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サティ:スポーツと気晴らし

ヴァージル・トムソン(解説、朗読)マッセロス(P)(SLS)カーネギーホール1969/12/19live

レクチャーのあと笑いを交えた原詩朗読とピアノ演奏が進む。マセロスはうますぎてサティ屈指の名作の奥まで聴かせてきて、かなりスピーディーでもあり技巧的な曲のように演っているのが、サティファンには情緒がないと思われるかもしれないが、上手いのは上手いのである。こりゃドビュッシー同時期の前奏曲集にも匹敵する名作だわ、と思わせてしまうのは、指回し過ぎかもしれない。まあ、舞台でどういうようなスタイルでやっていたのかによるので、1つの演劇のような構成の中のものだし、このくらいの曲なのでマセロスも片手で弾きまくりながら何か視覚的なこともやっているのだろう。絵画と散文を配しサティが得意のアルカイックな書体でしるした楽譜からして総合芸術的な装飾性を示しており、このような形式の上演はただ音だけ取り出して聴かせるより原意を異化して汲んだものとして正統だろう。残念なことにモノラル。しかし瑞々しさは伝わる。
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サティ:ジムノペディ第1番、第2番(ドビュッシー管弦楽編曲)

デ・ランシー(ob)プレヴィン指揮LSO(RCA/sony)1966・CD

原曲は3,1番なのでややこしい。ドビュッシーの少し押し付けがましい編曲を、プレヴィンは細心の注意を払ってバランスを整え抑え鎮め丸め、これ以上はないほど「ジムノペディらしいジムノペディ」的な管弦楽の演出に成功している。オケが主張するタイプではないこと、木管のニュートラルな音色と技術的な安定感が成功に一役買っている。ドビュッシー版を聴くのにこれより良いものは無いと思う。2番(原曲1番)の密やかさは絶品。サティらしさというより、ジムノペディらしさなのだ。

サティ:バレエ音楽「パラード」

ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1967/2/15(1968/2/15?)放送live

同曲の古典的名盤で知られるロザンタール/フランス国立放送管弦楽団によるライヴ録音。一緒に黛敏郎の饗宴も演奏されている。これはまったく、セッション録音と変わらない。演奏精度はもちろん、何しろサティだから、手の加えようが無いわけで、ライヴだからどうだというところだ。率直に、サティ的にやろうとしたら解釈の余地が無いのであり、相変わらずデジタルに極端な楽想の羅列で、ゴツゴツした冒険的書法も無い後期作品(パロディ風味なので意図的なゴツゴツは(冒頭の乱暴なブラスなど)ある)、ロザンタールは客観的に整えたような和声重視の精妙な器楽的表現とキッチュにドガシャーンとやる派手な舞台音楽的表現を、当意即妙に使い分けて効果的に仕上げている。この音楽は簡素きわまりなく、だから逃げようもないのだが、音符も少ないから、一度理解すればオケはブレようもない。安心して聞いていられる。非常に「フランス的な」明るい演奏。拍手は普通。

サティ:ジムノペディ第1番(ドビュッシー管弦楽編曲)

ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団victor1937/12/12

悪趣味なデフォルメの施された灰汁の強い演奏、でもプーランクの同曲独奏の表情付けも想起する。これはドビュッシー編曲の輪をかけてストコが編曲したようなもの。

サティ:梨の形をした三つの小品(デゾルミエール管弦楽編曲)

(ina)デゾルミエール指揮ORTFライブ、編曲が上手すぎてサティに聴こえないのはともかく、作曲家直伝?ということで歴史的価値がある。三つの小品に四曲加えて七曲、サティが楽章ごとに様式を違えているのがよくわかる。

サティ:ヴェクサシオン

ダルベルト(P)(erato)言うまでもなく抜粋。同曲には74分録音なんてのもあるが言うまでもなく抜粋。宗教的な趣のある曲で、サティの意図(してるかどうかわからないが)が非常によく伝わってくる。繰り返しの繰り返しが繰り返しに聴こえないほど見事に連環

サティ:家具の音楽

Mコンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団erato1980年2月。ミヨーと共謀した「BGM」の実験は失敗に終わったが、プープカプープカやられればそりゃ聴いてしまうだろう。ヴェクサシオンのようにピアノ一台で音の連環を聴かせるのが適切だったと思うのだが。

サティ:バレエ「本日休演」〜幕間(映画のための)

M.コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団erato1980年2月、映画が残っており、ミッキーマウシング紛いのことをやっていたサティには驚かされる。パラードほど猥雑ではなく清新。ピアノ曲のようにミニマルな趣はない。

サティ:猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ

M.コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団erato1980年2月録音。他に録音は無いのではないか。サティは朗々と歌わせることはしない。音はすべて断ち切られる。そこが普通ではない。これは古典音楽的なマジメさもある

サティ:夜想曲

○J.ウィーナー(P)(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP

ウィーナーはピアノ曲集がCD化もされている。さりげなくぶっきらぼうにサティ風の演奏を目指しているが、ニュアンス表現に特有の解釈が読み取れる。ペダルを効果的に使い分けるなど、なかなかいい。

サティ:潜水人形抜粋

○ベヌイ?(SP)J.ウィーナー(P)(FRENCH BROADCASTING SYSTEM)LP

同時期に作曲されたピアノのための夜想曲、ソクラート抜粋からなる二回分の放送記録。ウィーナーはピアノ曲集がCD化もされているが、ここではヴィエネルとされている。三曲をとりだしているが子供の歌唱に近づけ(ほんとに子供か?)おもしろく、サティの手慣れた小歌作曲手腕を楽しめる。サティの独自性とパロディのバランスが1番とれていた時期だろう。幼児性が素直に発露しているのがいい。歌手名疑問。○。

サティ:梨の形をした三つの小品~二曲

○オーリック、プーランク(P)(Bo?te ? musique他)

これは護摩粒を撒くような素晴らしい表現の作曲家兼ピアニストの音楽が楽しめる。短いしパロディが先にたつ曲でもあるが、それでもリリシズムをたたえた感傷が心を打つ。リズムの面白みもしっかり伝わる。

サティ:パラード

○オーリック、プーランク(P)(Bo?te ? musique他)

SP録音でCD未復刻というが(web配信されている)私は全集もののCDで持っていた覚えがある。ピアノは巧い。パラードがどういう曲なのかわかるように表現している・・・抽象化せずキッチュに演奏し、サティのごつごつした書法がどこに源流を持っているのかわからせるようなものである。サティは未完成の才能ある作曲家だった。未完成という部分がしかしサティの最大の価値である。新しい音楽への「抜け道」が示されていたからだ。ただ、パラードぐらいになると、音楽的な先鋭さよりもイデオロギーに基づくパロディ性が先に立ち、流行音楽という範疇で捉えられるものになってしまう。ピアニストとしても腕たつ二人はそのプロフェッショナルな部分がサティを真面目な顔にしつらえるきらいはあり、強い印象は与えないが。

サティ:舞踏音楽「パラード」

○E.クルツ指揮ヒューストン交響楽団(columbia)LP

まるでチャイコかブラームスのようなパラード。最初はけっこう楽しめるが、ミニマル的書法とデジタルな展開がレガートなロマンティックな表現を拒否し始めると違和感が否めなくなってくる。高音域でハープを交え奏でられる(演奏的には美しい)曲と中低音域でうねるように重厚に表現される曲があいまってくらくらさせ、とくに後者がミニマルではなくマンネリズムと感じられ始めると、早く終わらないかな、という感覚に囚われる。まあ、でもサティなのであり、編成が大きすぎることもあろうし、ロマンティックな表現もある程度は許容できる度量のある曲なのだな、といったところで○にはしておく。

サティ:臨終の前の思索

◎プーランク(P)(ACCORD他)1956惚れ惚れするような美しい作品群であり、楽曲間のコントラストも明確で変化に富んでいる。小さなダイヤの結晶のような美しさ、単純な中にも必要な音楽的哲学はすべて内包されている。ドビュッシーのピアニズムすらこの中に取り込まれる。完成期のサティの作風をもっともよくあらわした作品のひとつと思う。短いだけにボロが出なかったとも勘ぐれるのだが、そもそもサティはこの長さ(3分くらい)の作品しか(ピアノでは)遺していないのでそう断じるのはそもそも無粋なやり口だろう。プーランクは確固たる歩みでこの曲のフォルムを明確化し、繊細なひびきと一寸聴き不器用な転調をうまいバランスで生かしたサティ像を描き出している。非常に巧緻な演奏。◎。,

サティ:天国の英雄的な門への前奏曲

○プーランク(P)(ACCORD他)1956プーランクやフェヴリエが独奏・重奏したサティの盤、複数社から出ていたCD、LP群を一気に1枚のCDにまとめあげた恐ろしくコストパフォーマンスの高い盤からの一曲です。アコードのフランス音楽歴史的録音シリーズはまったくEMIの廉価盤と並んで恐ろしいほどお買い得。私はなんだか今までの収集が阿呆らしく思えてきてならない。さてプーランクの演奏はかなり表現意志が強い。サティの楽曲の根本に横たわる歌心を巧く引き出し、ひとつの物語性を持たせ説得力ある演奏を繰り広げている。プーランクのジムノペディ1番については別項に書いたが、サティ本人が聞いたら顔をしかめるかもしれない。現在のサティ演奏の流れからいっても異端である。だが、初期作品の旋律に感傷性が無いといったら嘘になる。このペラダンの神秘主義に感化されていた時期に書かれた作品も、短いながらも剥き出しの新鮮なハーモニーに載せて流れる旋律はドビュッシーやラヴェル(とくにラヴェル)を予言するようなフランス印象派の繊細な感覚に満ちている。結局印象派とは訣別して音楽の単純化を求めたサティも、若い頃はある程度はこういう曲を書いていた。プーランクは早めのインテンポをとっているが、重々しい和音と繊細な和音のコントラストを激しくつけて楽曲の起伏を強調している。ともすると静謐に始まり静謐に終わるような曲、しかし標題からすると重々しさが無くては形にならない。というわけでプーランクの解釈は真をついている。,

サティ:自動記述(1913)

プーランク(p)(CBS)ロマンティックすぎるきらいもあるが、好きな演奏だ。残響が心地よい。柔らかい抒情がある。,

サティ:自動記述(1913)

グレイツア(p)(VOX)VOX廉価盤2枚で殆どの曲を聴くことができる。サティにうってつけの強調しない解釈ぶりや、安定して不変のリズム、残響の無さが、「サティ像」を彫刻する。だが、この曲はもう少しゆったりとした表現でも良かったか?…しかし、曲自体サティの「客観性」を最も具現化した題名を持つ(「自動記述」とは作者としての人間の“介在”しない作品ということだろう)ことからも、このような感傷を排した演奏をきくべきなのか?…にしてはややエキセントリックかも?,

サティ:家具の音楽(1920)

マリウス・コンスタン指揮アルス・ノヴァ合奏団 (ERATO)1980・CD

4、5年前に沢田研二が司会をつとめていた「ワーズワースの庭で(だったっけ?)」の猿真似番組で、「エリック・サティと椅子」という特集がなされたことがあった。サティ自体ブームが去り、冷静な視点から寧ろ冷ややかな視線すら注がれるようになっていたこのころ、何故そういう特集がなされたのか判然とはしない。 ”BGMの元祖、ミニマル・ミュージックの元祖”として、この有名な「家具の音楽」をとりあげ、二十世紀はじめのアール・ヌーヴォ家具と無理矢理結び付けられていた。ケージのような才能ある作家が必要以上に騒ぎ立てたことで、サティ存命のころ繰り返されていた、「異常に持ち上げて一気に落とす」ブームの波は、戦後現代によみがえった。不思議なのだが中世の王の間で食事時に奏でられた室内音楽や、酒場でよっぱらいのために奏されたピアノ音楽は、BGMではなかったのだろうか。教会や寺院で宗教者が繰り返す音律を持った祈りの言葉は、一種のミニマル・ミュージックではなかったのだろうか。取り立ててサティだけを持ち上げる(=次にはすとんと落とす)ことも無いように思う。寧ろ作曲家にとっては迷惑だろう。奇矯な発言や一種哲学的雰囲気を持った生き方、趣味の特異性(このひとの細密な戯画や飾り文字は一見の価値がある)、存在そのものがパフォーマンスであったから、ストラヴィンスキーが指摘した「管弦楽」における要領の悪さなども、「痘痕も笑窪」的に受け取られている(この音楽でも「いつもと同じ」スコアリングがなされていて、それ自体特徴的でもなんでもない。貧者のミサやヴェクサシオンのころの音響実験のほうが、ずっと豊穣だ)。何より彼の放つ示唆的雰囲気に、パリの芸術家たちは、「自分の中にある」デーモンを引き摺り出された。音楽家でいえばラヴェルやミヨーなど良い例だ。ラヴェルは初期サティの精華を受け継いだのみだが、実験音楽という行為自体を好んだミヨーは、「家具の音楽」の共同作業後も、即物的主題による小曲を同様の趣旨で発表している。特異ではないが佳い曲だ。まあ、でも音楽家以上にダダイストのちシュールレアリストをはじめとする画家・芸術運動家への影響が大きいだろう。サティがまさに本当の「異能の持主」であった若い頃、毎夜「黒猫」でピアノを奏きながら、不躾な酔客たちに店の調度の如く無視され続けた経験が、後年”発見”されもてはやされてのち諧謔的精神と結びつき、「きかれない音楽」へと結晶したのではないか、と私は勘ぐっている。短い間奏曲の一部もしくは古典音楽の展開部のごく一部を切除したようないわば「音の断片」を、ひたすら何度もくりかえすことにより成り立つこの三曲、傾聴してきくには余りに単純で、意図どおり「無視して」聞き流すには「癖」がある。1曲め「県知事の私室の壁紙」3曲め「音のタイル張り舗道」は、特に妙な「力」がある。同曲を画廊で密かに初演しようとしたさい、客を静粛にさせてしまったのも無理も無く、パフォーマンス作品としては「失敗作」だった。最弱音で流したとしても、ペットの堅い響きや、主題の妙な魔力が脳のどこかを捉えてしまうだろう。耳について離れない。これは魅力的で離れないのとは違う。このあたりがサティらしさなのだろうが、どうも「オンガク」とは違う気がするのは私だけだろうか・・・。さて冒頭にあげた番組には一人とてつもなく素晴らしいゲストがいた。マドレーヌ・ミヨー夫人である。出演時間はほんの僅かで、文献でつたえられる「家具の音楽」の失敗風景をそのまま語っているにすぎなかったが、生前のサティを知っているしかも最重要人物が、こんなしょうもない(失礼)番組に出たことに感動した。女優らしい夢見るような口調。今でもお元気なのだろうか。何を書いとんねん、という方のために。サティは晩年の一時期、環境音楽的な発想にとらわれていた。積極的に聞かれようとしない音楽、つまり絨毯や椅子といった家具調度品のように、生活の中に即物的に取り入れられる軽い音楽の在り方を提案しようと思い付いた。お高くとまりコンサート会場でご婦人方の涙を誘う音楽などくそくらえ、そこで同じような信念を抱き、親しく交わっていたコクトー&六人組サークルの代表格ダリウス・ミヨーの助力を得、大正9年3月8日画廊で行われた友人の芝居の幕間に、「絵や椅子、光、温度と同様の快適さをもたらすものとして」試演をこころみる。だが、事前に「無視するよう」周知されていたにもかかわらず、客は会話を止めたちどまり音楽に耳を傾けてしまった。失敗。「ほほえましきいたずら」とされた。反権威の意図すらひとつのステイタスを持つものとして認められてしまう妙な社会。机上の芸術がお遊びのような離合集散を繰り返す。そんな夢見るパリはやがて戦乱のなかに消え去るが、サティ自身はそのまえに、さっさと「お暇」申し上げたという次第(1925年没)。巨人ドビュッシーの影にあって、市井の孤独者として生きた”中世の優しい作曲家”であった。(2000年頃記),

サティ:びっくり箱(ミヨー管弦楽編曲)

ミヨー指揮BBC交響楽団(bbc,carlton,imp)1970/9/21サティはノーテンキだなあ。いや、ミヨーがノーテンキなのか。楽しく猥雑な音楽。サティには旋律の才というものは確かにあって、ごつごつした不協和音のひびきや、ぶつ切れの断片の不器用な接続、それら生硬さを別とすれば、聞ける音楽、である。これはサティがバレエ・パントマイム用に準備した3楽章の小品で、死後残されたゴミだらけの部屋を六人組メンバー+で大掃除したときにピアノの裏から見つかったピアノ譜を、ミヨーが管弦楽配置したもの。3楽章など複調的な響きはミヨーふうだし、モチーフの執拗な繰り返しはストラヴィンスキーを思わせるところもあり面白い(勿論どちらもサティが先んじて使用していた手法なのだが)。最後の奇妙に協和的な和音はサティのオリジナルかどうか疑問だが、「無害な小曲」として楽しむことはできよう。そういう曲。,

サティ:バレエ音楽「パラード」抜粋(ピアノ連弾ミヨー編曲)

○オーリック、プーランク(P)(FREMEAUX&ASSOCIES)1937/7/15、16六人組のピアノ演奏にはみな特有の美感が内在する。どこか哀しげで感傷的な音、夜のしじまに流れ出る密やかな涙の滴る音。この盤は音楽とコクトーの朗読が交互に収録されているが、私はフランス語無明なので音楽だけ抜粋して聴く。明るくタノシイ皮肉屋の音楽がサティの意図だろうが、このピアノ版では闇夜にうかぶ昨日の夢のような郷愁が感じられる。サーカスの賑わい、古き良きパリ。サティの、簡潔で隙の無い描写音楽はピアノ化によってその特質をさらに強めているように聞こえる。むしろピアノ向きの曲にすら感じる。この時代においてはすでにサティは時代の先端を行く作曲家ではなかった筈だが、いくぶん荒涼とした孤高の音楽世界は時代を超越して今のわれわれにも訴えかけてくる。いや、オーリックとプーランク~いずれもサティ晩年には彼のもとを去っていった、とくにオーリックは最年少でサティに寵愛されていたため、その強烈な離反はかなりショックを与えたという~のふたりのすぐれた音楽性によってさらに魅力を増したのだ。サティの硬質で透明なハーモニーの世界はストラヴィンスキーの言うとおりピアノの方がよりダイレクトに伝わり易いようだ。「展覧会の絵」で言うところのプロムナードにあたる「ちゃんちゃかちゃんちゃかちゃんちゃかかちゃかちゃ」は原曲で聞けば非常に世俗的でやかましい音楽に聞こえるが、ピアノになると「とんとことんとこと・・・」といったふうで変な力が抜け聴き易い。反面力感がなく前後の場面とのコントラストがはっきりしない面もあるが上演版でないかぎりはこのピアノ版で十分満足できよう。○ひとつ。パラードは「春の祭典」以来の確信犯的ダダ・バレエとして大騒ぎを起こした。緞帳にはピカソの絵が大きく描かれた、総合芸術的スキャンダルだった。この緞帳は最近?日本に来たが、かなり巨大なものである(ピカソ作と言ってもピカソが刺繍したわけではない)。この曲はミヨー版のピアノ編曲があったような気がするが、わからない。ミヨーはサティのもっとも重要な共同活動家だった。「家具の音楽」の共作は有名。サティの即物的感覚をミヨーはのちの「花のカタログ(花屋のカタログの1ページ1ページの印象を音楽にしたもの)」などの作品で引き継いでいる。,

サティ:サラバンド第2番

○プーランク(P)(ACCORD他)1956ドビュッシーを思わせる装飾的なフレーズや和声感覚が横溢し、この作曲家の先駆性を強く感じさせる一曲である。1887年、作曲家21歳の作品。処女作?オジーヴの次の作品であるが、実験的和音の堆積だけで描かれた前作とは違い繊細な和音で繋がれた美しい旋律の断片が洒落た雰囲気を醸し出している。瑞々しさの中にも深い思索が感じられ、才気溢れる作曲家の多面性が既にして現われている。プーランクはドビュッシーのように演奏している。,

サティ:グノシエンヌ第3番

○プーランク(P)(ACCORD他)1956ちょっとエキゾチックな音楽である。その暗い雰囲気の中に、孤独で、そこはかとなく哀しい雰囲気があふれている。しかしお上品なお客様にとってはまさに一級品の雰囲気音楽、今でも人気があるのはそのせいもあろう。個人的にはあまり好きな雰囲気ではないのでよくは聴かないが、サティの個性のはっきり顕れた初期の名作ではある。プーランクはあまり解釈的なものは付け加えていない。,

サティ:3つのジムノペディ~Ⅲ、Ⅰ(ドビュッシー管弦楽編)

◎バルビローリ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ(testament)1969/1/22liveびっくりだ。こんな曲が選ばれていたとは。バルビローリは繊細な音表現に長けており、この演奏もその恩恵を被っている。なめらかで感傷的な音楽、ドビュッシー版はどんな演奏でもあまり感傷的に響いてこなかった気がするのだが(非常にリアルな音の集積の感があった)、この演奏は違う。とくに第一番の注意深く旋律をうたうヴァイオリンのひびき、ハープの典雅な伴奏、オーボエの感傷的な歌。同曲のベストと言ってもいい。,

サティ:3つのジムノペディ~Ⅲ(ドビュッシー管弦楽編)

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL/HMV)1930/4/14・CDパールのCDには第1番とあるが原曲は3番なので3番と書いておく。ついでに、クーセヴィツキーは1番も録れているのだが、パールは何故か3番しか復刻しなかった。1番については別途書きます。短い曲でもドビュッシーは細かい仕掛けを施しており、楽器法も巧いとまではいかないが凡庸にならず耳を惹く。主旋律の受け渡しなど1番より成功していると思う。クーセヴィツキーはその本領を発揮しているように聞こえる。伴奏のハーモニーが硬質な音で完璧に響いているのに驚かされる。新しい録音だったらまるでブーレーズの演奏のように聞こえたことだろう。バランスのすこぶる良いハーモニーに感動。○一つ。清澄でゆったりした夢幻的なテンポに陶酔。,

サティ:3つのジムノペディ~Ⅰ(ドビュッシー管弦楽編)

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)CD化不明。クーセヴィツキーの静寂の表現はなかなか聞かせるものがある。この悪い録音条件でも非常に精妙な響きが作り上げられていることに感銘を受ける。LPだと音に生生しさが有り、適度な重みもある。サティの代表作をドビュッシーが編曲したものなわけだが、違和感を感じさせないように細心の注意を込めたクーセヴィツキーの鮮やかな手腕が生きている。ラテン系の指揮者のやるような開放的な演奏だとかなりスカスカ感のある編曲だが、緊密で集中力のある演奏を得意としたクーセヴィツキーならではの安定感のある、品の良さすら感じさせる演奏だ。○。,

サティ:3つのジムノペディ(リチャード・ジョーンズ管弦楽編)

◎ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(NAXOS/CAPITOL)CD ドビュッシーの編曲を下地に3曲版に作り直したらしい(ライナーがフランス語なのでよくわからん)。なかなかサロン・ミュージックふうの典雅な演奏になっている。アルカイックな雰囲気を醸し出すハープが美しい。珍しく弦楽器が表情豊かだ(3曲目のチェロの「泣き」のビブラートがイイ!)。さびしげな表情の未亡人が白い窓辺で思い出に浸るある晴れた午後といった感じ。嫌いじゃない。むしろ好き。◎。,

サティ:三つの交響的ドラマ「ソクラート」

◎レイボヴィッツ指揮パリ・フィル他(EVEREST他)

モノラルもあるというが未聴。レイボヴィッツはフォルムを明瞭にし繊細な叙情を注意深く音色にこめて、臭くならない起伏をつけてこのカンタータを非常に聴きやすく仕立てている。美しさの中に秘めたる感傷性が素晴らしく迫ってきて、春のうららかな陽気の中に、皮肉で残酷でしかし化石化した遠い事件を見るような思いがする。歌唱も適度にやわらかくサティの突飛さや内容の強さを適度に緩めている。6人組的な演奏とも思った。◎。

サティ:ジムノペディ第3,1番(ドビュッシー管弦楽編曲)

○ライナー指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R他)1960/3/25live

小憎らしいほどに完璧な表現で描かれた「サロン音楽」。アメリカ一般市民が想像しうる「上流階級の師弟が集う場に流れる音楽」そのもの。しかしサティは貧乏な一介の酒場のピアニスト兼作曲家であり、後年もダダイストとして富とは無縁の活動を続けたのである。しかしその音楽はドビュッシーによって、「こうも表現可能なほどに」香気を漂わせるものになった。「あなたが欲しい」などサティは今もスタンダードに歌われるシャンソンの作曲家でもあり、その意味で大成功した作曲家・・・の筈だったのだが、この曲にはやはり闇があり、それはピアノの途切れ途切れの音粒の間から立ち上るものであり、擦弦楽器の途切れないレガート音では表現しえないものである。ライナーは小憎らしいほどのデュナーミクへの配慮、バランス感覚により違和感を極力抑えている。ほんと小憎らしい。録音が悪いので○にとどめておく。(シカゴ交響楽団自主制作CDボックスに正規版が収録、別項で◎評価)

サティ:交響的ドラマ「ソクラート」

◎ラロー(sp)ソゲ指揮管弦楽団(CEPEDIC)LP

ソーゲはサティが好き過ぎて一大コレクションまで築き上げてしまったが(この曲の原譜もソゲ・コレクションにあったのではなかったか)、サティ最後の使徒としてのその熱さが、演奏をほんとの交響的「ドラマ」にしてしまっている点は賛否あるだろう。私は聴きやすくて、感傷的になり、◎をつけてしまったが、サティの意図はソクラテスの理念の白骨化した標本であり、語謡のように感情のない歌である。それには沿っていない。ただ・・・私はこの「ソクラートの死」は大好きである!最後、もっとぷつんと切れるさまがはっきりしていればもっと。ちょっとなにげにぷちっと終わるのが短すぎる感じもする。でも名前は不詳だがオケも含めて抑制的な中にも激しさを篭めて秀逸。
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