴァイオリニストだったということと関係があるのだろうか。録音のせいというのもありうるけれども。場面転じて1楽章の運命の動機のような警句が鳴り響き、チャイコフスキー的な劇的効果が煽られる。長短調性固定されないゆらぎの音楽は各楽章から抽出されたほの暗いフレーズの断片によって紡がれてゆく。終楽章に全楽章の断片をモザイク的に配してゆくこの手法はグラズノフのものだろう。暗さが薄まり2楽章の断片があらわれるあたりは特にグラズノフのシンフォニーのフィナーレを思い出させるが、グリエールはこれら断片を有機的に繋ぐのがとてもうまく、グラズノフの影響が大きいにしても、その技法の完成度は優っていると思う。最後に3楽章の無邪気なフレーズがうたかたの夢のように浮かんでは消えついには暗黒のうちに沈む。オーマンディは民謡ふうのフレーズより現代的なひびきを浮き立たせるように演奏しており、体臭が無く、サウンドとしてはとても聞きごたえがある。このいささか単純ではあるが構造的に出来ている楽曲を立体的に響かせる手腕は冴え渡っており、楽曲理解のためのソースとしても使える演奏だ。カット部分も比較的少ない。が、快楽派リスナーとしては熱狂的に盛り上がるような中心点がなく、ちょっと客観的すぎる感じがする。3時間で終えられたというレコーディング条件もさもありなんと思われる録音状態でもあるし、中間をとって○ひとつとしておく。,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~短縮版

◎オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(COLUMBIA)1950'やはりモノラル末期の録音はいい!響きが中心に凝縮されストレートなパンチを浴びせてくる。この音の生生しさはなんだろう。下手なステレオより数倍リアルだ(下手なステレオ録音は音が分離しすぎて前衛音楽みたい)。チェロの音が明瞭にぐわっと力感をもって迫ってくるのにぐっと来た。ステレオ録音のときの弱さが微塵も感じられない。かなり周到な録音のようで、これといった弱点が見付からない。しいていえば全曲版でないということぐらいか。2楽章の鳥の声の応酬など、技術的にもステレオ盤より完成度が高い。妖しげな桃源郷の雰囲気も明瞭な音の集積の上にクリアに描き出されていて秀逸だ。ダイナミックで飽きない演奏。文句無し◎です。作曲家の死直後の録音。,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~完全版

ヨハノス指揮チェコスロヴァキア放送交響楽団(NAXOS)1991/2 透明で客観的な演奏。たとえばスクリャービンの影響はなはだしい2楽章にしても、生々しい肉感的な表現はまったくとらず、響きの美しさだけを追求したような演奏ぶりで、イマイチのりきれない。これは国民楽派の楽曲である。グリエールは確かに面白い和声を使う事が有るが、この時期においてはまったくリムスキーやグラズノフの追従者であり、客観的に演奏してもそのよさは伝わらない。熱気がなければこのような75分の楽曲(カットなしとジャケットにはあるが、繰り返し省略程度の事はしているようだ)はのりきれないだろう。ヨハノスは達者な指揮者だが、ヴォックスに入れていたアイヴズやコープランドを聞いてもわかるとおり、整然とした表現を好み熱気を持ち込まない傾向があるようにおもう。1楽章の時点であれば美しくかつあっさりとした解釈が新鮮で私は凄く惹かれたけれども、15分を越えるあたりからあくびが出てきた。4楽章、勇者が滅びる前の武勇を誇る場面で、短調から長調へ絶妙な転調を伴う非常にかっこいい効果的な場面があるのだが、この演奏ではあっさり・・・むしろ弱弱しく・・・表現されていて、かなりの不満をおぼえた。ここで盛り上がっておかないと最後に勇者が石になって滅亡する場面とのコントラストがうまく表現できないだろうに。まあ、演奏は立派ではある。コストパフォーマンスでいえばお釣りが来るくらいに巧い。でも、イリヤ・ムーロメッツはこんなに土の匂いのしない勇者ではない。無印。以下、参考:1楽章、さまよえる巡礼者、イリヤ・ムーロメッツとスヴャトゴール、2楽章、山賊ゾロヴェイ、3楽章、ウラディミール公の「美しき太陽」宮殿、4楽章、イリヤ・ムーロメッツの武勇と石化。,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~完全版

ファーバーマン指揮ロイヤル・フィル(UNICORN-KANCHANA)1978/12/14,15,17 ~なっがーーーーーーーーーーーーーーーい!!45分目処の曲だと思ったら大間違い、ほんとの全曲版は93分かかるのだ。短縮版と同じく4楽章制で各楽章の表題も同じ。全楽章がだいたい半分くらいに縮められているのがわかる。長い英雄譚の筋書きに基づいて書かれている表題音楽だが、ワーグナーの楽劇が必ずしも話の筋を知らなくとも楽しめるように、「イリヤ・ムーロメッツ」という人物がどんな波乱に満ちた人生を送ろうとも、それから解き放たれて自由に想像を膨らませることができる。大編成のオーケストラでこれだけの長さをもった誇大妄想的な交響曲を書いたロシア人はグリエールぐらいだろう。この作品をもってグリエールは世紀末的な爛熟したロマン性を包蔵した音楽を書くことを止めてしまう。革命後、まるで社会主義体制に寄り添っていくが如く、簡潔で平易な作風に転じる。社会主義リアリズムの思想に賛同し、積極的に体制側につく。いくつかのバレエ音楽で知られるがいずれもこの作品のようにドロドロした暗いロマン性は微塵も持たない作品となっている。まあ、そうはいうもののイリヤ・ムーロメッツは西欧の世紀末音楽に比べればずいぶんと簡単でわかりやすいものであり、「わかりやすい」ことこそがグリエールの本質なのかもしれない。旋律の魅力はグラズノフほどではないにせよその後継者たるべき素質は十分にあったわけである。だが、短縮版で目立ったメリハリある表現、魅力的な旋律は、この完全版で聞くとのべつまくなし、やたらと繰り返されていいかげんイヤになるほどである。比較的ゆっくりとした部分の多い楽曲の中で唯一グラズノフ的な祝祭的雰囲気を持つ、スケルツォに相当する3楽章は、7分(短縮版で5分弱)かけて気分を浮き立たせるが、他の楽章が27、8分という異様な長さのため、それらの中であまりに目立たない。2楽章など私は好きなのだが、まるでスクリャービンの後期交響曲の法悦的場面がえんえんと続くような生暖かい楽章となっている。いや、スクリャービンを通して見たワグナーの影響と言った方が妥当か。最初は好きだから楽しんで聞いているのだが、そのうち「おいっ!!」とツッコミを入れたくなるほど長々と続く法悦に嫌気が差してこなくも無い。終楽章なども長い。寝てしまう。ムーロメッツは石となって死んでしまい、ほかのすべてのロシアの勇士も死んでしまうという悲愴な楽章だが(いかにも帝政ロシア末期的発想だ)まあ楽想は面白いものの、ここまで長々とやる必要があるのか?と思ってしまう。まあ、1楽章もそうなのだが。ファーバーマンは定評ある指揮者だが、若干綺麗すぎる。ロイヤル・フィルのチャーミングな音色も曲のロシア色を薄めている。だがしかし、もしロシアの演奏家による全曲版を聴いたとしたら、あまりの脂身の多さにヘキエキすることは間違いなく、やはりこのような穏やかで美にてっした演奏こそが正しいやり方なのだろうとも思う。録音が弱い。もっとメリハリのある音がほしい。・・・とりあえずは参考記録として無印にしておく。この他に完全版の録音を知らないから相対評価できません。NAXOS盤は全曲版と称しているがどう考えても70分台に抑えられるとは思えないので、あやしい。(未検証ですが。),

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~完全版

◎シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場O(WESTMINSTER)LP シェルヒェンに恰好の曲である。表現主義者としての突き刺すような強烈な音が、曲の本質を明瞭に劇的に浮かび上がらせている。多少民族音楽的な色合いに乏しいが、しかしきらびやかで派手ではある。録音が少ない曲だが、この演奏でも十分満足行くだろう。カップリングは「赤いけし」組曲で、確かCDも出ていたと思う。シェルヒェンのロシア・ソヴィエトものはフランスものと並んで隠れた名盤である。チャイコフスキーを除けば…余談だが通奏主題はディーリアスのピアノ協奏曲冒頭に良く似ている。本当に20世紀初頭の世界音楽がモザイクのようにちりばめられた曲だ。*当初カット版だと思ったが測ってみたら83分ありました。一応完全版のようですので掲載箇所を訂正します。,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)~Ⅲ

ストック指揮シカゴ交響楽団(LYS,DANTE他)CD かなりいじっているようで、ハープはでかいわテンポはたどたどしいわでハラハラする。抜粋なので評しづらいところもあるが、全般にやや重く、テンポが前に向かわないから、この爽快なスケルツオ楽章が引き立ってこない。どうやらそれはあるていど解釈のようで、場所によってはスピード感があり、決して全てがだらけた演奏ではないのだが、散漫なところ目立ち無印。,

グリエール:バレエ音楽「赤いけし」組曲

◎シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)LP いいかげんこのグリエール集CD化しろっちゅーの。「イリヤ・ムーロメッツ」のダイナミズムをここまで克明に描き上げた指揮者は他にいないぞ。赤いけしもグリエールの代表作だ。あきらかにハチャトゥリアンに通じる(たとえば剣の舞のような)戦闘的な舞踏音楽から、あきらかにスクリアビンを意識した官能的な緩徐楽章までバリエーションにも富んでいる。前者はハチャよりも色彩に富み、演奏のせいもあるが厳しく敏捷な音楽になっている。そのひびき、コード進行には、まだ世紀末節の残滓が感じられるが、それがまた個性的で良い。個性が前面に出過ぎるハチャに対してこちらはいくぶん西欧風の洗練が加えられ聴き易さでは凌駕していると思う。官能的な楽章はイリヤ・ムーロメッツほどではないものの半音階的で、帝政ロシア期の作品に通じるものがあるが、より透明感がありすっきりしている。グラズノフを思わせる常套的な走句も聞かれるが気にはならない。チャイコフスキーの影響も感じられるが、広く国民楽派全体からの影響としたほうが適当か。同曲旋律の魅力にかけてはグリエール瑞逸で、大衆的な人気を受けた理由がわかる。常套的でいながらどこかバタ臭くかっこいい。これはシェルヒェンの演奏による印象かもしれないが、なにぶん強烈なアゴーギグと異常な集中力が支配するこの演奏はウィーン国立歌劇場との幾多の録音の中でもとりわけ凄いもので、モノラルであまり良くない(クリアではあるが)録音を割り引いても◎をつける価値はある。,

グリエール:ハープ協奏曲

ドゥロワ(HRP)ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(HERIOD)LP ハープである必然性が理解できない。音色の新奇さを狙ったにしてはあまりにロシア国民楽派の古臭い手法に拘り過ぎており、コロラトゥーラ・ソプラノ協奏曲と同様、座りの悪さが気に懸かる。ハープの典雅さを期待したら裏切られよう。そういうものはここには聴くことができない。ハープでない別の楽器、もっと野太くて音符の少ない楽器に向いている。うーむ。グリエールの協奏曲群の中では古いほう(30年代)の作品。ガウクは国民楽派の楽曲を奏でるように振っている。ソリストはそつなくやっている。無印。,

グリエール:コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲

ベルガー(SP)チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(AUDIOPHILE)1946/6/7 グリエールはグラズノフの正統の後継者といえようか。帝政ロシア末期にその作曲家人生の半分、ソヴィエト政権時代にもう半分を生きた、まさに過渡期作曲家。どちらかといえば前者の作風のほうが有名だろう。爛熟した末期ロマン派音楽のいいとこどりをしたような「イリヤ・ムーロメッツ」が代表作。ソヴィエト時代には作風を一変してやや旧弊なわかりやすい曲を作り続けた。その時期の作品では「赤いけし」が何といっても有名だが、協奏曲の分野で言うと、圧倒的にこのソプラノ協奏曲が有名だ。無歌詞ソプラノのコロラトゥーラ唱法をふんだんに使ったちょっと耳新しい組み合わせの曲だが、曲想自体はいたって旧弊。ロシア国民楽派のマイナー曲程度の才能を感じる。ソプラノ協奏曲?というと笑ってしまう人もいるかもしれない。そりゃオーケストラ伴奏の歌曲だろう。いやしかし、この曲ではソリストを「歌手」というよりひとつの楽器として扱っている。まあ結果的には歌曲になってしまうのかもしれないが、面白い試みであったことは確かだ。この演奏はひとことで言って地味。12分程度の短い曲だが、あっというまに終わってしまう、といった感じ。録音もあまりよくない。まあベルリン・フィルがこんな曲をやっていたのか、というところで興味を持ったら聴いてみるのもいいだろう。 ,

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

○ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(EMI、ANGEL)1957/3・CD

ステレオ初期ならではの録音の不安定さがみられ、音場が左右に完全分離したり位置が混沌としたり、左から低弦が聞こえ出し次第に右に移ってくる1楽章にはのけぞった。ストコならやりかねないが単純な録音操作の綾だろう。スタジオ録音ならではの客観性、一種素っ気無さがあり、音はあっけらかんと明るく開放的な半面、憂いが無く思い入れも感じられない。直線的で山っ気がなく、爆発的な迫力もうねるような楽想の波も感じられずライヴに比べてはテンションが低く感じる。特に気になったのは緩徐楽章のスクリアビン的な妖しさが一切排されていることである。音色にもフレージングにも一切ワグネリズムの影響が出てこない。あっけらかんとしすぎて感動を得られないのは短縮版であるせいだけではあるまい。初心者には聞きやすいだろうが、民族性を求める向きには余り薦められない。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1971live

エアチェックなりの録音状態。演奏精度の余りの高さと環境雑音の無さに同年の正規スタジオ録音の放送ではないかと疑ったりしたが、終演後には拍手とナレーションが入っているので(3楽章後にも拍手が入ったのをカットしたように聴こえる)いちおうライヴなのだろう。とにかく楽団が反則である。技術的にも、編成の厚さ的にも贅沢極まりない。オーマンディは1楽章においてはブラームスを思わせるリズムの引き締まった充実した響きをみせ、2楽章では初期リヒャルト・シュトラウス張りのトリッキーなソロヴァイオリンをまじえた法悦的な音楽を力強く感情的に表現する。演歌には決してならず、つねに立体構造を意識したまとめ方には西欧的なセンスを感じる。ソロ、実に巧い(超高音の音程くらいは目をつぶれ)。

3楽章からはテンポがかなり前のめりで速く、細部にはほつれらしきものも聞かれるが、録音状態がやや悪くなるのでほんとにほつれたのかどうかよくわからない。ステレオではあるが低音域が伸びず浅薄な録音になってしまっているのも惜しい。ダイナミックな終楽章はもっと鮮やかな音で楽しみたい・・・演奏がじつに鮮やかで煌びやかなのは感じ取れるのだから。近視眼的にならず全体設計をしっかり立てた上での「流されない解釈ぶり」はやや不恰好なこの終楽章をきちんと自然に盛り上がるように構成し、魅せるものになっている。ロシア音楽というよりハリウッド映画音楽のような感じがするが、むしろ聞きやすさへの配慮と前向きに捉えましょう。ひどく退嬰的な終幕もまた西欧的で泥臭さの無い洗練ぶりが聴いてとれる。オーマンディのフィラ管は野暮な崩しや下手なブヨブヨ感がなく、かっこよかった。ブラヴォが飛ぶ。

グリエール:序曲

○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP

これはとにかく派手!!ガウクの録音状態はかなりいいものが多いので、安心して愉しめる。曲がまたファンファーレから始まるクーチカの伝統、グラズノフの弟子たるグリエールの人好きする曲感、意外とまっとうにとりまとめてみせるガウクの手腕、なかなか面白いです。○。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1964live

モノラルなのに物凄くステレオ的な演奏で「あああ」と歯がゆさを感じる点の多い煌びやかな演奏。後年のものと余り変わらないが、やはりこのオケの音は拡散的で、末流ロマン派の肥大化した音楽をやるときに必要な構築的な身の詰まった演奏様式というのがないがゆえに、ちゃんと短縮版としてまとまっているのに、どこか散漫な印象をあたえてしまう。もちろんストコはフィラデルフィアでもこういう音を求めていたのだし、表層的で派手なのは(曲も曲だし)仕方ないのだが、まあ、NYPのほうが正直しっくりきた。まずまず。○。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

○ストコフスキ指揮クリーヴランド管弦楽団(vibrato/DA:CD-R)1971/5(6?)/19live

NYPはともかく他の比較的軽量級の音を出す職人オケになるとストコはいささか表面的でやかましい音作りだけをする人になってしまう。アメリカ交響楽団のモノなどまさにその面で賛否あると思うのだが、この演奏録音はステレオという点で比べて1長はある。しかしどうも放送ホワイトノイズが常に入り続け、放送ならではの左右の不安定さもあって、明晰なのに印象が悪い。聴感が軽くて、イリヤ・ムーロメッツの末流ロマン派的なドロドロがひたすらドラマティックで煌びやかな音楽に昇華されてしまい、帝政ロシア時代交響曲好きとしてもマーラー好きとしてもどうも腑に落ちない。また今更の指摘だが4楽章の大カットで「一番の見せ場」となるドラマティックな弦・ブラス転調の一節(スコアがないので明示できませんが、指摘箇所がどこかはてきとうに想像してください)が上り詰める直前でカットされ陰鬱な終盤にワープするという非常に「うわああああああ」というところがあり、これってストコ、前からそうだったっけ?とか思いつつも、これじゃちょっと4楽章聴かせどころ半減だよ、と結局○ひとつに抑えておくのである。気分的には無印。 5月との表記のあるvibrato(CD-R)盤はDAと同じ音源を使用する場合が多く、これは収録内容がほぼ一致することから同一と思われる。記載データ確度はどっちもどっちなので、別プライヴェート盤で出ているライヴが5/13とあることから、公演日程的に5月が正しいと推定される。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

◎ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R)1949/10/23live

やや録音が辛いがNYPならではの覇気とボリュームのある音で前進的な演奏が展開される。この曲はこのくらいの長さが聞きやすい。ストコは常にわかりやすく、かつ劇的に音楽をドライヴしてゆく。それはマーラーを演奏するかのような態度だ。攻撃性という面がストコの演奏様式の中に確かにあるが、それは金管の追加とか打楽器の追加とかいった部分だけにとどまらず、弦楽器の演奏方法についてもかなり厳しく律しているようなところがみられる。フィラ管の艶やかな弦はストコが創り出したというのは有名な伝説だろう。イリヤ・ムーロメッツをNYPという一流どころで聞けるだけでも嬉しいではないか。チャイコを聴く感覚で聞ける作曲家公認短縮版。相対的に◎。

グリエール:交響詩「サイレン」

○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

サイレンというと今の人はゲームを思い浮かべるのか。厄介だな。「海の精」という訳されかたもするが、船乗りを妖しい声で誘惑し死に至らしめる海妖セイレーンのことだ。「イリヤ・ムーロメッツ」二楽章に非常に近似した内容の比較的前期作品であり、たまに現れる師匠グラズノフの影響が主として曲想にあらわれている。即ち交響詩「海」の世界を更に西欧的に複雑化しようとした感じなのだ。若きラヴェルらが惹かれたあのイマジネイティブな描写音楽は、リムスキーの弁を借りれば「過渡期作品」であったわけだが、今聴くとのちの作品よりも広い魅力を持っているように聞こえる。やや生臭さがあるのがグリエールの特徴だが、そっくりそのまま個性といってもよく、ガウクらしさの発揮できる爆発音楽ではないが、この作品をお国の同時代人が表現した記録として貴重ではあろう。○。

↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い

TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング

グリエール:序曲「フェルガナの休日」

○コンドラシン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

まるでアメリカ音楽のようなけっこう清新な出だしからおっと思うが、すぐに伝統のロシア節に行く。コンドラシンらしい響きの派手さは冒頭でしか生きていないようにも思うが、ブラス陣のロシア吹きやヴァイオリンのロシア式フレージングがかなり明瞭に発揮される。一種コンドラシン・モスクワ放SOとは思えない、スヴェトラのような趣さえある磊落な演奏ぶりは、バラケ具合含め少し不思議だが面白い。それにしても私は多少飽きたが、曲想が豊かな展開を得て面白く聞ける曲ではあり、ロシア好きなら堪らない曲だろう。もんのすごくわかりやすい旋律がアメリカ的な明るい展開をしていく場面にはリムスキーの中央アジア節が根底にありながらも新しい世代の意地がまだ残っている点興味深い後期作品。最後のたたみかけはコンドラシンらしい。このあたりの妖しいコード進行も前期から途絶えずのグリエールの個性だなあ。

グリエール:交響的絵画「ザポロージュのコサック」

○ラフリン指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)LP

思いっきりロシアロシアした重厚な出だしから「シェヘラザードかよ!」というような旋律とハーモニー展開。リムスキー節を抜けるとロシア民謡のバレエ音楽的数珠繋ぎ。ラフリンは引き締まったアンサンブルを展開するがロシア劇音楽的な感情をいかにもロシア流儀のアゴーギグで表現している。一くさりカリンニコフかチャイコフスキーか晩年プロコかという民謡表現がすぎるといったんリムスキー主題が戻るが、このあたりのコード進行にグリエール独自の新しい表現が聞き取れる。グリエールはソヴィエト下で作風を穏健な方向に変化させてしまったとはいえ、リスト・ワグナーの衣鉢を借りて完成したロシア国民楽派の管弦楽の方向性を積極的に維持したという意味ではグラズノフ以上に右寄りな立場にあった。この作品も「穏健」というよりグリエールの世紀末的作風の昇華と聞き取れる。憂愁の民謡・・・チャイコだ・・・からふたたび冒頭主題に回帰して終わる。ラフリンはつかみ所の無い指揮者ではあるが聞いているうちになんとなくその立ち位置がわかります。いかにもロシアな人。○。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」

○ゴロフチン指揮ロシア国立交響楽団(russian disc)1993/10・CD

ロシア盤の供給量は昨今不足してきていると言われてきた。

特に顕著なのは中古LP盤の世界で、値付けが勝手にできる手前、現在では本国業者へ買い付けに行くと日本の業者と見られた瞬間(こんな買い付けをするのは日本人しかありえないわけだが)足元を見られ法外な値段を要求されるものだから、余程高値がつく目論見のものでない限り手が出せず、一品一品選んでいく余裕のある個人副業者でもない限り、とても大量箱買いして輸入するわけにはいかなくなっている。国内の出物頼りしかなくなったのが現状だ。しかしLPマニアは「愛情をもって」音盤を抱え込むので、結果的に大した盤は流出しないから難しい。亡くなったマニアの遺族による処分頼りと言ってもいいかもしれない。

LPと並行してCDにも品不足の波が来た。これは旧ソ連体制崩壊によりメロディヤとその独占販売代理店(輸入代理店)という供給ルートもいきなり崩壊、国策頼りの経営が立ち行かなくなった供給元からの新譜が数年でガクンと減り、一方ロシア音楽家の海外活動が完全に自由になったから、特に亡命してくる音楽家を受容した欧米諸国では音盤に頼らずともロシア流儀のナマの演奏に簡単に触れられるようになったこと、更に世界的なクラシック音盤市場の衰亡がとどめをさしたのだった。

それでも室内鑑賞が主流であるマニアック金満大国日本での異常な(遅い)ロシア音楽ブームがしばらく持続していたため、それをあてこんで、混乱するロシア(+海賊盤大国)の群小俄かレーベルがメロディヤや放送局音源を安く手に入れ復刻して大量に送り込んできた時期が更に続いた。しかしわけのわからない演奏家や作曲家のものや古くて音の悪いもの・・・でもマニアには堪らない往年の名演奏家のものだったりもしたのだが・・・ばかり出てくるようになって結局、インフレ状態に陥り返品地獄、ほとんどの会社が企画も半ばで雲散霧消してしまった。中には計画的にいきなりばっと売って消える会社もあったが、とにかく10年弱前、そういったロシア音源の大量供給にいきなりドスンと緞帳が下げられてしまった。

その状態が産んだのがロシア盤CDの極端な高騰化である。それまでは余程のレアものでない限りCDにプレミアがつくなんて有り得なかった。複製の簡単な、元手のほとんどかからない安っぽいCDなんてバカげてる、どうせいつかまた誰かに簡単に復刻されるだろうというのが、そもそも元手もかかるLP(とその音質)に「愛情を持っている」古いマニアの見方だったのである。

だがそれ以前にバブル崩壊後の焼け野原にいきなり参入してきた大手海外チェーン店の仕掛けた大々的な輸入盤ブームがあり、そこで掴まれた新しい若いファンというのがいた。話が前後するが彼らが寧ろロシア盤CD需要の中心にいたと言ってもいい。彼らは生にせよ音盤にせよいきなり聞いて掴まれたロシア音楽ロシア演奏家に狂喜し、その音盤大量流入の渦で所謂「ムック本評論家」の言うがままに踊り狂い、その踊りに更に沢山の追随者が巻き込まれ、盛大なレイヴパーティが繰り広げられるようになったところにいきなり「ハイおしまい」と言われたものだから堪らない。この種類の人間は世代的にCDにプレミアがつく、ということに対しても余り抵抗感がない。僅か5年前、しかも大手チェーン店頭で発売されたCDであっても、その当時まだ「踊り」に巻き込まれていなかった遅れて来たマニアは、今現在まったく手に入らないという状況に戦慄し中古CD屋に走った。

マニアはそもそも自らの力量を省みない無謀な行動に出るもの、信じられないような高値にも手を出す輩が沢山出てきた。私も新しいマニアではないが「踊り」の時期にまったくクラシック音楽から遠ざかっていたためこの中に入ってしまったのであるが・・・。そこに決定打として現れたのは「ネットオークション」というシステムである。元手が1000円の盤に4万以上の高値がつく(大手レーベルのものであってもだ)こともざらなこの世界、金に糸目をつけない無謀なマニアは、売れなくて店頭から引き揚げられた類いのマイナー作曲家のマイナー曲でも、ただネームの大きい演奏家のものであれば食いつくほどに飢えていた。群小レーベルと言うには余りに大々的な活動を繰り広げていたロシアン・ディスクの端盤が1万円以上の高値で落札される時代になったのである。メロディヤ再発(CD化)レーベルであるレベレーションなど元々売れなくて企画自体が存続できなかったためレア度が高く、最低落札価格1万円でのっけてくるネットオークション業者まで出てくる始末だった。

だが。

やはりCDというのは水ものである。そんなマニアの存在を知り二匹目の泥鰌を狙う個人再販(再々販=転売)業者と、とりあえずあの時期に買っておいたが一回聞いてほっておいた類いの個人によって、逆に供給過剰の状態が来るのもそう遅くもなかった。でもそれでも、群小レーベルの時期にしか「CDでは」出ていなかったものにはそれなりの需要があった。もっとも、LPマニアの話でも触れたとおり、マニアが本当に欲しい真のレアものは全くといっていいほど出なかった。抱え込まれたままだったのだろう。

そこに遅ればせながら目をつけたのが大手業者である。ネット配信時代になってCD市場はもう全体的に衰亡、下手すると存続の危機にすら陥っている。クラシックのような元々衰亡の過程にある分野なら尚更だ。特に実店舗を構える小売店は切実で、CD-Rによる海賊盤的な再発モノの輸入開始に始まり、ロシアを含むほうぼうの国へ在庫買い付けの手を必死に伸ばした。その結果、掘り出し物が出てきた。

今年初め、ロシアからある意味朗報、ある意味ガッカリするニュースが飛び込んできた。

ロシア盤の大量在庫が見つかったというのである。しかも価値ゼロとみなされているから殆ど言い値で買える。日本の業者(海外チェーン店含む)はこれに飛びついた。買いあさった。そして店頭やカタログを飾るタイトル、それは

ロシアン・ディスクとレベレーションだった。

・・・販価は最低で700円、元々最初に売り出されたときには(当時一般的な輸入盤価格だが)2500円前後だったものだ。これは当時買わなかった人も買いである。それどころか、オークションで1万円もしたものすら、700円。尤も前記した「真のレアもの」はその在庫の中になく、また業者によって買えたタイトルが微妙に違うので、販価にもばらつきはあるのだが、それにしてもこれは、価格破壊というか、あの高騰期は何だったんだ、というところである。更に最近はヴェネツィア等の超廉価盤レーベルが破格の値段でロシア音源の復刻を続けており、今のところはオリンピア経由で出たような割合一般的なメロディヤ盤CDの復刻モノだけであるが、群小が出した類いのレア音源やマイナー作曲家にいたるのも時間の問題、というか、既にグローブのような個人レーベルに近いものが出したライヴ音源も含まれていたりする。個人ネットオークション業者が店じまいするのもさもありなん、更に、一時は騙り業者まで出たオリンピアやメロディア本体の活動再開、ロシアン・ディスクもぼつぼつ新録音だけではあるが販売を再開しつつある(名前だけ借りたアメリカ在の別業者という話もある)。しかも価格は1000円前後というナクソス価格だ。確実な販売を重視した結果の値ごろ感なのだろう。

私も自戒することしきりだが、変な流れに巻き込まれ吹聴に踊らされ、自分が本当に聴きたくて、「自分にとって」本当にいい音楽とは何なのか、マニアは冷静になって常に考えながら収集鑑賞をゆっくり楽しむ余裕を持つべきだな、とつくづく思う。

前フリが長くなったが、なぜこんな話をしたかというと今回取りあげるのはそのまさにロシアン・ディスクの再発盤だからである。1000円以下。指揮者はネームだけは轟いているゴロフチンだ。ナクソスの無闇な録音群のせいで、ヘタクソで愛情のないやる気ゼロの無能指揮者と誹謗マニアからのサンザンな評価を受けている指揮者だが、なんなんだろう、ロシア人はこういうものだ、と決め付けて、その狭い枠に納まらない解釈を得意とする指揮者を徹底的におとしめる、なんだかいかにもクラシックマニアの偏狭さを象徴するような言説でゲンナリである。

元々叙事詩的な壮大さが必要な楽曲だ。短絡的な起伏ある演奏であれば勿論面白いことは面白いのだが、そもそも一つ一つの細かい曲想が魅力に溢れているものだから、マーラーの作品でそれが当然のように受け容れられているように、客観的に響きの美しさと丁寧な造型を追求した演奏も許容する素質が十分にある曲である。それでもここで今まで触れてきた演奏の中にもあったと思うが、ほんとに客観的すぎてぼんやりとしただけののっぺらな演奏もあり、ここをいかに巧妙に繊細に聞かせるかが解釈とバトンテクニックの見せ所といったところだ。オケの力量もかなり要求される大規模な曲ではあるが、余りオケにがならせてしまうスタンスだと静かで長い楽章などは激しい楽章とのコントラストで飽きてしまう。ここの手綱さばきも単純には語れない。個人的には抑制も必要だと思う。

そしてゴロフチンだが、かなり落ち着いている。でもぼんやりとものっぺらとも感じない。美しいし、そこには威厳がある。叙事詩としてのまさに壁画的な壮大さと重心の低い響きのかもす迫力もある。このテンポで欠伸が出る、という向きは単に「解釈に向いていない」だけだろう。曲に向いてないのかもしれない。ゴロフチンも一応長々しい完全版を使っている。シェルヒェンの完全版による演奏の1楽章で欠伸が出た私は、ゴロフチンの1楽章ではちっとも欠伸が出なかった。

どういうことなのか。造りの妙なのである。物語であり劇音楽であり、楽劇的な楽曲構成をとってはいるもののこの音楽には印象派的な「雰囲気を楽しむ」という聞き方が要求される側面があり、主として意外と新しいハーモニーの揺らぎにかかっているわけだが、ゴロフチンはそれをよく捉えているのだ。シェルヒェンは即物的に盛り込んだドラマが却って単調さを感じさせる結果になっている。そうだな、ゴロフチンを貶める人にクレンペラー最晩年のどんな曲でもいい、ライヴ盤を聞いた感想を問うてみたい。クレンペラーにこの妙技ができただろうか。単純にテンポの遅さと単調さという面でも、演奏の不具合という面でも、ゴロフチンより更に分が悪くなったであろうことは自明だ。でもクレンペラーのほうが素晴らしかったはずだ、そういうふうに言う人がもしいたとしたら私はもうその人の言うことは信用できない(個人的に、と断っておく)。

音楽はマクロで捉えるべき部分とミクロで捉えるべき部分がある、私は意図的に最終的なマクロでしか語らないがそれはあくまで「聞く側にてっする」という前提でやっているからである。音楽作りは基本的にミクロの積み上げで行っていくものだ。それが結果、瞬発力だらけのガラクタの山になるのは単なるシロートである。どんな無名指揮者でもアマチュア指揮者でも、ミクロの積み上げを「マクロの解釈」の上に緻密に緻密に行っていく作業をオケに対して施す。オケの技量によりそのミクロのある段階までは既に出来上がっていることも多かろうし、これは回数が必要とか細かい指示が必要とかそういう杓子定規なものではない。

その「マクロの解釈」を構成するのがまた「ミクロの分析」である。交響曲は単なる一つの富士山ではない。解釈は山一つこさえればおしまい、じゃないのだ。音楽は一連の雄大に連なる山脈であり、そこには無数のキレットやピークがある。鎖場もあればザイルに頼る場所もあり、一歩一歩歩かなければ決して先へは進めない。地図読みを誤れば稜線を踏破することは不可能だ。その一つ一つの細かい機微を如何に鮮やかに自然に描き出していくか、これは非常に重要なのである。クライマックスはその山脈の盟主と呼ばれる一ピークにすぎない。富士山型で考えるのは聞くだけ主義のオキラクマニアだけである。ここでいう地図読みこそがスコア読みである。

体力と気力さえあれば地図なんて見ないでもおてんとさまと地形で乗り越えていけるわ、なんて言って事実やってしまえる者も中にはいると言われるかもしれないが、世に巨匠天才と呼ばれる人間でも殆どの人は寝る間も惜しんでスコアとにらめっこだ。聴く人間はもちろん、演奏する人間一人一人に或る程度の納得を与えなければならないし、かといって自分自身の理想もあり、そういった様々な観念的なことを、「至極合理的な論理に従って出来上がっているスコア」という設計図の上に具現化させていかねばならない。それはゲイジュツだとか何だとかいう前に非常に困難な「作業」である。クレンペラーに対する中傷的愛情を書いておいたが、そのクレンペラーでさえ全裸でマタイのスコアに没頭し来客にいきなりその話をもちかける、そういう人だった。指揮者マーラーが音楽のことを考え出すと他の何もわからなくなり奇行を繰り返す、その表象だけをもって精神的な問題を指摘するヤカラが100年たってもまだ多いが、本来音楽、しかも大規模管弦楽曲とはそこまで追い込まれるほどに、数学的にも美学的にも突き詰めて分析して構築していかなければとうてい造り上げることのできない大変に膨大な情報をはらむものなのである。テクニックと人心掌握術だけで切り抜けているように見える人だっているが、彼等の裏の努力を見抜く目のない人はまあ幸せである。唯いきなり指揮台に上がり腕を上下させて思うが侭に音楽を操ることができるのが指揮者、なんて幻想だ。もしくは想像を絶する長くて厳しい経験を積んだ老練な指揮者の「結果」だけを見て誤解しているにすぎない。ステージ上の全員が暗譜で指揮者も団員も歌手も裏方も皆知り尽くしている、そういった小曲や単純な曲でもなければ、増してや交響曲なんてどえらいものを音楽に纏め上げるのは無理である。

実際に音を出す演奏家にいたってはその五指をそれぞれ適切な角度で適切な圧力で絶妙なタイミングで鍵盤や弦の上に載せる、そういった一つ一つのミクロな作業を積み重ねないと音楽は作れないわけで(あたりまえだ)、しかも指だけではない、唇も喉も胸も腹も両腕も脚も体全体も同時に一つ一つ動かし全てを複合的に積み上げていくことが必要とされるのだ。個人個人パートパートセクションセクションソリストソリスト、全てのミクロをコンマスらの力を借りてまとめあげるのが指揮者の役目、晩年のクレンペラーにはミクロに配る気力体力が最早なく団員の記憶に基づく理解に支えられて演奏を進めなければならなかった。だが若い指揮者には気力も体力もある。ミクロなくしてマクロはなし、マクロなくしてミクロはなし、そういったことを考えたときに、ゴロフチンにその片方がない、ともすると両方共がないというような言説を投げかける人に、この演奏を聴いたうえではとくに、私は強く異議を唱えたいのである。

久々の更新なのでちと書きすぎました(w)この演奏にはオケのロシア的な雑味に関しても極力抑えようという意図が聞き取れる。音色やアンサンブルの「乱れ」に聞こえるものはロシアの演奏家の、特に古いタイプのものを聴いてきた人間であれば、彼等特有の「クセ」であり、この程度はむしろ全然許容範囲と思われるだろう。ゴロフチンのカロリーの低いのは認めるが、この曲にはあっていると思う。世紀末爛熟音楽に更にバターを乗っけてケチャップをかけるのは舌(耳)がバカな証拠、じじつこの曲に限って言えば、そこまでコテコテの演奏というのは無い。時間がなくなってきたので補記したくなったらまた補記するが、結果として、○である。聞き易い演奏、と付け加えておく。

続きを読む

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」

〇ラフミロビッチ指揮ローマ聖チェチリア音楽院交響楽団(EMI)1949/3ローマ・CD

初録音盤とあるがアメリカ初演者ストックもストコも部分又は短縮版ではあるが戦前に既に録音を遺している。この指揮者は比較的若くして亡くなってしまったので余り知られていないが、アメリカ20世紀前半における俊英の一人としてそれなりに名のある存在である。ロシア出身であり極めて少ない録音記録のほとんどがロシアものである。キャピトルに遺されたのは何れも聖チェチリア音楽院管との録音で、結局イタリアからの帰途の船上で亡くなったためジブラルタルをのぞむ場所に葬られることになったのだが、このオケには珍しいレパートリーは演奏史上独特の位置を占めるものといえる。

演奏スタイルは剛速球型でガウク的な突っ走りかたが楽しいが、復刻によってはその力感が伝わりにくい。何せ元が戦中戦後の古いものであるから復刻のさいの雑音除去によって生々しさが大きく害われかねない。このCDはまさにそのたぐいのものであり、できれば音量を最大にして短距離走的な烈しく揺れないスピードや2楽章のむせ返るような弦の音色の饗宴に耳を傾けていただきたい(イタリアのスクリアビンってこうなるんだ!)。颯爽としたテンポは感傷がなくスマートで清潔、だが力強く推進する音楽は、トスカニーニとも違うロシアの荒々しさを(人によってはだらしないと言うかもしれない縦の甘さ含め)内に秘めており、「人ごとではない」思い入れも意外と感じさせるところがあり、なかなか聞かせるのだ。歌心は輝かしさを放ちイタリアオペラでも演歌でもない美しい命を感じさせる。線の細い音が曲の迫力を減衰させている面は否めないが、非常に構造的に演奏しているため薄さは感じない。対位的な動きを鮮やかに浮き彫りにしてみせた3楽章後半は聞きものだ。短縮版を使用しているため物足りなさを感じるところもあるがこれも演奏の余りの充実ぶりの裏返し、もっと聞きたかった、である。響きの凝縮ぶりはモノラルだからというだけではない。曲への理解の深さと高度なテクニック、コントロールの上手さ、アメリカの指揮者と言って馬鹿にしたら損をする。この指揮者がタダモノではなかった、ということ、もっと円熟した演奏を(いささか一本調子で飽きる箇所もある)、いい音で聞きたかった。〇。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(全曲版)

○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1974・CD

ラフリンはウクライナ出身のユダヤ系で、キエフを中心に活躍したソヴィエト時代を代表する指揮者の一人。ショスタコーヴィチの初演で知られる雄渾系指揮者だ。1933年ムラヴィンスキーに次ぎ第1回全ソ指揮者コンクール2位に輝いて後全国的な活動を始め、第二次大戦中はムラヴィンスキー後のソヴィエト国立交響楽団を率いた。1966年カザンにタタール国立管弦楽団を組織、1979年に没するまで音楽監督として指導にあたっていた。この演奏は前半が聞き物。1楽章から大変磨き上げられ引き締まった演奏ぶりでびっくり。ブラスの響きなどロシアそのものだが、例えば色気ムンムンであるはずの2楽章などこれがグリエールか、というくらい立派で清潔な音楽になっている。でも雄弁でダイナミズムは失われていない。民族性や爛熟ぶりを過度に煽ることがなく、非常に真摯な曲作りは胸を打つ。ワグナーからの影響を強調するかのようなドイツ指向なところもロシア臭さが感じられない要因であろう。3楽章はテンポが遅く客観的で美に徹しているかのよう。この最もロシア的なスケルツォをこうやってしまうのもラフリンの個性か。いずれにせよこんな3楽章初めて聞く。再現部になるとだいぶ盛り上がりが戻ってくるのだが。終楽章はロシアオケの響き全開でやってくる。だが肝心の所で音外しがあったり、うねるような曲想の起伏が今一つパッとしないなど、ちょっと落ちる感がある。締まった表現はいいのだが、全編のフィナーレとしてはいささか一本調子ではないかとも思う。回想シーンなどの聞かせ所が浮き立ってこない。長いからそれだと飽きる。それでも雄渾さと緊張感は最後まで持続し、人によってはしっくりくるとは思う。あとは色彩かなあ。ちと単彩。総じて○。

グリエール:シャー・セネム

○作曲家/ストリアロフ指揮モスクワ放送管弦楽団、オルフェノフ、ラヒエフスカヤ(MELODIYA)1947/52・LP

リムスキーとハチャトゥリアンを足して二で割ったような音楽。スターリン様如何でしょう、という感じの完全にロシア国民楽派を範とした社会主義レアリズムの原点のような音楽。それでもリムスキー好きにはアピールするものはあると思う。適度に興奮もする。理論的に言えばこの民族音楽の源泉はどこぞのローカルでマニアックな民謡に当たるのだと思うが、フツーの耳で聞けばこれは紛れも無くシェヘラザードでありロシアの謝肉祭である。いくぶんマンネリズムを感じるが、とくに後半で+αを感じさせるようなちょっと面白い響きやリズムがあり、ハチャトゥリアン的感興が加わってくる。演奏自体はリッパ。オケが引き締まって素晴らしい舞踏音楽を演じきっている。思わずバレエの情景が浮かんできそう。作曲家とストリアロフのどちらがどこをやっているという解釈的な差異は殆どないから特に意識する必要はないと思う。録音が貧弱なのは仕方ない。○。
プロフィール

岡林リョウ

Author:岡林リョウ
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
リンク
カテゴリ
TAG

ストコフスキ 四重奏団 フィテルベルク ミュンシュ トスカニーニ コンドラシン バルビローリ 作曲家 モントゥ アンセルメ 作曲家演奏 ブール エネスコ ガウク ミトロプーロス ロスバウト サージェント オイストラフ フランセ ワイエンベルク ORTF アンゲルブレシュト サモスード デゾルミエール イワーノフ ゴロワノフ ムラヴィンスキー ピエロ・コッポラ モイセイヴィチ ベーム セル クーベリック カルミレッリ シュヒター バーンスタイン ビーチャム パシャーエフ ツィピーヌ アルベール・ヴォルフ パレー ウォレンスタイン アラール オーマンディ サモンズ 山田一雄 ロストロポーヴィチ シェルヘン モートン・グールド ギレー モイーズ 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。