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グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」

〇ラフミロビッチ指揮ローマ聖チェチリア音楽院交響楽団(EMI)1949/3ローマ・CD

初録音盤とあるがアメリカ初演者ストックもストコも部分又は短縮版ではあるが戦前に既に録音を遺している。この指揮者は比較的若くして亡くなってしまったので余り知られていないが、アメリカ20世紀前半における俊英の一人としてそれなりに名のある存在である。ロシア出身であり極めて少ない録音記録のほとんどがロシアものである。キャピトルに遺されたのは何れも聖チェチリア音楽院管との録音で、結局イタリアからの帰途の船上で亡くなったためジブラルタルをのぞむ場所に葬られることになったのだが、このオケには珍しいレパートリーは演奏史上独特の位置を占めるものといえる。

演奏スタイルは剛速球型でガウク的な突っ走りかたが楽しいが、復刻によってはその力感が伝わりにくい。何せ元が戦中戦後の古いものであるから復刻のさいの雑音除去によって生々しさが大きく害われかねない。このCDはまさにそのたぐいのものであり、できれば音量を最大にして短距離走的な烈しく揺れないスピードや2楽章のむせ返るような弦の音色の饗宴に耳を傾けていただきたい(イタリアのスクリアビンってこうなるんだ!)。颯爽としたテンポは感傷がなくスマートで清潔、だが力強く推進する音楽は、トスカニーニとも違うロシアの荒々しさを(人によってはだらしないと言うかもしれない縦の甘さ含め)内に秘めており、「人ごとではない」思い入れも意外と感じさせるところがあり、なかなか聞かせるのだ。歌心は輝かしさを放ちイタリアオペラでも演歌でもない美しい命を感じさせる。線の細い音が曲の迫力を減衰させている面は否めないが、非常に構造的に演奏しているため薄さは感じない。対位的な動きを鮮やかに浮き彫りにしてみせた3楽章後半は聞きものだ。短縮版を使用しているため物足りなさを感じるところもあるがこれも演奏の余りの充実ぶりの裏返し、もっと聞きたかった、である。響きの凝縮ぶりはモノラルだからというだけではない。曲への理解の深さと高度なテクニック、コントロールの上手さ、アメリカの指揮者と言って馬鹿にしたら損をする。この指揮者がタダモノではなかった、ということ、もっと円熟した演奏を(いささか一本調子で飽きる箇所もある)、いい音で聞きたかった。〇。
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某オーケストラにメールを送ってみた

一分後に返信が来た。
・・・たぶん間違い返信(相手が違う)。でも・・・英語じゃないから内容がさっぱりわからん・・・これじゃ指摘してあげることすらできない・・・ちなみに私は英語で送りました。英語読める人たちだと思うんだけど。ううう。

語学は重要です(キッパリ)

ヴォーン・ウィリアムズ:弦楽四重奏曲第2番

フィーデル弦楽四重奏団(fontec)1979/4/24

この団体は(このデビュー後10数年時点では)柔らかく暖かい音がどうにも出せないというか、でも、RVWの曲はかなり明瞭で鋭角的な音を要求する場合が多いからどうしてもしょうがないのかもしれないが(ここらへんまさにラヴェル的なのだが)二楽章の荒涼はそういう鋭角的な音でいながら遠く霞むような・・・非常に、非常に難しいのだが・・・灰白色の霧の世界を描かねばならない、その点、ちょっと4本が不揃いということもあって(RVWが折角構造的に書いているのだから内声部にもっと頑張って欲しいものだ)いかにも巷にありがちな表現に止まってしまった。だからこれを聴いてRVWってどの程度の作曲家かわかった、というのは大間違いである。4楽章にはがらっと変わって温もりが欲しい。このコントラストが肝の曲なのだから。クリスマスの夜の小さな思い出のようなこの暖かい誕生日プレゼントは、もっと素直に感情を入れないと余りに軽すぎてバランスが悪い。全般感情の起伏が巧く音に出ていない。だが1、3楽章の焦燥感に満ちた音楽は確かにある程度成功はしているので、マイナスにはしないが、やはり、本国物には負けるのか・・・日本人奏者がんばれ。ム印。

ラヴェル:弦楽四重奏曲

フィーデル弦楽四重奏団(fontec)1979/4/23

先入観で聴いてはいけないと思うのだ。確かに現代日本ではこれより巧くラヴェルを紡ぎだす団体はいる(だろう)し、音色的にもやや硬く金属質で柔軟性がないから個人的には人のぬくもりがなくアウトなのだけれども、ラヴェルにはまさに金属質な正確な音程でピアノ的とも言える音価の正確さだけが求められる。それならもっとボロディン並みに磨き上げられた演奏なんていくらでも、と言いたいところもあるが、ちょっと面白かったのは譜面にない表現をつけるところが若干見られたことである。そういうワサビの効いた演奏が私はとても好きだ。それならもっと創意を、と言いたいところもあるが、でも、全般になんとなく、若いけれど、よかったです。ム印。

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J.シュトラウスⅡ:ワルツ「ウィーンの森の物語」

サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

序奏部は軽音楽に止まらないリッパな後期ロマン派管弦楽曲の世界だ。ホルンソロの美しさ。フルートのかもす朝の空気。グリーグやディーリアス的ですらある。そこからヴァイオリンソロでそくっとさりげなく始まるワルツにはぞくっとする。このひとの曲は新しい。クラシカルでアカデミックなロマン派音楽のそれではない。人々の心を捉えたのは魅力的なリズムと旋律と用途+イメージだけだったのだろうか。この美しい序奏・・・ロシア国民楽派の、特に折衷派チャイコフスキーが憧れた高音域だけによるハーモニックな旋律に通じるもの。ロシア国民楽派と呼ばれる一派はプロコショスタコ大好きさんたちに言われるほど頑迷でアマチュアに拘った集団ではなく(そんなのスターリンのイメージにすぎないし時代が半世紀以上違う)、元々ペトログラード楽派(五人組ら独自性を求めた陣営)を中心としたロシア国民楽派の人たちは、本業とウォッカ以外の人生の全てを西欧の伝統的な・・・とくにハイドンやベートーヴェンといった源流部分の・・・音楽の研究についやし、室内楽で実験を繰り返し、そのうえで革新的な表現を求め同時代の前衛であったワグナーらの手法を取り入れるとともに民族音楽の世界に足を踏み出し、ナショナリズムの風を受けてリストの轍を踏み自国の民謡収集から初めて「新しさ」とはどう表現すればいいのか、その源泉は実は足元にあったのだ、ということに気づいた。それはさらにムソルグスキーなどの天才の手によって昇華され、アカデミズムとの拮抗に悩む若きフランス楽派に核心的なインスピレーションをあたえ、結果的に世界の音楽地図を塗り替えた。モスクワ楽派(ルビンシュテイン、チャイコら折衷派と言われた西欧寄りの陣営)とて外から見れば五人組から遠いところには決していない。長い作曲家の人生の中で作風だって変わる。チャイコの初期曲は五人組に模範とさえ言われた。辺境に多いシベリウス至上主義者たちだって政治的に迫害を与えたロシアそのものからの根本的な影響を否定はできまい。ナショナリズムを大管弦楽によって高らかに宣言したのは(伝統的なドイツイタリア以外では)ロシアが初めてなのだ。西本某がロシアオケを振ってフィンランディアを演奏しているCMを見て奇妙な感覚を覚えつつもそのあからさまな表現手法のベースにロシア国民楽派のやり方があることを感じる向きはいなくもないだろう。ヨハン・ユリウス・クリスティアンさんが純粋なフィン族と言えるのか疑問を投げかける人もいる。フィンランディアが最初から民族鼓舞のために作曲されたものなのかという人もいる。そんなとこまで網羅したうえで(そんなのどうでもいい雑音だとは思うが)まだイデオロギー的な口ぶりでロシアを否定するマニアはもう100年前までタイムスリップしちまえと言いたいところだが極東の黄色猿が言うことでもないのでこのへんにしておく。だいたい私もド素人だ。・・・何の話だ。

ワルツ部分は有名なものだが、それより室内楽的な部分でのさすがロシアと思わせるアンサンブル、弦楽器のウィーンより深い音色に感動しました。リズムを多少ズらしているのも意外。まあ、「多少」であり、けしてウィーン独特の体感的ズラしとは違う機械的なものではあるが(否定的に書いてるけどオーストリア以外のオケは大抵そうだ)。上品に踊れるがいささか遊びはないリズム。ただ、音楽として非常にまとまりよく、オケの力量が発揮された・・・特に音色と各パート、ソロ楽器の実力において・・・そのへんのガキが文句付け様の無い立派な(この曲に似合わない形容だが)演奏だ。ロシアなめるな。ボントロが野暮ったいって?あんたの音のほうがよっぽどみっともないわ(暴言)!楽想の多さのわりに大規模?管弦楽曲的な楽しみは少ない素人聴きカオスっぽい曲ではあるが、好きな人はどうぞ。

tag : サモスード

J.シュトラウスⅡ:ワルツ「春の声」

○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

いきなりハスキー。思ったより上品で音量表現の幅もあるがどこか粗野。強引なところが好き(キモワル)ロシアの軍人たちが地響きをたててワルツを踊る。まるで機械のようでいてしかし踊り自体は迫力に満ちている。とにかく生命力に満ちている、そんな演奏である。最初はウィーンふうのリズムの崩しが全く無いためマゼールのニューイヤーを聴いているようなつまらなさ(失礼)があったが、これだけ強い発音でしかし俊敏にリズムをとられると身を揺らすということは無いが思わず身を乗り出して聴いてしまう。ロシア国民楽派じゃないから清新な転調やスマートな楽想が脂を中和してくれている面もあるだろう。いや、脂は無い・・・。サモスードは割合とスマートなほうの指揮者だ。ガウク=スヴェトラ系とは違う。パシャーエフ=ヤンソンス父ともまた違うが・・・だいたい時代が違うのだが。ちなみに=は師弟関係を意味しているわけではないので念のため。わかりやすいよういーかげんに分類しただけです。いずれにせよリストの即興旋律が大元であることを考えると、リストの多大な影響を受けたロシア国民楽派と遠からずの縁にあったわけで、シュトラウス的な世界を毛嫌いする私もなんとなく違和感なく楽しめたのはそんなところにもあるのだろう。レコードでよかった。見た目の先入観がないから。

J.シュトラウスⅡ:こうもり序曲

○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

音色変化は少ないが音量や技巧的な変化はばっちり。それほど踏み外した発声もなく、技巧だけでいってもロシアの標準的なレベルには十二分に達している。いきなり唐突に雪崩れ込む始まり方には抵抗を感じるかもしれない。スノブ様の中にはいちいちザッツが揃わず表現の粗さが聞くに堪えないと一蹴する向きも多いと思うが、こんなの録音条件次第だ。マイクセッティングや会場設定でこのくらいのザッツの揃わなさは十分吸収されるものであり、通常客席の人の耳には届かない。その点一本マイクが固定的で弦楽に近くリアルに捉えられすぎているのである。ベルリン・フィルなりN響なり、ソリストでない弦楽器奏者の演奏を間近で聴いてみ。少なくとも20年近く前までは、お上品な人にはとても聴くに耐えないであろう雑味の多さだった。雑味を取り除くのは「会場の役目」でもある。雑味は強靭でしなやかな生命力を生み出すうえで飛び散ってしまう埃のようなもの、音響的にうまく操作すれば・・・たいていのホールでは普通に何もしなくても・・・弓の弦にぶつかる音とか指盤の軋みとか野太い音に弾かれたギリギリガツンガツンいう雑音なんて壁や天井に吸収されてしまう。そういう音を出さないと、アンプなんてものを使わないアコースティック楽器では表現できないものってのがあるのだ。大抵の曲には一,二箇所いやもっとそういう個所がある。弱弱しい音で綺麗に聞きたい耳のヤワな人は自分でそういう演奏をしてみ。人を集められたらの話だが。ちなみに、私はかつてそういうスタンスで結局ソロしかないという結論に達し、ソロとしては余りに下手すぎるので断念し聴く専門の側に回りました。

ガーシュイン:ピアノ協奏曲

○ソシーナ(P)A.ヤンソンス指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

冒頭の太鼓が抑制されすぎだって?ここで大見得を切るのがそんなにかっこいいか?事実この演奏はかっこいい。何がかっこいいって、ジャズにおもねることなくあくまでロシアン・シンフォニーの演奏スタイルで突き通したヤンソンス父がかっこいい。オケもかっこいい。ジャズなど眼中に無い。クラシック流儀で・・・まったく自分達のスタイルを崩さず譜面+解釈だけで・・・最後までやりきっている。ピアノも全くクラシカルで乱暴さの微塵も無い。でも、これはロシアの演奏だ。そういう理念だけのこまっしゃくれた演奏は新しいものにはいくらでもある。この演奏の凄いのはそういうクラシックの形式にはまった解釈と一糸乱れぬ統率力のもとに、奏者それぞれが力いっぱい演奏しきっていることだ。音楽の目が詰まって隙が無いのだ。型に嵌まるということがオケによってはこういう新しい効果をもたらすのか、と瞠目した。ブラスのロシア奏法だって(ヤンソンスだから抑制気味だが)あたりまえのように嵌まって聞こえる。とにかくこの演奏には血が通っている。クラシカルな人たちがよくやるようなスカスカで音符の間に風の通るような演奏ではない。こんな楽想の乏しい長ったらしい曲はジャズ「風」に崩していかないと(アレンジしていかないと)弾いちゃいられないはずなのに、彼らはこの曲を国民楽派のクラシックと同様に強いボウイングとあけすけに咆哮するブラスで楽しみまくっている。それだけなら緩徐主題をデロデロに歌いこんで瓦解していくスヴェトラの穴に落ちるところだがヤンソンス父はメリク・パシャーエフ的にきっちり引き締める指揮者だからそこでも決して緊張感を失わずに聴く耳を離さない。この人らしいところだが雑味がきわめて少なく、モノラルだし雑音は多いが私の厚盤では音にふくよかさがありデジタル変換して聴いても素晴らしく聴き応えのある低音のゆたかな音になっている。ちょっと感動しました。この曲をちゃんと聴きとおせたのは久しぶりだ。さすが20世紀音楽のロシア内における稀なる解釈者!録音マイナスで○としておくが、◎にしたい気満々。

コンドラシンの小組曲なるもの

本当に存在するんでしょうか?組合せがガウクのドン・キホーテ、ロジェストベンスキーのオネゲルでステレオ最初期、青のMELODIYAで恐らく初出C465。あ、もちろんドビュッシーです。

入手しそこねました(T-T)

聞きたい!!!!!

スヴェトラ/モスクワ・フィルのシンフォニックダンスなるもの

ラフマニノフの交響的舞曲、スヴェトラーノフとモスクワ・フィルのセッション記録があるという情報を元に某店店頭にて確認したところ思いっきり記載ミスでした。USSRsoで多分1972年スタジオ録音でしょう。ちなみに以下のLPです。
CM4011(メロディヤ)stereo
モスクワ・フィルとの盤なんて、やっぱりそんなもの存在しなさそうなので。。

音飛びがなければ買っておいてもよかったのだけれども。店員の不明瞭な回答ぶりと盤面のあまりの悪さに断念しました。。

スクリアビン:交響曲第3番「神聖な詩」

○イワーノフ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

雑味多くバラバラ感の強いいかにもロシア流儀の演奏で、押せ押せで流れてってしまうガウク的な部分含めこういうひたすらな半音階的旋律が続く曲ではいささか辟易しなくもないが、オケ内部から湧き上がる表現意欲の強さは買うべきだろう。これほど揃わない気持ち悪い演奏なのに強く惹かれるのである。録音はやや悪く、私の盤はさらにB面の中ごろが歪んでいてピッチが定まらず物凄く気持ちが悪い。ただ、前期(中期の前期?)スクリアビンがちょっととち狂うともうこういう「現代曲」に変容してしまうのか、と面白く感じるところもあった。妖しい動きはやがてほんとに妖しい和声感に満ちた世界へと変貌していく、この曲はその瀬戸際の曲であり、交響曲としての大きなまとまりをもった最後の曲である。普通の人には薦められないが、とにかく「本場モノ」としての確信に満ちた表現を買って○。

ストラヴィンスキー:交響曲(第1番)

○C.アドラー指揮ウィーン交響楽団(CONCERT HALL他)

現代音楽の知られざる推進者として主としてウィーンに多くの録音を残したマーラーの使徒によるストラヴィンスキーである。ストラヴィンスキーは交響曲と名のつくものを5つくらい作っていたか、有名なのは三楽章の交響曲あたり二曲だが、これは初期も初期、学生時代のしかし大作である。オケはまあこんなものか。「らしい」演奏だ。終楽章の木管がへろへろなのは曲のせいもあるだろう。自作自演のコロンビア録音とはかなり違う印象。もっと生ぬるくでも聴きやすい。これは、まずはグラズノフのフォーマットで書かれた習作であり、初期ストラヴィンスキーのお勉強の結果が出たものである。そこにはグラズノフ的楽想にリムスキーやリヒャルト的和声の導入がはっきり聞き取れるが、構成的にはどうも気まぐれで今ひとつしっかりしていない。1楽章の展開部以降は教科書的構成観に基づいているくせに何かぐだぐだな感じがする。ぎごちないが清新な転調や「火の鳥」の萌芽を感じさせる魅力的な楽想、リズムも余り執着なく一つの要素として通過され、結局横長の音符による和声的な進行によって退嬰的とも思える感じをもたらしたりもする(これは3楽章の「イリヤ・ムーロメッツ」のような終わりかたにも通じる)。2楽章のアドラーのアプローチはロマン派を意識したものになっている。自作自演だと初期ドビュッシーを思わせるような精妙さをかもす新しさが感じられるのだが、譜面をいじっているのかもしれないが(版が違うのかもしれない)グラズノフの凡庸な模倣者が書いたような、それでもまあロシア国民楽派らしい魅力を保ったものになっている。グラズノフの影響から脱しようという気分は聞き取れる。そしてそれはある程度成功はしている(4楽章の軽やかさ)。3楽章にしてみてもしっとりして美しい、でも何か浅薄なグラズノフ的抒情というものから一歩離れたような感じがする。・・・でも、この演奏自体の「最初はわかりやすいが二度目以降は飽きて聞けない」的アプローチのせいか、正直余り惹かれなかった。美しさでいえば4楽章の簡潔で構成的な音楽がいちばんで、目まぐるしい転調などにフランスの香が感じられるが、そのわりにいささか「枠」に囚われすぎている感もある。この曲は「ロシア国民楽派のストラヴィンスキー」と割り切って聴くべきものである。メロディのグラズノフ性のみを楽しもう。1楽章コーダ末尾でのユニゾン主題再現にのけぞっておこう。演奏的には自作自演よりは面白い。○。

(後補)近年CD-Rか何かで復刻したと思う。

シベリウス:交響曲第5番

○ザンデルリンク指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)LP

正直このころのロシア盤は雑音が酷いのだが、ロシア盤は独特の針や機器を要求するという説もあるのでいちがいに悪いとはいえまい。だいたい最近メロディヤ盤が本国から直接入ってくることはなくだいたい旧東側諸国から流れたものがちょぼちょぼという状態なので、CD化でもされない限りなかなか聴けない貴重なものであることは確かだ。見た目綺麗だがじつにしゃかしゃかと雑音が入る。そのため細部が聞き取りづらいのが正直なところなのだが、ロシアらしさというのはブラスのぶわーっという響きだとか弦の必要以上に強くためを作るところぐらいで、おおまかには奇をてらわずに素直に最後まで聞ける「好感の持てる」演奏だ。爆発的な推進力でそれまでの断片的な素材の気まぐれな交錯を一気にベートーヴェン的勝利に収斂させていく楽曲だと思うのだが、しばしばそうではない演奏というのにも出会う。この盤も例えばアメリカの指揮者ほど勝利の凱歌があがることはない。だが全体としてのまとまりはよく、唐突ではなくスムーズにクライマックスへ向かうさまが心地いい。

シベリウスのシンフォニーは各曲にそれぞれ「主題」がある。これら一連の交響曲群はよく発展論的に論じられ、技巧的に突き詰めていった結果交響的幻想曲である凝縮された単一楽章の7番にいたったという軌跡ばかりで語られがちだが、それぞれの個性を巧く引き出し、それぞれの主題を浮き彫りにすることによって寧ろそれぞれが独自の輝きを放ちだすものであり、隣同士が似ていても、結局は別物だ。たとえばバルビのシベリウスは両論あると思うが、交響曲全曲録音にあたっては曲によって技術的アプローチをどんどん変えていったといわれる。最後の7番をやるころには我々は全く違う音を出すようになっていた、というハレ管の証言者もいる。勿論これも番号順であり発展史観的なものに基づいたやり方ではあるのだが、たとえば3と4、5と6の間の違いをどう解釈したらいいか。あるいは、なぜ最高傑作と呼ばれる4、7番が滅多に演奏されず、1、2、5そして案外3番あたりがよく演奏されるのか、これは発展史観で説明しうることではない。それぞれやはり独立した楽曲であり、個性なのだ。その個性の魅力が、後者4曲が強い、主としてテーマのわかりやすさや楽想の親しみやすさだとは思うが、それでもやはり譜面面だけで「最初から全部楽想や構成が似ている」とかいうことを論拠に論理的に説明しようというのは無理がある。ためしに弾いてみて貰いたい。音形が似ていても、内容はそれぞれ全く違うから・・・

マーラー:交響曲第5番

○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(TOKYOFM)1984/4/13大阪フェスティバルホールLIVE・CD 

mpeg/HDプレイヤーを使うようになったがプレイヤーの仕様でアルバム名等参照しづらく誰なのかわからないまま聞くことが多い。それでもなんとなくわかるというか、「ドギツすぎるなー」と思って表現を控えた感想を述べていたものを、時をへて無名で聞くと、まさにその「ドギツい」感想そのものが直に頭に浮かぶ、それは後でデータを調べ奏者が明らかになった時点ではじめて一致を確認できるのだが、こうなると控えたこと自体がどうなのかと考えてしまう。「自分の好み」と「客観的事実」の区分すら明確と思えなくなってきた今、さらに後者における様様な指標、演奏面、演奏環境面、録音面、奏者のコンディション、伝える媒体特性、変換方式、更には聴取側のコンディションなどなど無数の決定要素を一趣味人が網羅し勘案することなど不可能と考えると、「自分の好み」しか残らない。音楽を知れば知るほど書けなくなってくる。アナライゼーションを音楽の楽しみとしている人々が私は羨ましい。私は音楽を聴くことによってしか楽しめない不具者である。

テンシュテは隅々まで解釈され尽くしたスコアに基づき音楽をガチガチに組み上げる。しなやかな整形が加わるため嫌味にはならないもののロマン派音楽の表現においてそのやり方は両刃である。横の流れの音楽の場合裏目に出ることもあるし、横の流れの音楽を好む「歌謡派」の人たちには受け容れづらい芸風になっている。だがやはり名演は名演だ。このオケの何と締まったアンサンブル、ドイツ系楽団には出せない明るく美しい音、テンポ的には緩く、それが客観的な演奏との印象を与えがちだが、漫然と聞き流せない「何か」が時折顔を出す。「時折」というのは多少否定的な意味合いも含んでいるのだが、バーンスタイン・マーラーが好きな人は、つまらないがライヴにしては異常に完成度が高い、と思うだろうし、逆の人はまさにこの「バランス」を求めていた、と思うだろう。カンタービレの噴出せざるを得ない弦楽によるアダージエットも、素晴らしい感情移入の音が覆い被さってくるものの、没入させるような情緒的な要素は解釈面では薄い。かといってもっとドイツ的な演奏に比べれば、オケの関係だろうが美しく流れよく素直に聞ける。素直に入ってこさせるというのは、奇をてらい強引に惹きつけるよりも数倍難しい。その芸当が、芸当と思わせずにここにある。この長大で一見散漫な曲の冒頭葬送ファンファーレからきっぱり明るく断ち切る終始音まで途切れずにある。それが凄い。

これは現代の演奏である。現代最高峰のマーラーである。この場に居合わせた聴衆は幸せだ。そこで叫ばれるブラヴォには他のテンシュテ・マーラーのライヴ盤できかれるものと同じひびきがする。それは一テンポ置いたもので、決して熱狂で我を忘れた愚かな声ではない。しかし音楽そのものに対する賛美であったか?寧ろ指揮者個人への想いが強く伝わる。上品な拍手こそがふさわしい演奏なのに、漠然と思う、そんな印象だった。長く書いたが稀なる完成度は認めるし音はいいけど結局惹かれなかったということでした。クリアな音なのに強奏部での内声部の動きが余り聞き取れないのも理由のひとつか。終楽章など明快な対位的構造と主として伴奏部分での弦楽器のマニアックなアンサンブルが聴きモノなのに、音が重なれば重なるほどブラスや太鼓だけしか聞こえなくなっていった。旋律偏重と聞こえないように旋律偏重にしている、巧い録音操作だと思うけどそれでは長さのわりに楽想に乏しいこの楽章は浅薄になる。

難しいけどね。真実を伝えるだけが音盤の目的じゃない。一般聴取者が楽しんで聞けるものに仕上げるためにはマニアックに読んでくるマニアの嗜好なんて排除されて当たり前。ソレが嫌なら懐の許す限り生聴こう生!

ドビュッシー:チェロ・ソナタ

フルニエ(Vc)プーランク(P)(TAHRA,HARMONIA MUNDI)1953/3/26トリノ放送・CD

はらはらと枯葉が落ちるようにはかなく哀しい冒頭からスペインの快活な舞曲にいたるまで僅か10分余りの曲だが三楽章をいっきに聞かせる力のある晩年の傑作である。録音の篭りもあって一楽章はいささか地味である。品よく個性の匂いのしないチェリストであり、この民族色濃い曲にあわないというか、さっぱり伝わってこないのだが、プーランクがなかなかやってくれる。明快快活で流石ヴィニェスの弟子、と膝を打つ煥発さだ。細かい所チェロともどもごまかしに聞こえる表現もなきにしもあらずだが、身を斬られて骨を断つ、まさに名人芸の勢いある演奏だ。フルニエの三楽章におけるフレージング、短いレガート表現の的確さには舌を巻く。求道的すぎるというか遊びが欲しいし色が欲しいしピチカートはロシア人みたいにバチバチ指板に当てて欲しいものだが、録音が迫力を捕えきれてないだけのようにも思える。弱音の響きの美しさ、情趣は寧ろプーランクのものだ。うーん、ジャンドロンにくらべ聞き劣りは否めないので無印。

ヴォーン・ウィリアムズ:田園交響曲(交響曲第3番)

○ボールト指揮ロンドン・フィル他(LONDON/BELLART)1950'S

優しく、優しく、しかし限りなく哀しい音楽。世界戦争の時代に産み落とされた極めて美しく繊細な響きの綾、何度も書き直されているとはいえ神がかり的な楽想と絶妙な複調性に彩られた世界は英国人でなくとも深い心象を与えられる。これは陸軍将校であったRVWの悲しみと諦念のあらわれである。戦下に見たプロヴァンスの喉かな風景、明るい光に憧れを抱く暗い気候の国の人は明るい国の人以上に光の本質をえがくことに優れ、これはミヨーの極めて美しい田園作品群と比べて決して優るものではない、だが何と眩いことか、残る気分の切ないことか、平和で穏やかな情景への限りない憧れに満ちたものであることか、その手はけして届くことはない、けれども精一杯手を伸ばし、限りなく上からひびく遠い歌声に静かな涙を流す、これはもう技法どうのこうのいう問題ではない。その描く内容が全てだ。「描けていること」のみに感嘆すべき作品である。

タリスの主題による幻想曲もそうだが茫洋とした印象派的世界かといえばそうでもなく、明瞭な旋律とリズムが通底するシンプルな(凡庸という意味ではない)書法だ。5番ほど技巧的に完成されていない分あざとさを感じさせること無く素直に入ってくる(私はとても好きだ)。この作品を五音音階(英国民謡に元々あったものだ)や似通ったフレーズだけをたよりにドビュッシーの延長上ととらえるのは誤りである。寧ろラヴェルの技巧的本質を反映した描線の明確な作品といえる。とくにこの時期のボールトで聴くと芯の強い響きと旋律の流れが印象的である。スピード感があり、じっさいかなり速いことは特筆すべきだろう。この旧録はモノラルだが、モノラルなりの凝縮力というものが強みに働いており、ドイツ的なものにも適性を発揮するボールトが、ドイツとフランスという相反する要素を内在するRVWの作品を両面から突き上げて、どちらかに偏ることによる違和感をなくすことに成功している。ボールトから入った私のような人間は新しい数々の演奏にどうも平板でつまらない印象を抱いてしまう、それはフランス的な美しさ、高音要素を強調しすぎているせいだと思う。もっと重心は低いはずである。音は高くても使われている楽器は中低音楽器だったりする、これは単なる癖ではなく意図的にその情報量豊かな響きを狙ったものである。

たとえば3楽章はダイナミックな音楽であるはずだ。誰かが映画音楽作家ジョン・ウィリアムズへの直接的影響を語っていたが、テデスコの弟子との関係は時代的に絶対ありえないものの、そこには確かに似たものがある。例えばスター・ウォーズのダイナミズムと必ずしも遠いものではないのである。違うのは映像を伴なわない、必要としないことだ。この作品は全てが心象の反映であるから映像や文章論理にあわせてしまうと聴くものの想像力が完全にスポイルされてしまう。挙げ句美しいだけの単なる描写作品と思われてしまうのだ。「印象派的」というイメージを植え付けられている向きは恐らくそういったもの~多くはジャケット写真や煽り文句~を見、読んだことが大きいのではないか。明瞭な文脈でしかし想像力を刺激するという稀なる技に成功しているこの作品、もちろんいろいろな聞かれ方があっていいと思うが、まだよくわからないという向きはボールトのバランスで一度聴かれてみてはいかがであろうか。最初は新録をお薦めするけれども。

ガーシュイン:ラプソディー・イン・ブルー

◎フィードラー指揮ボストン・ポップス、ネロ(P)(RCA)CD

ちょっと聴いただけでアメリカ、それもセミクラシック(セミジャズ)の相当の手練れによる演奏だということがすぐわかる。フィードラーのガーシュウィンは、まずこれを聴けというくらい板につき、特に創意が凄い(ソリストの力かもしれないが)。ガーシュウィンはジャズ的な創意を演奏者に要求する。そのまま演奏しても面白いが、数少ない旋律を繋いだだけでつまらない曲、という誤解を招きやすい。この演奏では、特にピアノの表現において、一音一音に実に俊敏な創意が篭められている。それはクラシック音楽に比べて(あくまで譜面上)単純に書かれている音楽ジャンルでは極あたりまえの行為なのだが、元来この曲がシンフォニック・ジャズという概念を実現しようとしたポール・ホワイトマンが自分の理想を余りにクラシック側にアピールしすぎたために、今だにクラシカルなアプローチ、つまり楽譜の忠実な再現に予定調和的解釈といったやり方が優先されすぎている。まるで飽きてしまうたぐいの、旋律と楽器用法の新奇さだけしかない曲にされてしまっている。この演奏には閃きがある。実は勿論予定調和であるのだけれども、それでも瞬時の閃きが音符の一つ一つから眩く放たれているのである。理解という点で、クラシックしか聞かないかたは是非フィードラー盤を聴いてみていただきたい。ここにはライヴではないにも関わらずライヴの熱気溢れる音楽が溢れ生き生きと躍動している。明確な打鍵と胸のすくような解釈で魅せるソリストにも拍手を贈りたい。このような大規模編成のジャズ風音楽で拡散的にならずここまで凝縮されまとめられるというのも凄い。名演。但し、録音が悪いのが生憎・・・ステレオではあるが篭もる・・・でも◎!ちなみに前に書いたフィードラーの別演にかんしてのコメントと全く正反対のことを書いているのは楽曲受容方法の多様性を示すものとして許してくださいね。人間ずーっと同じ感覚ではいられない、だから何度も書きなおす演奏もあります。

バレエ音楽「道化師」~ダンス・フィナーレ

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(RCA)1947/11/25LIVE・CD

クーセヴィツキーはロシア人指揮者らしくやはり表現が荒々しい。現代的なアンサンブルを聞きなれている向きにはばらけすぎ、あまりにアバウトに聞こえてしまうかもしれない。でも、一貫した強固な表現にはそれを補って余りあるものがある。粗さが気にならないのだ。聞かせどころのソロヴァイオリンなど非常に強い弾き方で、しかしだからゆえぎごちない感じもしなくもない。暴力的な推進力がとにかく聴きものだが、何しろこの指揮者の録音は音が悪すぎるので、実は精妙な音響感覚というものが耳を澄ませないと聞こえてこないのは痛いか。好きな演奏だが○に止まる。

ファリャ:三角帽子抜粋

○アルヴィッド・ヤンソンス指揮モスクワ放送交響楽団他(MELODIYA)

透明感のある音響でロシア系の演奏としては異彩をはなっている。美しい。もっとも細かいことを言えばアタックが揃わなかったり弦の弓返しがばらけたりとロシア流儀ではある。歌唱を含む抜粋版でやや凝縮力の少ない選曲だが、いい音で聴けば十分楽しめるだろう。燃え上がるはずの終曲の落ち着きぶり(特に遅いテンポ)がどうも気になるが、好き好きともいえる。このあたり現代的な指揮者といえ、マリス氏にも受け継がれている要素のひとつだろう。

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

フルニエ(Vc)コリン・デイヴィス指揮BBC交響楽団(BBC)1973/3/14live

BBCレジェンズの比較的新しい盤。面白くない。物凄くステレオタイプで(強引だな)物凄く控えめな演奏。臭い演奏が嫌いな向きは無臭ニンニクのようなこの演奏に惹かれるだろうし、それでもなお魅力を放つメロディに心打たれる人もいるだろう。しかし、私はとても、面白くなかった。何も残らなかった。美麗で、技術的に完璧な演奏であるにもかかわらず。この時期にしては録音がかなり篭もり悪いのも原因かもしれないが、音が悪くても強烈な演奏というものは訴えかけてくるわけで、その強烈さをこの曲に求める私には全くあわなかったというわけだ。全楽章。無印。終演後の拍手は物凄い。
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