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シベリウス:交響曲第3番

○カヤヌス指揮LSO(FINLANDIA)1932/6・CD

この時代の録音とは思えない生々しいクリアな音で、雑音はつねに入るしバランス調整やリマスタで改造された結果かもしれないが、それでも迫力ある演奏ぶりには驚かされる。力感にあふれ一糸乱れぬアンサンブルは直入型と言ってもクーセヴィツキーのような直線的なものではなく適度に機微を表現しながら速めのテンポでかっこいい流れを作っていく。まとまりのよさと胸のすくような展開には思い切り引き込まれる。オケも上手いし、強い!ヴァイオリンの総体としてのあまりの力感がほつれを呼ぶ部分も若干あるが、実演では聞こえないレベルであり録音のせいだろう。モノラル録音はそれだけで実際以上の凝縮力を感じさせるものだが、これは元々の極めて練れた解釈とテクニックによるところも大きいと推察される。やはり両端楽章がききものだが静かな場面での特に木管の自然だが巧緻な表現も捨て難い。やや即物的なきらいがありファンタジーに欠ける(三楽章の勇壮な主題が最初にさりげなくたち現れるところなどそれとわからぬようにサブリミナル的にそくっと入って次第にそれまでの主題を凌駕していくスムーズな松葉が欲しい)ところもあるが、無垢のまま聞いても十分堪能できるだろう。一楽章の弦の特徴的な下降音形の四回繰り返しに田舎ふうの牧歌的な旋律がかぶさるところなど昔はマーラーのタイタン1楽章を想起したものだが(たんに途中の音形と重厚なハーモニーにほとんど同じ部分があるだけのせいという気もするが)そういうイマジネーションは湧かない。純粋に古典的なサクサク進む演奏なので印象派的なシベリウス好きには物足りないかもしれないが、シベリウス盟友の演奏としても聞く価値はあり。○。
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ラフマニノフ:交響曲第3番

〇ザンデルリンク指揮NDR交響楽団(DON INDUSTRIALE:CD-R)ハンブルグ1994/5LIVE

あきらかにエアチェックモノ。音が悪い。篭りまくりで伸びがないからただでさえがっしりして無骨で重いザンデルリンク解釈の欠点が強調されてしまう。もっとも明るい主題と夢見るようなうつろいが晩年の無駄のない書法とあいまって、ともするとただここには歌だけがあり、あっさり流れ過ぎて何も残らなくなりがちなこの曲、そういったところが無く、ドイツふうに重厚なブラスと、現代的な不協和要素を剥き出しにしてしっかりした構成感のもとに組み上げていく、まるで初期シベリウスかウィーン世紀末かというような、静かで硬質な響きはコタンの境地に近いながらもアバンギャルドさのほうが印象に残る。レニフィル時代ではこうはいかなかったろう。木管ソロの繊細で美しい音も特記しておきたい。弦の(ひびきにおいてのみの)感傷性も含めこのへんはロシア流儀の残照かもしれない。二楽章、がっしりしたフォルムにそぐわないこのなめらかな優しさがザンデルリンクの特質だ。旋律に固執しないところなどロシアっぽくないし、音響の組み立てかたが明らかにドイツ的であるもののそういうところに違和感など少しとてなく、強いて言えば国民楽派から一歩抜け出たグリエールあたりを洗練させたような臭いはする。むろん重厚で懐深い解釈のせいだ。ロシアらしさを象徴する生臭さは皆無である。三楽章は躍動感に欠けるが重々しく迫力はある。見栄を切るようなことをしないからちょっと旋律がもったいない気もするがそれも解釈だ。そんなところよりラフマニノフが得意とした構造的な書法をしっかり聞かせるほうに集中している。終盤になりやっとドライブがかかってくるが、主題回帰でまた一歩引いた客観性をみせるのがうーん、歯痒いがこれも解釈だ。心なしかラフマニノフのワグナー性を法悦的なテンポ表現により引き出そうとしているのではないかという気さえしてくる。にわかなコーダも依然重く最後戸惑ったような拍手のバラバラ具合にもこの解釈のよさが伝わりにくいところにあったことがわかる。二楽章が聞きものなので、録音最悪だけどオマケで〇としておく。ステレオ。

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ドヴォルザーク:交響曲第9番

〇マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(DECCA他)1956/2/16、17・CD

古い録音(ステレオ初期)のせいかぼんやりして安っぽい。でも落ち着いた重心の低い演奏ぶりはマルコらしい実直なもので、オケコントロールはしっかりしており、滅多に揺れないのはドイツぽい(ロシアだが)。とにかく木管が素晴らしい。フレージングが人工的なところは多分指揮者の指示によるのだろうが時折独特で面白い。ほんらい奏者任せで歌わせるところを歌い方まで譜面に書かせてそのとおり吹かせているかのよう。全般にオケの音色の美しさが際立っており、はっきり言えば詰まらない解釈をオケの力で随分押し上げている。細部まで手を抜かない真面目なスタンスを彩るのはイギリスらしいパステルカラーだが、このくらいのコントロールされた響きを実演で聞いたら余りの心地よさで眠りこけてしまうだろう(私はきっと唖然としたままである)この「録音オケ」の最盛期ならでは、真骨頂。二楽章の人生すら考えさせるような音世界の静謐さは激しい演奏ばかり聞いてきた者には結構印象深い。全般にも静謐な表現の際立った演奏だ。三楽章は弦などパワー不足は否めないがアンサンブル能力やノリは素晴らしい。速い。流れるようなテンポ廻しの妙は中間部(副主題、緩叙部)で味わえる。四楽章も落ち着きはらったものだがオケのアンサンブルは完璧だ。スコア片手だと愉しめるか。ヴァイオリンのフレージングの揃いが甘いが(本数が少ないのか?)録音位置の関係でそう聞こえるだけだろう。最後はけっこうドイツふうに盛り上がる。ホルンが心根深い音で大団円前の回想を演出する。全般あまりにマジメ過ぎるが印象深い演奏だった。〇。

グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」

○ゴロフチン指揮ロシア国立交響楽団(russian disc)1993/10・CD

ロシア盤の供給量は昨今不足してきていると言われてきた。

特に顕著なのは中古LP盤の世界で、値付けが勝手にできる手前、現在では本国業者へ買い付けに行くと日本の業者と見られた瞬間(こんな買い付けをするのは日本人しかありえないわけだが)足元を見られ法外な値段を要求されるものだから、余程高値がつく目論見のものでない限り手が出せず、一品一品選んでいく余裕のある個人副業者でもない限り、とても大量箱買いして輸入するわけにはいかなくなっている。国内の出物頼りしかなくなったのが現状だ。しかしLPマニアは「愛情をもって」音盤を抱え込むので、結果的に大した盤は流出しないから難しい。亡くなったマニアの遺族による処分頼りと言ってもいいかもしれない。

LPと並行してCDにも品不足の波が来た。これは旧ソ連体制崩壊によりメロディヤとその独占販売代理店(輸入代理店)という供給ルートもいきなり崩壊、国策頼りの経営が立ち行かなくなった供給元からの新譜が数年でガクンと減り、一方ロシア音楽家の海外活動が完全に自由になったから、特に亡命してくる音楽家を受容した欧米諸国では音盤に頼らずともロシア流儀のナマの演奏に簡単に触れられるようになったこと、更に世界的なクラシック音盤市場の衰亡がとどめをさしたのだった。

それでも室内鑑賞が主流であるマニアック金満大国日本での異常な(遅い)ロシア音楽ブームがしばらく持続していたため、それをあてこんで、混乱するロシア(+海賊盤大国)の群小俄かレーベルがメロディヤや放送局音源を安く手に入れ復刻して大量に送り込んできた時期が更に続いた。しかしわけのわからない演奏家や作曲家のものや古くて音の悪いもの・・・でもマニアには堪らない往年の名演奏家のものだったりもしたのだが・・・ばかり出てくるようになって結局、インフレ状態に陥り返品地獄、ほとんどの会社が企画も半ばで雲散霧消してしまった。中には計画的にいきなりばっと売って消える会社もあったが、とにかく10年弱前、そういったロシア音源の大量供給にいきなりドスンと緞帳が下げられてしまった。

その状態が産んだのがロシア盤CDの極端な高騰化である。それまでは余程のレアものでない限りCDにプレミアがつくなんて有り得なかった。複製の簡単な、元手のほとんどかからない安っぽいCDなんてバカげてる、どうせいつかまた誰かに簡単に復刻されるだろうというのが、そもそも元手もかかるLP(とその音質)に「愛情を持っている」古いマニアの見方だったのである。

だがそれ以前にバブル崩壊後の焼け野原にいきなり参入してきた大手海外チェーン店の仕掛けた大々的な輸入盤ブームがあり、そこで掴まれた新しい若いファンというのがいた。話が前後するが彼らが寧ろロシア盤CD需要の中心にいたと言ってもいい。彼らは生にせよ音盤にせよいきなり聞いて掴まれたロシア音楽ロシア演奏家に狂喜し、その音盤大量流入の渦で所謂「ムック本評論家」の言うがままに踊り狂い、その踊りに更に沢山の追随者が巻き込まれ、盛大なレイヴパーティが繰り広げられるようになったところにいきなり「ハイおしまい」と言われたものだから堪らない。この種類の人間は世代的にCDにプレミアがつく、ということに対しても余り抵抗感がない。僅か5年前、しかも大手チェーン店頭で発売されたCDであっても、その当時まだ「踊り」に巻き込まれていなかった遅れて来たマニアは、今現在まったく手に入らないという状況に戦慄し中古CD屋に走った。

マニアはそもそも自らの力量を省みない無謀な行動に出るもの、信じられないような高値にも手を出す輩が沢山出てきた。私も新しいマニアではないが「踊り」の時期にまったくクラシック音楽から遠ざかっていたためこの中に入ってしまったのであるが・・・。そこに決定打として現れたのは「ネットオークション」というシステムである。元手が1000円の盤に4万以上の高値がつく(大手レーベルのものであってもだ)こともざらなこの世界、金に糸目をつけない無謀なマニアは、売れなくて店頭から引き揚げられた類いのマイナー作曲家のマイナー曲でも、ただネームの大きい演奏家のものであれば食いつくほどに飢えていた。群小レーベルと言うには余りに大々的な活動を繰り広げていたロシアン・ディスクの端盤が1万円以上の高値で落札される時代になったのである。メロディヤ再発(CD化)レーベルであるレベレーションなど元々売れなくて企画自体が存続できなかったためレア度が高く、最低落札価格1万円でのっけてくるネットオークション業者まで出てくる始末だった。

だが。

やはりCDというのは水ものである。そんなマニアの存在を知り二匹目の泥鰌を狙う個人再販(再々販=転売)業者と、とりあえずあの時期に買っておいたが一回聞いてほっておいた類いの個人によって、逆に供給過剰の状態が来るのもそう遅くもなかった。でもそれでも、群小レーベルの時期にしか「CDでは」出ていなかったものにはそれなりの需要があった。もっとも、LPマニアの話でも触れたとおり、マニアが本当に欲しい真のレアものは全くといっていいほど出なかった。抱え込まれたままだったのだろう。

そこに遅ればせながら目をつけたのが大手業者である。ネット配信時代になってCD市場はもう全体的に衰亡、下手すると存続の危機にすら陥っている。クラシックのような元々衰亡の過程にある分野なら尚更だ。特に実店舗を構える小売店は切実で、CD-Rによる海賊盤的な再発モノの輸入開始に始まり、ロシアを含むほうぼうの国へ在庫買い付けの手を必死に伸ばした。その結果、掘り出し物が出てきた。

今年初め、ロシアからある意味朗報、ある意味ガッカリするニュースが飛び込んできた。

ロシア盤の大量在庫が見つかったというのである。しかも価値ゼロとみなされているから殆ど言い値で買える。日本の業者(海外チェーン店含む)はこれに飛びついた。買いあさった。そして店頭やカタログを飾るタイトル、それは

ロシアン・ディスクとレベレーションだった。

・・・販価は最低で700円、元々最初に売り出されたときには(当時一般的な輸入盤価格だが)2500円前後だったものだ。これは当時買わなかった人も買いである。それどころか、オークションで1万円もしたものすら、700円。尤も前記した「真のレアもの」はその在庫の中になく、また業者によって買えたタイトルが微妙に違うので、販価にもばらつきはあるのだが、それにしてもこれは、価格破壊というか、あの高騰期は何だったんだ、というところである。更に最近はヴェネツィア等の超廉価盤レーベルが破格の値段でロシア音源の復刻を続けており、今のところはオリンピア経由で出たような割合一般的なメロディヤ盤CDの復刻モノだけであるが、群小が出した類いのレア音源やマイナー作曲家にいたるのも時間の問題、というか、既にグローブのような個人レーベルに近いものが出したライヴ音源も含まれていたりする。個人ネットオークション業者が店じまいするのもさもありなん、更に、一時は騙り業者まで出たオリンピアやメロディア本体の活動再開、ロシアン・ディスクもぼつぼつ新録音だけではあるが販売を再開しつつある。しかも価格は1000円前後というナクソス価格だ。確実な販売を重視した結果の値ごろ感なのだろう。

私も自戒することしきりだが、変な流れに巻き込まれ吹聴に踊らされ、自分が本当に聴きたくて、「自分にとって」本当にいい音楽とは何なのか、マニアは冷静になって常に考えながら収集鑑賞をゆっくり楽しむ余裕を持つべきだな、とつくづく思う。

前フリが長くなったが、なぜこんな話をしたかというと今回取りあげるのはそのまさにロシアン・ディスクの再発盤だからである。1000円以下。指揮者はネームだけは轟いているゴロフチンだ。ナクソスの無闇な録音群のせいで、ヘタクソで愛情のないやる気ゼロの無能指揮者と誹謗マニアからのサンザンな評価を受けている指揮者だが、なんなんだろう、ロシア人はこういうものだ、と決め付けて、その狭い枠に納まらない解釈を得意とする指揮者を徹底的におとしめる、なんだかいかにもクラシックマニアの偏狭さを象徴するような言説でゲンナリである。

元々叙事詩的な壮大さが必要な楽曲だ。短絡的な起伏ある演奏であれば勿論面白いことは面白いのだが、そもそも一つ一つの細かい曲想が魅力に溢れているものだから、マーラーの作品でそれが当然のように受け容れられているように、客観的に響きの美しさと丁寧な造型を追求した演奏も許容する素質が十分にある曲である。それでもここで今まで触れてきた演奏の中にもあったと思うが、ほんとに客観的すぎてぼんやりとしただけののっぺらな演奏もあり、ここをいかに巧妙に繊細に聞かせるかが解釈とバトンテクニックの見せ所といったところだ。オケの力量もかなり要求される大規模な曲ではあるが、余りオケにがならせてしまうスタンスだと静かで長い楽章などは激しい楽章とのコントラストで飽きてしまう。ここの手綱さばきも単純には語れない。個人的には抑制も必要だと思う。

そしてゴロフチンだが、かなり落ち着いている。でもぼんやりとものっぺらとも感じない。美しいし、そこには威厳がある。叙事詩としてのまさに壁画的な壮大さと重心の低い響きのかもす迫力もある。このテンポで欠伸が出る、という向きは単に「解釈に向いていない」だけだろう。曲に向いてないのかもしれない。ゴロフチンも一応長々しい完全版を使っている。シェルヒェンの完全版による演奏の1楽章で欠伸が出た私は、ゴロフチンの1楽章ではちっとも欠伸が出なかった。

どういうことなのか。造りの妙なのである。物語であり劇音楽であり、楽劇的な楽曲構成をとってはいるもののこの音楽には印象派的な「雰囲気を楽しむ」という聞き方が要求される側面があり、主として意外と新しいハーモニーの揺らぎにかかっているわけだが、ゴロフチンはそれをよく捉えているのだ。シェルヒェンは即物的に盛り込んだドラマが却って単調さを感じさせる結果になっている。そうだな、ゴロフチンを貶める人にクレンペラー最晩年のどんな曲でもいい、ライヴ盤を聞いた感想を問うてみたい。クレンペラーにこの妙技ができただろうか。単純にテンポの遅さと単調さという面でも、演奏の不具合という面でも、ゴロフチンより更に分が悪くなったであろうことは自明だ。でもクレンペラーのほうが素晴らしかったはずだ、そういうふうに言う人がもしいたとしたら私はもうその人の言うことは信用できない(個人的に、と断っておく)。

音楽はマクロで捉えるべき部分とミクロで捉えるべき部分がある、私は意図的に最終的なマクロでしか語らないがそれはあくまで「聞く側にてっする」という前提でやっているからである。音楽作りは基本的にミクロの積み上げで行っていくものだ。それが結果、瞬発力だらけのガラクタの山になるのは単なるシロートである。どんな無名指揮者でもアマチュア指揮者でも、ミクロの積み上げを「マクロの解釈」の上に緻密に緻密に行っていく作業をオケに対して施す。オケの技量によりそのミクロのある段階までは既に出来上がっていることも多かろうし、これは回数が必要とか細かい指示が必要とかそういう杓子定規なものではない。

その「マクロの解釈」を構成するのがまた「ミクロの分析」である。交響曲は単なる一つの富士山ではない。解釈は山一つこさえればおしまい、じゃないのだ。音楽は一連の雄大に連なる山脈であり、そこには無数のキレットやピークがある。鎖場もあればザイルに頼る場所もあり、一歩一歩歩かなければ決して先へは進めない。地図読みを誤れば稜線を踏破することは不可能だ。その一つ一つの細かい機微を如何に鮮やかに自然に描き出していくか、これは非常に重要なのである。クライマックスはその山脈の盟主と呼ばれる一ピークにすぎない。富士山型で考えるのは聞くだけ主義のオキラクマニアだけである。ここでいう地図読みこそがスコア読みである。

体力と気力さえあれば地図なんて見ないでもおてんとさまと地形で乗り越えていけるわ、なんて言って事実やってしまえる者も中にはいると言われるかもしれないが、世に巨匠天才と呼ばれる人間でも殆どの人は寝る間も惜しんでスコアとにらめっこだ。聴く人間はもちろん、演奏する人間一人一人に或る程度の納得を与えなければならないし、かといって自分自身の理想もあり、そういった様々な観念的なことを、「至極合理的な論理に従って出来上がっているスコア」という設計図の上に具現化させていかねばならない。それはゲイジュツだとか何だとかいう前に非常に困難な「作業」である。クレンペラーに対する中傷的愛情を書いておいたが、そのクレンペラーでさえ全裸でマタイのスコアに没頭し来客にいきなりその話をもちかける、そういう人だった。指揮者マーラーが音楽のことを考え出すと他の何もわからなくなり奇行を繰り返す、その表象だけをもって精神的な問題を指摘するヤカラが100年たってもまだ多いが、本来音楽、しかも大規模管弦楽曲とはそこまで追い込まれるほどに、数学的にも美学的にも突き詰めて分析して構築していかなければとうてい造り上げることのできない大変に膨大な情報をはらむものなのである。テクニックと人心掌握術だけで切り抜けているように見える人だっているが、彼等の裏の努力を見抜く目のない人はまあ幸せである。唯いきなり指揮台に上がり腕を上下させて思うが侭に音楽を操ることができるのが指揮者、なんて幻想だ。もしくは想像を絶する長くて厳しい経験を積んだ老練な指揮者の「結果」だけを見て誤解しているにすぎない。ステージ上の全員が暗譜で指揮者も団員も歌手も裏方も皆知り尽くしている、そういった小曲や単純な曲でもなければ、増してや交響曲なんてどえらいものを音楽に纏め上げるのは無理である。

実際に音を出す演奏家にいたってはその五指をそれぞれ適切な角度で適切な圧力で絶妙なタイミングで鍵盤や弦の上に載せる、そういった一つ一つのミクロな作業を積み重ねないと音楽は作れないわけで(あたりまえだ)、しかも指だけではない、唇も喉も胸も腹も両腕も脚も体全体も同時に一つ一つ動かし全てを複合的に積み上げていくことが必要とされるのだ。個人個人パートパートセクションセクションソリストソリスト、全てのミクロをコンマスらの力を借りてまとめあげるのが指揮者の役目、晩年のクレンペラーにはミクロに配る気力体力が最早なく団員の記憶に基づく理解に支えられて演奏を進めなければならなかった。だが若い指揮者には気力も体力もある。ミクロなくしてマクロはなし、マクロなくしてミクロはなし、そういったことを考えたときに、ゴロフチンにその片方がない、ともすると両方共がないというような言説を投げかける人に、この演奏を聴いたうえではとくに、私は強く異議を唱えたいのである。

久々の更新なのでちと書きすぎました(w)この演奏にはオケのロシア的な雑味に関しても極力抑えようという意図が聞き取れる。音色やアンサンブルの「乱れ」に聞こえるものはロシアの演奏家の、特に古いタイプのものを聴いてきた人間であれば、彼等特有の「クセ」であり、この程度はむしろ全然許容範囲と思われるだろう。ゴロフチンのカロリーの低いのは認めるが、この曲にはあっていると思う。世紀末爛熟音楽に更にバターを乗っけてケチャップをかけるのは舌(耳)がバカな証拠、じじつこの曲に限って言えば、そこまでコテコテの演奏というのは無い。時間がなくなってきたので補記したくなったらまた補記するが、結果として、○である。聞き易い演奏、と付け加えておく。

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モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」

○サモスード指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(KNIGA)LP

多分知らない人に聞かせたらこれがまさか古いロシアの演奏とは思わないだろう。私も驚いた。サモスードのモーツァルトはこれだけではないが、これほど緊密なアンサンブルを組み立てて正統派の演奏をやってのけられる人とは思わなかった。メリク・パシャーエフを彷彿とする。音楽は実にリズミカルでハツラツとしていて力強さには威厳さえ感じられ、管楽器にしても厳しく律せられいささかもロシアのアバウトな香りがしない。立派に、正統的に吹いている(ロシア奏法はまったく影をひそめているのだ!)。いささかのブレもハメの外しもない。ロシアにありがちな(そしてサモスードにありがちな)弦楽器の音の不自然な強靭さも録音バランスがいいせいか全く耳につかず丁度良く、勢いがありアンサンブルは完璧に噛みあい、聞きやすいし何より胸がすく。モノラルで古いため◎にはできないし、考証派の人にはロマンティックすぎる(これでも!)と思われるかもしれないが「普通の人」は間違いなく名演と感じるだろう。私は後期ロマン派以降の楽曲を専門とし、このての古典派寄りの楽曲ではまずもって感動することはない。しかしこれは何度も何度も聞いた。アレグロ楽章のリズムの良さに何より感動する。素晴らしい。
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