スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ムーグORモーグ?

ムーグ社のシンセというとお馴染みである。発音的にはモーグが正しくて、そういうことに五月蝿いメンツはモーグと呼んでいる。シンセの創造主モーグ氏が亡くなった。今やキーボード操作による電子音楽なんて当たり前のように使われているが(というか大半の「普通の人」はそれと意識しないで聞いているだろう)かつてはマルトノやソ連のなんとかいうキワモノと同じ電子楽器というマイナーなくくり方をされていたわけで、しかし明確な理論とテクニカルな裏付けにより構築された、シンセサイザーという機構の優れた機能性はアビー・ロードへの採用を皮切りに、もしくは遡りヒッチコック作品を通して一気に世界に知れ渡ったわけである。

むしろまだご存命だったことに驚いたくらいだった。しかも70台だったわけである。それほどにシンセサイザーは生まれたときから共にあり、身近で不可欠なものという意識があった。音楽界にとっては・・・クラシックはどうだか知らないが・・・まるで半導体の発明と同じくらい古典的で絶対的な発明であったと思う。PC制御になり手軽に操作できるようになったことから、ワールドミュージックとの融合がはかられ今、音楽は土俗と先端の融合という確実に新しい地平へ向かっている。クラシックというジャンルはどちらかといえば土俗だ。主たる構成楽器の基本構造が何百年も変わっていないのだから伝統音楽と言ってもいいだろう(根はゲルマンの民族音楽だ)。

但しクラシックは貪欲に吸収し(また放出もし)成長しつづける音楽でもあり、コンテンポラリーの括りに限らずシンセは積極的に取り入れられていった。オルガンのかわりにシンセを使う演奏会なんていくらでもある。録音にさえ使ったりされる。クラシックの話題でモーグ氏の名が出るのに少し違和感があったのだが、出て当たり前といえば当たり前である。クラフトワーク、YMOといったエレクトロの源流「テクノ」の出自も実は富田作品のようなところだったりするのだし(ロック、特にプログレの世界では既に当然のように使われまくっていたのだが)。あるていどシンセのような機構に頼らざるを得ないアンビエント系の音楽もジャンルの境界線を探っていたクラシック畑の作曲家が切り開いたものなのだから、モーグ氏がいなければ今のヒーリングミュージックというジャンルも無かったろう。

土俗と先端の融合というところに話を戻すと、今クラブなどで流される音楽の地盤は未だ生音でないものが大半ではあるものの、ポップスという大雑把な括りの中では20年弱前に生音(一種の土俗だ)への大きな揺り戻しがあり、そして繰り返しになるが今その両極端を並行させながらも直接的融合がはかられている、いや、草の根ではもうずいぶんと前に始められている。シンセ(という呼び方がまだされているのかどうかもう知らないが)の生み出す電子音(リズム他のパラメータ含むもの)はその一極点を担う根本の柱になっており、それが無いことはもうありえない。

「電子土俗楽器」はアメリカの田舎マイナー音楽家の専売特許じゃない、アフリカでは既に歴史があるものだ。キーボード操作による西欧音楽理論の実践という根幹に対する入力端末として土俗楽器が使われることもあるし、その逆もあるが、いずれ聞けばその切り開こうとしている地平は見えてこよう。西欧音楽理論の一つの行き着いた形、それが沢山のコードを引きずる操作キーだらけの鍵盤セット、シンセサイザーそのものだが、理論を崩すものとしてもっとシンセの理論構造そのものの見直しを挑むような(しかし決して伝統から切り離された頭でっかちなものにならない)仕組みが知られざる土俗の中から現れ、融合しようとかかってくれば面白くなろう。モーグ氏がそこまで見届けられなかったのは残念だ。

現代、広大且つ複雑多岐で不要なほどに分化された「音楽界」にあってシンセは一様に血肉のようなものになりきっており、その呼称すら意味が無くなっているほどだ。またこの世にモーグ氏のような人は降り立つことがあるだろう。そのとき、音楽シーンはどのようになっているだろうか。クラシックは、クラシックという「国体」を守りつづけることができているであろうか?

続きを読む

スポンサーサイト

マーラー:交響曲第6番

朝比奈指揮大阪フィル(GREEN DOOR)1979/9/7LIVE・CD

割合コンパクトで軽い演奏。一楽章の提示部が繰り返されていても全く気にならないくらい軽い。艶やかさのない、しかし烈しい切れ味のあるオケは朝比奈のしばしばクレンペラー(50年代)と比較される無骨で率直な表現によくあっている。古典的な意味での交響曲の終焉にこの作曲家を位置づけていた朝比奈らしい構成感がよく出ていて、例えばアルマの主題に入るところで全くテンポを落とさずロマン派的な歌謡性を煽ることを避けている(リフレイン時に一気にリタルダンドするが)。愚直なまでに即物的に音楽を組み立てていく朝比奈、好悪物凄く別れるだろう。一楽章コーダ前のアンサンブル崩壊などあんまりな箇所もあって、余程即物好きかアナライズマニアでないと正直浅薄でヘタな印象しか残らないかもしれない。スピードはかなり速いから同じ即物主義とみなされていたシェルヒェンと比較できるかもしれないが、近いようでいて遠い・・・恣意性の有無以前に作品に対するスタンスが違いすぎる。シェルヒェンは自分の解釈を積極的に入れこんでいくが、朝比奈はまずは原典主義、そして原典にプラスアルファするのではなく「引き算する」ことでマーラーの指示を「正している」。近いようでいて、というのは現代の分析的な精緻な演奏スタイルとは共に掛け離れている、という意味だ。録音のせいもあろうが朝比奈の響きは美しいとは言い難い。弦楽器の健闘にも関わらず余りに思いの感じられない三楽章など、戦後期のクレンペラーならやりそうな類の乱暴な組み立てかただ。誰がやってもそれなりに聞ける、それだけで一大叙事詩の四楽章、これはやっぱりなかなか聞ける。二十年前の演奏といっても通りそうな熱気だ。オケにまずは拍手、ここにきてやっと名人芸的な瞬発芸やリズムの刻みを見せた朝比奈にも、やっとかい、と拍手。緩徐部もいずこも前後のつなぎかたがややぎごちないが、それなりに雰囲気を出すことに成功している。アマチュアリスティックな技術の不全は疲れてくると出やすいものだから、終盤の音色のだらしなさや不揃いには目をつぶるべきだろう。高揚感の不足も仕方あるまい。コーダの抑制と開放は上手くいっているが。なんというか、ちらほら「ぶらぼうー」と日本語発音が飛び交うのは日本ローカルオケならではの終わり方か。無印。

バターワース:狂詩曲「シュロップシャーの若者」

○ボールト指揮ハレ管弦楽団(VAI)1942/3/5・CD

ボールトらしい牧歌の作り方で、ツボを押さえた演奏だ。RVWの牧歌的な曲をかなでるときの演奏スタイルである。フォルムを崩さず、テンポをいたずらに揺らさず、しかし雰囲気は抜群、かつ高い格調を備えている。同時代もしくは少し前のフランス音楽のエッセンスが、民謡主題でしかないものを汎世界的な価値を持つ音楽に昇華させた曲である。美しく繊細で比較的現代的なハーモニー、音線のうつろいは、結構ディーリアスに似たものを醸し出しているのだが、総体はどちらかというとRVW的であり、あの起伏の無い印象派的な茫洋とした雰囲気の土台に、しっかりした構成を据えた音楽になっている。ニキシュの初演リハに作曲家の隣で立ち会ったボールトは、後年同国の演奏家たちによって行われるようになった思い入れたっぷりのものとは一線を画し、地味ではあるけれども、滋味のある演奏を紡ぎだしている。特徴的なものはないが、還ってこういうしっかりした演奏は本質をよく浮き彫りにするものだ。○。

ウォルトン:ポーツマス・ポイント序曲

○ボールト指揮BBC交響楽団(VAI)1937/4/16・CD

速い速い。このくらいの速さじゃないと締まらない。意外と、かなり意外と面白く聞ける演奏で、この曲に名演がないなあ、と思っていたらこんなところに名演が、といった感じだ。演奏流儀が所謂ドイツ風なので、しかも多分初版にのっとった重いオーケストレーションをとっているため、今のこの曲のアメリカ的なリズミカルな明るさというのがちっとも出ていないが、音楽的にはとても充実しているし、こういう曲として聞けばこれしかない、と思うだろう。私は持っている演奏の中ではこれが一番好きかもしれない。コープランドのように流麗ではなく、敢えてリズムを断ち切る休符が頻繁に挿入されるがゆえに、しっかりアンサンブルしようと組み立てにかかると音楽が途切れ途切れになってイマイチ莫大になってしまう。現代の演奏(晩年の自作自演含む)はいずれもこの穴に落ちている。まずは推進力なのだ、こういう喜遊的な曲は。録音の悪さを差し引いて○。

ウォルトン:戴冠式行進曲「王冠」

◎ボールト指揮BBC交響楽団、メイソン(ORG)(VAI)1937/4/16・CD

初演者による覇気溢れる演奏。現代のウォルトンの清新なイメージとは違い、行進曲の伝統・・・特にエルガーの流儀・・・をしっかり踏んだ非常に格調高い演奏だ。ニキシュを彷彿とさせる(といっても私には伝ニキシュ指揮のロシアの行進曲「ドゥビーヌシュカ」のイメージしかないが、そのスタイルはかなり似ている)前進力に胸がすく。重量感ある響きがドイツ後期ロマン派的な音楽を形づくっているが、ウォルトンの明るい作品にきかれるからっとアメリカ的に透明感ある響きを好む人には薦められないかというと、けしてそんなことはない。ジョージ六世戴冠式のために作曲されたこの曲は、一度聴けばはっきりわかるが「威風堂々第1番」を踏まえてそれにのっとったような作品であり、このような流儀も十分受け容れる素養はあるのだ。聴けばそのちょっと聴きの古さに躊躇するかもしれないが、技術を超えた表現の力が、そしてボールトの確かな棒の紡ぎ出す国王戴冠式のための勇壮な音楽が、現在でも愛好される素晴らしい旋律をそのまま旋律の魅力で聴かせるのではなく、総体として充実した響きをもって、圧倒的な迫力で向かってくる。いや、向かってくるというのは適切な表現ではないかもしれない。喜びに満ちた大団円の行進といった感じだ。大団円とはいえ莫大にはけしてならない。ボールトはそういう指揮者ではなかった、最後まで。締まった解釈はオケの技術を越えてしっかりしたフォルムの音楽を作り出す。それが個性的か個性的でないかは関係ない。大体個性とはどんなものなのか、一つの尺度だけで測り出せるものではあるまい。ボールト晩年の不遇?の原因はスター性がなくなったことだけだ、私はそう思っている。なぜって、この録音のなされた時代には少なくとも確実に、スターだったのだ。同時代の作曲家の作品をこのニキシュの弟子は初演しまくっている。感情的な録音記録もなくはない。ボールトのキャリアは早すぎて、長かった。しかし長かったけれども手抜きは一つとてない。これぞプロフェッショナル、である。ちなみにこのスコアは現行版とはかなり違っている。第一主題の展開部に比較的長いフレーズの挿入(もしくは現代は削られている原形部分)が聴かれる。オーケストレーションも重心が低めに聞こえるので詳細検討はしていないが違っている可能性は高い。上記「ドイツ的」という感想はそのせいもあるだろう。いずれにせよこの演奏は現行版の威風堂々的なあっさりした構成の作品としてではなく、一つの交響曲の終楽章を聴いているかのように充実したものとして聴ける。録音の悪さなどどうでもいい。自身も優れた指揮者であったエルガーが認めた指揮者なだけに、ちょっと前のエルガー指揮の録音に聴かれるスタイルにも似た力強い演奏。◎しかありえない。

ブラームス:交響曲第2番

〇チェリビダッケ指揮シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団(CD-R)1987/8/21LIVE

滑らかで横の流れが綺麗、縦はもちろんドイツふうにきっちり締めるが、一楽章など非常に優しい感じがする。チェリにしては意外だ。録音の悪さ、遠さというのはあるかもしれない。細部が曖昧なぶん、「描線が極めて明瞭で神経質なくらい金属質の音響を創り出すチェリ解釈」の取り付くシマのなさが、オブラートをかけられてたまたまイイ感じな録音になったということかもしれない。イギリス的な柔らかい音を出すオケ、あるいは萎縮して「そうならざるをえなくなった」のかもしれないが、牧歌的な曲想にもマッチして、疲れた体には程よく響く。よくこなれた解釈は徒に構築性を主張せず、かといって感情を煽らないし、表現意思の強い演奏に嫌気のさした人にも勧められる。ゆったりと、じつにゆったりとした流れを創り出し、しかし古典派的なまとまりを終始固持した二楽章で飽きる人もいるかもしれないが、流して聞くには実にいい。三楽章の刻みや低音の響きにドイツふうのリズムの重さが伴っており、軽やかな印象さえあったそれまでの音楽にアクセントを与えているがこれはチェリらしさでもあり、個人的には他の部分に揃えて低音を抑えて欲しかったが、寧ろあるべきであったものだろう。終楽章は喜遊的な音楽だからここは盛大にやってもいいはずだが、しっかりと縦を揃えつつも、抑制をきかせて、特に弱音のひそやかさを繊細に、かつ自然に表現しつつ牧歌的な柔らかさ優しさを保ち(素晴らしい木管の表現には拍手をあげるべきだろう)、ドイツぽさをどっしりしたバランスでアピールしながらも、弦楽器の紡ぎだす滑らかなイギリスふうの横線が細かい起伏のニュアンスまでも実に美しく、的確に響いている。クライマックスもまるで尾根歩きのピークのようで、余り上り詰める感じはなく自然な昂まりのうちに迎えるが、チェリの気合い声が最後の一発だけということからもわかる通り、自然体が寧ろ意図であったとも思われる。一流楽団なら莫大な晩年様式が徹底されるところだったと思うが、教育的配慮が出来のいい臨時楽団に施された結果こういうブラヴォまみれの名演に行き着いたという不思議な記録。録音の悪さを加味して〇。体調次第で物足りなさを感じる可能性大なのでくれぐれご注意。「ワルターの燃えるライヴ録音」好きは特に。

フランツ・シュミット:交響曲第1番

〇ヤルヴィ指揮デトロイト交響楽団(CHANDOS)CD

タンホイザーか?というような出だしからもうワグナー臭ぷんぷん。第二主題はこれまたブラームス!1楽章は楽器法や転調に後年の独特の雰囲気の萌芽が見えなくもないがそれとてワグナーとブラームスの影響下に展開されたものにすぎない。二大作曲家のエッセンスが大部分を占めた曲だが、ヤルヴィだから生臭くならない。もっとウィーン寄りのプレイヤーだったら?四曲のシンフォニーの中では最も古風で、まるで周辺国のエピゴーネン作曲家の作品であるかのような表面的な保守性を感じる。シベリウスの初期作品など北欧のドイツ的作曲家のものを思い浮かべたがヤルヴィだからというわけではあるまい。2楽章の古典派的な暗さはフランツならではだし、ブラームス通り越してシューマンからベートーヴェンのアンサンブルを彷彿とさせる緊密なスケルツォ楽章の、展開部の目まぐるしい転調は新しく現代的でこの作品の聞き所だ。緩徐主題はウィーン情緒たっぷりでフランツらしい。マーラー1番の緩徐主題を彷彿とする。弦楽器の機能性を問われるフランツのシンフォニー、1番で既にかなりの統制を要求されているが、更に古風な4楽章はほんとに古典並の使われぶりで縦の刻みばっかり。疲れそう。ブラームス的な意味での新古典性が強く、しかし対位的なアンサンブルが殆ど無く、オーケストレーションはぐっと単純であるから、ハーモニーの新しさが無ければブルックナーの凡作と聞きまごうばかりのところもある。半音階的な音線にウィーン的な魅力が確かにあるので、もう少しウィーンふうの情緒的な音色があれば面白かったかも。フランツらしく凄く盛り上がるというわけでもなく縦の動きに横長のフレーズが重なってきてハーモニーが分厚くなって終わるわけだが、このあたりの「やっと来た!」的感動はブルックナーぽい。ヤルヴィはほんとに手綱さばきが上手くて、一本一本がむずいフランツのスコアも見事にアンサンブルに纏め上げてくれる。むろんオケの力あってのものでもあるわけだが。ヤルヴィに〇ひとつ。

ウォルトン:ベルシャザールの饗宴

○クーベリック指揮シカゴ交響楽団(CSO)1952/3/30LIVE・CD

前半のゆるい場面では録音の悪さもあいまって余り感情移入できないのだが、ウォルトンらしいリズミカルな場面に転換していくとテンションの高いクーベリック・ライヴを堪能できる。音さえよければ◎モノだったのに!ウォルトンの悪い癖である変なパウゼの頻発が主として速いテンポと明確な発音によるテンションの持続性によってまったくカバーされ気にならない。生で聞いたら凄かったろうな、というシカゴの機能性の高さにも瞠目。弦楽器の一糸乱れぬアンサンブルは明るくこだわりがない音であるぶん清清しい響きのこの曲にはあっている(内容どうのこうのは別)。とにかくこの時代の指揮者にこういうスタイルは多いのだが(まるでトスカニーニの後継者を争うが如く)その中でもずば抜けてテクニックとテンションを持っていた怒れるクーベリックの技に拍手。何も残らないけど、残らない曲ですからね。

リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード

〇シュヒター指揮北ドイツ交響楽団(MHS)LP

珍しい録音をいろいろ出していた新しい会員頒布制レーベルからのこれは再発か。オケ名も不確か。がっちりした構成でしっかり聞かせる演奏。まさに純音楽指向で艶や感興とは無縁。このストイックさにごく一部のマニアは惹かれるのだろう。N響時代のことなんて誰も覚えちゃいないだろうが、統率力の大きさと無個性な解釈のアンバランスさに、忘れられても仕方ないかな、と思う。いつも後期ロマン派以降の曲の演奏でみせる杓子定規的な表現は、この珍しいステレオ録音では意外と悪い方向へ向かわずに、曲が本来持っている生臭さをなくして非常に聴きやすくしている。はっきり言って「普通」なのだが、そのまま気持ち良く聞き流せてしまう、何も残らないけど気持ち良い、そんな演奏もあっていいだろう。〇。

リムスキー・コルサコフ:ドゥビーヌシュカ

〇ゴロワノフ指揮ロシア国立交響楽団(LARGO)LP

やや弛緩した穏やかな表現から始まるが、後の盛り上がりをきちんと計算したもので、フレーズひとつひとつに意味を持たせなからも巨視的な設計が活きてグダグダにならない。なかなか効果的なテンポ設定に、じきにパツパツ決まりだすリズムがゆっくりめのテンポでいながらもこの単なるマーチを、原曲から数倍スケールアップして立派なオーケストラルミュージックとして偉大に聞かせる。パウゼもゴロワノフらしい名人芸。管弦のバランスのよさがこの人らしくない程だ。録音の悪さを差し引いても〇はつけられる。

リムスキー・コルサコフ:セルビア幻想曲

〇ゴロワノフ指揮ロシア国立交響楽団(LARGO)LP

暗いスラヴ行進曲的な主題と、エキゾチックな民族舞踊音楽主題がひたすら交互に繰り返される。前者は結構常套的な展開だが入り易い。後者はシェヘラザード終曲的で腕の見せどころ。管楽器の艶めかした音色と機敏な動きにゴロワノフらしからぬ統率力を感じさせる。各セクションがばらばらになりがちなゴロワノフが楽団の素晴らしい調子に乗って、まとまりよくかなり出来がいい。曲は親しみやすいが飽きるので聴き過ぎ注意。特徴的な演奏ではないが聞きごたえあり。

グラズノフ:交響曲第5番

フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya/victor)1976/12・CD

フェドはグラズノフ全集を恐らく世界で最初に完成させた指揮者であり、それだけに十字軍的な立場でいなければならなかったことの難しさも感じさせる。グラズノフはテンションを必要とする作曲家だ。テンションがもたなければ一様に長丁場をもたせられない。たとえば疾走する音楽である終楽章は今聞くと余りに遅い。特に再現部からクライマックスに入ったところで異常なまでにテンポを落としている、これは構成的で綺麗な解釈を持ち味とするフェドらしいバランス感に基づく解釈だとは思うが、はっきり興をそぐ、ここは一気に剛進してぶち抜けるのが筋だろう。こんな感想もロジェストやヤルヴィの現れる前には抱けなかっただろうことを思うと、グラズノフが今ひとつメジャーになれなかったのに十字軍の演奏スタイルという問題があったことは残念ながら事実と感じる。単発の演奏としては既にゴロワノフの余りに雑で一般人は聴くに耐えない盤や余り盤数の出なかったムラヴィンスキーのライヴ盤があったわけだが、それらソヴィエト以外で殆ど流通しなかった古い演奏と比べても、この全般的なゆったりした流れ、音に拘りテンションに拘らないスタイル、客観性は寧ろ特異である。綺麗さは認める。でも現代の演奏でこういうものはいくらでも聞ける。そして、ロシアオケならではの「雑味」が無いとは言い切れないから、綺麗にまとめたいフェドの意図も徹底されず半端である。最初に聞くならこれでもいいかもしれない。けれども本当はこれはロシアの国民楽派の交響曲がどんなものなのかよくわかったうえで、頭の中で逆変換しながら聴くべきものである。拒否反応や欠伸が出た人は、すぐ聞くのをやめてヤルヴィをあたろう。ム印。

グラズノフ:交響曲第4番

○ラフミロビッチ指揮ローマ聖チェチリア音楽院管弦楽団(capitol)LP

モノラルのせいかもしれないが非常に緊密で、心なしかイリヤ・ムーロメッツより集中力もやる気も高い。これは名演と言っていいだろう。イリヤ・ムーロメッツよりエッジが立って明確な音であることもポイント高い。元々駄々長いグラズノフのシンフォニーでは一番短く、定型的な緩徐楽章である3楽章を4楽章の序奏部へ吸収させ、ジトジトした雰囲気を残さずにいきなりカッコイイファンファーレから本編に雪崩れ込む、構成上からも非常に巧くまとめられた作品なだけに、ロシアロシアした極端で莫大な演奏よりも、西欧的解釈にのっとったあるていどスマートなやり方のほうがあっている。だからといってこの演奏は日本人の抱くイメージとしてのスマートさとはまた違うものを持っている。スマートといえばムラヴィンスキーのいぶし銀の演奏はちと型にはまりすぎ窮屈、一方このイタリアのからっとした空を思わせる本編高らかなファンファーレの清清しい響きから胸のすく疾走は、ロシアのどんどこどんどこ地響きする野暮な重さは全くないけれども、ロシアの魂を確かに感じさせる力強い流れが筋を通し、オケが強力な指揮の元に自ら疾駆し歌いまくり力を尽くすさまは感動的ですらある。全楽章素晴らしいのだが、ロシアのドン暗さを程よく中和するチェチリアのメランコリックな響きが仄かな感傷を与える1楽章や身についた軽やかさではロシアの演奏に一歩譲るがすんなり聴きとおせるスケルツォ楽章、それらよりも、暗くとも希望の感じられる序奏部から祝祭的な本編へ、スヴェトラみたいなケとハレの土俗的なお祭り突入ではなく、西欧音楽の語法の上にある交響曲形式の構成を踏まえたあくまで抽象的な音楽として、実によく表現されている。何度も何度も聴いて飽きない演奏というのはロシア産交響曲ではそうそうないが、これは何度聴いても飽きないのだ。最初に聞いたのがロジェストで、か細く綺麗なだけの演奏がこじんまりとした地味な曲というイメージを与え、またファンファーレ以下あざとさが耳について一番敬遠していた曲なだけに、こんなに自然に入り込めて、没入できたものというのは初めてだった。世界初録音盤。録音が古いのでマイナス、○としておくが個人的に大好きである。
プロフィール

岡林リョウ

Author:岡林リョウ
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
リンク
カテゴリ
TAG

ストコフスキ 四重奏団 フィテルベルク ミュンシュ トスカニーニ コンドラシン バルビローリ 作曲家 モントゥ アンセルメ 作曲家演奏 ブール エネスコ ガウク ミトロプーロス ロスバウト サージェント オイストラフ フランセ ワイエンベルク ORTF アンゲルブレシュト サモスード デゾルミエール イワーノフ ゴロワノフ ムラヴィンスキー ピエロ・コッポラ モイセイヴィチ ベーム セル クーベリック カルミレッリ シュヒター バーンスタイン ビーチャム パシャーエフ ツィピーヌ アルベール・ヴォルフ パレー ウォレンスタイン アラール オーマンディ サモンズ 山田一雄 ロストロポーヴィチ シェルヘン モートン・グールド ギレー モイーズ 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。