ベートーヴェン:交響曲第9番

◎ジョルジェスク指揮ブカレスト・エネスコ・フィル他(LYS他)1960-61・CD

見事だ。このリズムのキレの良さ、ガシガシいうアタックの強さ、スピード、3楽章は少々印象に薄いが、見事に最後までワクワクしながら聞きとおせた。フルヴェンコピーとか多い世代で、なおかつドイツで活躍していたわけだからドイツ式、ときそうなものだがオケのせいかちょっと違う。いい意味でニュートラルで、厳しい見方をする人なら弦のザッツに甘さを指摘するかもしれないがそんなこと言ったら殆どのフルヴェンの演奏も否定しないとならない。これは録音時期が新しいからそう「捉えられた」だけだ。そう、音もいい。LPではエレクトローラだかどこかが出していたと思うが、LYSの恐らくLP起こしの音でも十分迫力あるステレオサウンドで楽しめる。ステレオだが左右のマイク距離が狭いせいかモノラル特有の求心力の強さも併せ持つ録音になっており、スケール感には欠けるが、とにかくウキウキするような高揚感を伴う行進曲のような楽曲に仕上がっている。うーん、やっぱこの人は後期ロマン派には似合わない。チャイコのつまらなさとは格段。◎!
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ガーシュイン:セカンド・ラプソディ

ガーシュイン指揮管弦楽団(MusicMasters,HISTORY)1931/6/26REHEARSAL PERFORMANCE

これを放送本番演奏と書いている人もいるがリハ記録。なぜそう思うかというとオケがどうも本気ぽくない。弱いし、音がだらけているかんじがする。とにかく精細に欠ける演奏で、録音が悪いのも敗因か。いずれこれが本番記録というわけはないだろう。オケ×だが希少録音ゆえ無印としておく。うーん、なんとも。

ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルーよりアンダンテ(ピアノ編曲)

◎ガーシュイン(P)(History他)1928/6/8・CD

あっぱれです。これは下手するとオケ付きのものより本来の意図を伝えられているかもしれない。オケ付では即物的に演奏される緩叙主題がここではいくぶんゆったりとして感傷が感じられるのがいい。サクサクした商業ピアニストというよりソロピアニストとして立派に弾きあげている、さすが作曲家。

ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー

○作曲家(P)ホワイトマン指揮彼のコンサート・オーケストラ(pearl他)1927/4/21NY

有名な由緒正しい録音で超廉価ボックスに入ったこともある。至極一本調子で即物的だが(特に有名な叙情主題があっさりハイテンポで弾き抜けるところはびっくり!収録時間の関係かもしれない)力強い。20年代の録音としては非常に聞きやすい復刻と言えるだろう。ノリまくるというわけでもないが、ガーシュインの主として細かいテンポ操作における巧さが目立つ。まあ、クラ的にそう固く言うより、即興的な謳いまわしが絶妙、と書いたほうが正しいか。聞いて損は無い演奏。○。決してジャズ寄りではない。

ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー

○カッチェン(P)マントヴァーニ楽団(RCA)CD

何故ジャズ・ミクスチュアー音楽というだけで大胆なアレンジが許されるのか?クラシックだってこんくらいいじってもいい。指揮者の意図がより明白に見えていいではないか。屈託無くドラマチックに煽情的に(音は普通で単調だけど)スピード感溢れる演奏を提示してみせるこの演奏は示唆的であり、自身の編曲でなかったにせよ本人の録音ですらアレンジまくりである。オケ譜だっていじられるためにとりあえず仕立てられたような乱暴さがある。やはり、オーケストレイテッド・ジャズが本来の形なのだ。ラヴェルやストラヴィンスキーがホワイトマンの招きにせよ真面目に客席でこの曲を聞いていた様子を想像するだに可笑しい。あの原典主義者たちが、である。商業音楽のありようのひとつの原型だろう。クリエイターみんなが一人の天才的メロディライターのもとに結集して「ガーシュイン」が生まれた。シンフォニック・ジャズが生まれたのである。ガーシュインがウタダとすればランバートはさしずめクラキか(わかりにくーい)。やや単調なため○にしておく。

ガーシュイン:ピアノ協奏曲

◎カッチェン(p)マントヴァーニ楽団(DECCA)CD

迫力!興奮!これに尽きる。夢と憧れの時代の音楽!美しい。楽しい。ものすごく、速い。ジャズ人間の書いた曲はやはりジャズ流儀で映えるものなのだ。オケの大編成が寧ろ大げさに思えてくるほど。そのほかの賛辞はロジンスキ盤の項目参照。木管がジャズそのもの。ああ、この時代に生まれたかった。ものすごい力感の終楽章にも唖然。う、うますぎる。音色なんてどうでもいい、スピードとリズムと力がすべてだ。「スピード」プロコのこの言葉はかれの3番よりこのロシア系移民の長大な曲にふさわしい。長大さはスピードが前提にあるのだ、ロシアの曲が長いのは速くて解釈された演奏を前提にしてるからだよ。とにかく、これは極致の演奏。◎以外ありえない。モノラルだけど、モノラル末期はステレオなんか比べ物にならない密度の濃い音が詰め込まれているからね。ハデハデ!史上最高の派手な演奏、史上最強に集中力の高い演奏です。カッチェンはバリバリ系の弾き方をすると味はないが男らしい打鍵に胸がすくなあ。。

ガーシュイン:ピアノ協奏曲

カッチェン(p)ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団(CDO)LIVE・CD

いくぶん大規模でクラシカル指向な曲であるせいかラプソディよりは聴ける演奏だ、でもカッチェンは余りに堅苦しすぎる。これとマントヴァーニ楽団の演奏の違いにまずは瞠目すべしだ。同じソリストで、こうも違うものか!ロジンスキのオケもちゃんとジャズ奏法を取り入れているのに、ノリが違いすぎる。スピードが違いすぎる。遊び(アレンジ?)が違いすぎる。すべてが娯楽的音楽のために、スポーツ的快感のためにできているようなマントヴァーニの曲作りに対して、カッチェンものびのびと、技巧を駆使してやりきっている。もちろんスタジオとライヴの差もあろうが、この曲はやはり、ジャズなのだな、とも思った。クラシカルなアプローチには、限界がある。正直この駄々長い曲をこのアプローチで聞かせるのはうまいとは思うが、飽きた。無印。ほんと面白いし巧いよマントヴァーニ!スケール感もバンド特有の狭さが録音操作でカバーされていて、スウィング、スウィング!遊び、楽しんだもの勝ち!音色どうこうはあるけれど、起伏に富んだ表現力は初心者を夢の世界へいざなうでしょう。あ、ここロジンスキ盤の項目か。

ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー

カッチェン(p)ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団(CDO)LIVE・CD

どうも四角四面で堅苦しい。ロジンスキらしいガシガシ急いたクラシカルな音楽作りにも違和感しきりである。機械的で、得意の集中力が変な方向にまとまってしまっている。ガーシュウィンにこの芸風はあわないのだ!しかも一応バックオケを意識しているせいかテンポがかたくなに守られているし個性も薄いというか、みんな萎縮していて凡庸でつまらなすぎる。カッチェンも堅苦しくて辛そうだ。ジャズ奏法を取り入れてはいるけれど、よそよそしい。終演後の拍手もやや冷めている。これはどうも、曲に相性のない演奏スタイルと言わざるをえない。無印。録音悪し。

プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

D.オイストラフ(Vn)ブール指揮ストラスブール管弦楽団(GRANDI CONCERTI他)1961LIVE

これ、CD化していると思うのだが、とにかく私の盤はピッチが低すぎるのだ。この曲の妖しいきらびやかさはもっと高いピッチでないと映えない。それに、演奏がどうも、あたりまえすぎる。余裕がありすぎるのだ(びみょうなところだが余裕しゃくしゃくに技巧をひけらかしているのだといっているのではない、解釈表現は寧ろ地味なほどであるが、余裕が出てしまっているのが気になると言っているのだ)。余裕があることはいいことだが、「余裕の無さを演じる」のも演奏家の一つの技術である。そういう音楽も20世紀にはたくさんあるのだから。ギリギリの感覚というのが、時々は出て欲しい。音色はとにかく艶深く赤銅色のなめし皮のようで、じつに効果的ななまめかしいヴィブラート、だがそれらは余りに安定しているため、初めてこの曲に触れる人にはいいかもしれないが、シゲティを知ってしまっている者にとっては、いかにも余技でやっているように感じられてしまうのだ。いや、贅沢なことを言っているが。録音も悪く、最後のトリルが終わらないうちに拍手が入ってしまう、まあ、拍手に関しては私は寧ろ素晴らしいと思うが。ブラヴォが凄い。実演だとまた違うのだろう。録音として、無印としておく。

プロコフィエフ:交響曲第1番 

○チェリビダッケ指揮ナポリ・スカルラッティ管弦楽団(GRANDI CONCERTI他)1959LIVE(1961/10/22と同一?)

冒頭はやや重く、フォルム重視のしっかりした演奏であるがゆえに少し格式ばった感じがするが、厳しく律せられたオケ(巧い!)は弾むようなリズム表現で足踏みするようなテンポ感を抑えこんでおり、非常にバランスのとれた演奏になっている。チェリの後年の様式を思わせる非常に精度が高く形式的なしっかりしたものだが、情が通っている感覚があるのがいい。ヴァイオリンの微妙なポルタメントなど、イタリアオケの悪い癖が最小限に現れているのは逆に素晴らしい演奏効果となっている。最終楽章の勢いには圧倒される。それは壮年期のチェリのものだ。しかも、オケがこれだから、もう嬉しくなるような弾み心地に胸がすく思いがする。何度でも聴くに耐えうる演奏で、つまりそれは娯楽性が存分に発揮されながらも決してだらしない演奏ではないということを示している。本当に素晴らしい終楽章で、録音の良さというのもあるが、チェリ壮年期の何かしらドイツぽすぎる解釈というものが、この演奏この楽章にかんしていえば全く鼻につかない。ここだけをとったら間違いなく◎なのだが、やや古典的に(ハイドンよりベートーヴェン的に)格式ばった解釈が残ってしまっている他楽章のことを加味して○としておく、オケは満点だ。名演。ブラヴォが叫ばれてしかるべきである。ROCOCO盤は恐らく同じものだろう。但し恐ろしく音が悪い。MEMORIESの復刻は同じ組み合わせだが録音日が異なる。1959のほうが怪しいかもしれない。

トラウマとモーツァルト

モーツァルトは苦手だ。

モツレクや短調で書かれたものあるいは後期交響曲の一部は徐々に聞けるようになってきたのだが、まだだめだ。理由がある。幼少期(?)の練習曲に協奏曲がいくつか使われていて、あのトリッキーな装飾音符(としておこう)を練習するのが至極イヤだったトラウマがあるのだ。きっとそれが「古臭い」というイメージと結びついて(高校のころには聞くクラシックといったら惑星しかなかった)、大学からつい最近まで、眠くて辛くて、という感じだったわけである。仕事でモーツァルト関係のことをやっていたこともあり、更にイメージ悪かったわけだ(わからん音楽のことを書かなきゃならない(別に文筆活動ではないので念のため)のは物凄く辛いことだ)。

演奏する側からすれば、カルテットに定評のあるハイドンとモーツァルトを比べると格段にモーツァルトのほうが弾き易い。ハイドンにはかなりかっこいいものもあるのだが楽譜の見た目と裏腹に非常に難しい。動かしづらい動きや押さえづらい音符が平均的にのべられているのだ。比べてモーツァルトは室内楽に限らず物凄く弾き易い。単調ではなく変化に富んでいてあれだけロマン派的な内容を持ちながら、フォルムに一切の崩れが無く簡潔で合理的なのだ。ピアノしか弾けない自称作曲家というものを私は認めないのだが(ピアニスティックな効果を狙った書法を駆使する人が多い)、モーツァルトはピアノだけの人ではないのは勿論、直感的に楽器の構造と用法を把握し音にできたのだろう。ショスタコなんかとはえらい違いだ・・・あ、ショスタコはすごいと思いますよ、「言いたいこと」が技巧に先行している、ってかんじで。最近は言いたいこと(もしくは言うべきこと)がないのに技術だけある人ってのが音楽に限らずたくさんいますわな・・・。昔、私の演奏はモーツァルトに適性があると何人かに言われたことがある。そういうこともあろうが、ハイドンは聞くのも弾くのも未だ苦手だ。価値はおおいに認められるけれども。

・・・話を戻すと、でも、後期ロマン派以降を聴き尽くしてしまったあとでモーツァルトを聞くと、新鮮なのだ。古楽器演奏も変わってきていて、技術的進歩と裏腹に何か面白さを狙いだしているような気がする。古楽でもないのに古楽器(や分析解釈)を使う例が多いのはそれを物語っている。そこで私は惹かれ始めたという感じかな。でも、現代の演奏より、音盤の古いのがいいですよ。

まさに前述の、

「言いたいこと」が技巧に先行している

ってことなんです。クラシックは再現芸術じゃない。歌舞伎がそうであるように、精度だけを上げて同じことをやるだけでは技術にすぎない。そんなものに、立ち位置が末期ロマン派にある私は惹かれない。

たとえば何?

・・・それが今日これを衝動的に書くことになったきっかけの以下の録音です。

35番ハフナー、クレンペラー指揮ロス・フィルlive

1500円だった。

ガーシュイン:パリのアメリカ人

○フェリックス・スラットキン指揮ハリウッドボウル管弦楽団ペナリオ?(P)(EMI)

親父スラトキンさんの録音としては比較的よく見るもので、最初はかなり楽しめる。だが何度か聞くうちに、この人にしてはいささかこなれていない部分が散見されることに気が付く。解釈の綾(主としてテンポ変化)が時々非常に人工的なのだ。これはデュナーミク変化とうまくシンクロしていないという単純な言い方もできる。もちろんバンド的な演奏ではなくクラシカルなフォームを保った演奏であり、そのせいもあろう。緊密でリズミカルなのはハリウッド四重奏団のころを彷彿とさせる。意外だが響きががっしりしており(速度は保たれる)、そのせいで曲のいわゆる「ライトクラシック」系の魅力と齟齬を生じていると言えるかもしれない。とりあえず私は最初は面白かったが、次第に楽しめなくなった。後半イマイチかも。○。

私のLPはジャケットはホワイトマンとなっているが中身がフェリックスとなっている(泣

グラズノフ:交響曲第7番「田園」

◎ゴロワノフ指揮VRK交響楽団(melodiya)LP

VRK(キリル文字でBPK)はしばしば見られる略称だがモスクワ放送交響楽団のことである。ブリュッセルにVRK(VLAAMS RADIO KOOR)という合唱団があるが別物。何の略称なのか調べたがわからなかった。ムソルグスキーなどの歌曲伴奏でこの表記がなされたものがいくつか(映像含め)残されているがきわめて少ない。THE GRAND SYMPHONY ORCHESTRA OF THE VRKやVRK ORCHESTRAなどと英語圏では表記されているようである。したがってこれは既出CDと同一演奏である。演奏時間並びにわずかなミスや繋ぎ、音色が同じであった。

但し音はきわめてクリアである。私が初めてこれを聞いたのは非常に状態の悪いPearlの復刻CDで、多分そののち復刻されたものもイタリア盤でなくとも五十歩百歩である。だがこの演奏に私は打ちのめされ、それまで聞いてきたグラ7の何と貧弱なことか、何とこなれていないことか、何と解釈されていないことか、何と思いの伝わらないものかということに気がついた。ここには自在なテンポと踊るようにしなやかにうねるように操作され波打つオケ、完璧な演奏があった。遅ればせながらゴロワノフ(当時はゴロヴァノフと呼んでいた。ゴロワーノフとも呼んだかと思う。古いマニアでも知らない類の指揮者であったため入手し聴くのは至難であった)という傑物(怪物ではない!)の、特に歌劇的な表現の優れた手腕は、大規模編成の曲にその特質を示すということを知った。カリンニコフやチャイコフスキーやグラズノフでも比較的穏健な6番といったところでは空回りを感じる。しかしワグナーやスクリアビンとなると話は別だ。違和感を覚えさせるほどに主として解釈と発声法に極端な抑揚をつける、それを受け容れる豊穣なスケール感のある音楽、あるいは構造的にしっかりした音楽(中期スクリアビンの管弦楽は特異ではあるが素直なため崩れようがない)には威力を発揮する。まさにこの曲など「形式主義者」グラズノフの力強くもしっかりした重量感のある音楽となっており、逆に単純に音にするだけでも曲にはなるのだが、そうすると理に落ちた感じになってしまい「ナンダベートーヴェンのまがいものだよ」という不当な評価につながってしまう。しかしこの曲ほどグラズノフの「アマルガム作曲家」としての特質が反映されたものはない。それは対極にあると思われがちなラヴェルを思わせるほどである。ここにはたとえばワグナーの半音階がある(2楽章第一主題の展開など)、チャイコフスキーの慟哭がある(同じく2楽章第二主題前後)。古今東西のさまざまな作曲家のエッセンスが見事にパッチワーク状に繋ぎ合わされ、まるで見事にしなやかなグラズノフという織物に作り上げられている。これは亜流音楽ではない。単純ではない。そしてその魅力を体言できるのは、グラズノフの要求する非常に高度なテクニックと体力(!)を各個が備えた大オーケストラ、更に解釈によってパッチワーク音楽の弱みである「繋ぎあわせ感」を一つの巨大な潮流に併合し表現させてゆくか、それをわかっている指揮者のみである。私はそういった指揮者を一人しか知らない。

それが、ゴロワノフである。

これは(継ぎ接ぎとはいえ)ゴロワノフにとっても最高傑作の一枚であり、この人のこの曲の演奏としては信じられないほどの精度とアンサンブルを見せ付けるものとなっている。ゴロワノフが荒いだけの笑ってしまうアーティストと捉えている人は不幸である。まずは本領である劇音楽、それに近似した位置にいるグラズノフやスクリアビンといった作曲家の作品に触れてから喋るがよい。

これは7番の史上最高の、恐らく今後も現れない名演である。最後の一音まで、この力強さと驚嘆すべきソリストの技に忘我することうけあいである。長い終楽章をここまで聞かせる演奏は無い。そしてグラズノフ最高のスケルツォ、3楽章の蹴り埃舞う軍馬たちの疾走に、憧れと郷愁と、熱狂を感じない者はいまい。

尤も、Pearlの雑音を取り除いた痩せた音では難しいかもしれないが。私はよほどのことがなければ媒体音質に言及しない方針なのだが、これは、十数年以上も聴き続け残念に思ってきた音質の「穴」を見事に埋めてくれるLPであったため書き記しておく。復刻もやりようによっては「普通の人」に誤解を与えるものになりかねない見本のようなものだ。メロディヤではないレーベル名がかかれているがメロディヤ録音と聞いたのでそう書いておく。

ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲

◎クロード・カサドシュ(P)デルヴォー指揮パリ音楽院管弦楽団(CND)LP

こんなに旋律的でわかりやすい演奏は聞いたことがない。ほんと相性のいいソリストに指揮者、隙のまったくない丁々発止だけで充分満足でしょう。浅さ云々含め両手とまったく同じ印象なのでそちら参照。こちらはある意味個性的な左手、ラヴェルとしては異論がある人がいるのを承知で◎。オケがいいよねーまた。デルヴォらしさがしっかり反映されてるし。詰まんない場面は流しちゃえ、でいいんだ。

ラヴェル:ピアノ協奏曲


○クロード・カサドシュ(P)デルヴォー指揮パリ音楽院管弦楽団(CND)LP

パキパキした演奏で内容は浅いがわかりやすく楽しめる(左手ともども)。オケもやりやすそうだ。このドライヴ感、疾走感は並ではない。細部のニュアンスはともかく力強く手慣れた巧いソリストで旋律の勘どころを全て押さえている。単純だけど単調にはならないのだ。録音もモノラル末期だけあってデルヴォの意志的で立体的な音作りをかなり精緻に捉らえている。また自然なのがこの指揮者の上手いところ。三楽章のブラスがやや不調だが音色にかんしても非常に感傷的で美しく直截なテンポの上にしっかりハマっているのがよい。また念押しするような引きずる感覚がなく自然に融和しているのも出色。変な解釈は無いのに娯楽性を構成する必要なだけの一音一音を若々しいスピード感を損なわずにクリアにしっかり聞かせていて心地よい。ラヴェルがこれでいいのか?いいんです。個人的にしっくりくる。さすがに二楽章は全く深みがなくただ弾いているだけの感は否めないが、少なくとも親父さんのスピードだけの無味乾燥な独特のスタイルとはかけ離れた(ロベール氏は両手は録音してないが)血の通った感じは強くあり、好意的に聞いてしまう。とにかく軽く聞き飛ばせる難しくない録音なので初心者向き。ソリスト指揮者オケの相性がいい、これだけは確かだ。◎に近い○!クロード氏巧いよ。

ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲

○サンカン(P)デルヴォー指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送管弦楽団(club francais/ACCORD)1964/10/3-6・CD

ステレオで聞きやすい音質。サンカン先生の演奏はラヴェルをよく理解したもの、いい意味でも悪い意味でも正統的なラヴェルだ。感傷は無いが遅いテンポによる静謐な音楽の表現には一種諦念のようなものが漂い、速いパセージでも音を全部表現しようという気持ちが感じられ決して手を抜くことはない。全体のスタイルとしてはペルルミュテールを彷彿とする。「音を全部出すこと」が足を引きずられるようなテンポ感に繋がっていなくも無いが(これはオケのほうが問題なのかもしれない・・・ホーレンシュタインの指揮同様)、少なくともソリストのレベルにおいては非常に高い知見を感じさせるものとなっている。僅かに感じられる足のもつれるようなテンポは寧ろこの知見に引きずられているのであり、技術的な問題や衰えといったものでないことは、全体が少しも損なわれないところからわかる。いい演奏であり、なぜ「両手」だけがCD化されたのかわからないが、デルヴォーの意思的なバックともどももっと聞かれて良い演奏だ。○。

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ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第6番

◎ノリントン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ELS:CD-R)2005/4/10LIVE

かなり音質が良く聴き易い。二箇所ほど瞬断があるが恐らく放送音源だろう。6番の演奏でここまで高い精度と弾み良い発音の活気のバランスが良いものもあるまい。ライヴだというから驚きだ。近年、近現代ものをよくやっていて注目の人だが「音だけで」聞かせられるかはどうなんだろう、というところもあったが杞憂だった。冒頭は鈍重だが、リズミカルな主題に入るととたんに生気を得る。ひびきが綺麗に整えられており、横長のフレーズではフレージングがしつこくないので更に聴き易い。2楽章中間部、ペットの警句が長い音符を鳴らすノンヴィブの弦の完璧なハーモニーで支えられているところなど素晴らしい効果があがる。RVWの静かなハーモニーにはノンヴィブが似合う。

「RVWの世界」は簡単に聞こえてなかなかフクザツな要素も内包しているから、こういうしゃきっと整えられたスタイルで聞くと耳からウロコなところがある一方で、3楽章の烈しさはバルビローリのような勢い任せのものではないのに非常に攻撃的で扇情的に聞こえる。主として弦のハーモニー、アタック、更にトータルな音響操作、このへんの素晴らしい律し方は古楽経験からの得難い資産として反映されていると感じられる。通常聞きどころのジャズ風のスウィングや楽想の生温さもよくありがちな「娯楽的に」ではなく、この曲の通奏主題である「不安」の一つのあらわれととらえられるくらい音楽的な完成度の高い3楽章であり、「烈しいRVW」としては最もよくできたスケルツォ楽章であるこの音楽の演奏としては、ひょっとしてRVWの最も意図に沿った形で響き突き進んだものであるかもしれない。

4楽章の夜景への移行がスムーズなのも決して崩れないスタンスのためだ。本来3楽章のドンチャン騒ぎから4楽章の死滅の光景へのあっけないコントラストが意図のところだが、私自身のこの曲への感想として、いつも余りに「あざとくて」耳がついていかない感じがしていた。しかし基本的に両楽章を同音質同音響で伝えようとするこの演奏に違和感は全く無い。4楽章のRVW的美しさも・・・通常の演奏であれば「死滅」にてっしようとする余り音楽的な生気まで失い魅力が無くなってしまいがちであるが・・・巧く引き出されており、ポリトナリティ的な美感が他のRVWの幻想的な曲との間隙を埋めている。廃墟を照らす柔らかな月光の美しさがよく表現されている。

この演奏で重要なのは「美・精度」と「ライヴ・活気」のバランスだ。前者だけ、後者だけの演奏なら他にいくらでもある(とくに前者だ)。ノリントンはこのリズム処理と速めのテンポだけで既にかなり成功しているといえるだろう。しいていえば純音楽的過ぎる感もある4楽章に少し「怜悧さ」が足りないかもしれない。だが前記の通りここまで美しく「面白い」4楽章は無い。

本来の「作曲意図」をロマン派的に反映するのではなく「楽曲分析」から浮き彫りにするブーレーズ以降の流れを、更に一歩進めた「情のこもった分析手法」を確立したものとして、最高評点をつけておく。名演。

・・・直後、A.デイヴィスを聴いたが「いつものRVWの6番」だった。つまらない。どこが違うんだろう?ふとオケの力かもしれないと思った。しかし鈍重さのかけらもない鋭い演奏ぶり、ライプツィヒも変わったものだ。

シベリウス:交響曲第2番

○ザンデルリンク指揮ベルリン放送交響楽団(CD-R)1993/4/30LIVE

録音良好。実直なわりにアクの強い演奏で、テンポや音量操作はまめだが発音やフレージングが念を押すようなドイツ式で、安定感があるけれどもやや単調か。精度は極めて高く、清々しさはないけれども厳しく鋭い怜悧さは感じられ、温かみが欲しい半面これは演奏の個性としては認めておくべきかなどとも思う。派手なのにモノトーン。ブラヴォ飛ぶ。○。

12/8はシベリウスの誕生日だそうです。

グラズノフ:交響曲第1番

○フェドセーエフ指揮モスクワ放送管弦楽団(VICTOR/MELODIYA)CD

非常に綺麗にまとまりよく演奏されており、ロシアオケの音も程よく楽しめる。この全集の中ではかなり精度の高い録音といえるだろう。ただ、古典的にしっかりまとめすぎていて、元々グラズノフの曲にしてはいささかパンチに欠ける若書きであるがゆえに(目まぐるしい転調など初期特有の野心的な響きは随所に織り交ぜられているが)「あく抜き芸」ともいえるフェドの芸風にかかると更にパンチに欠けた平坦なものになってしまう。リズミカルな処理など申し分ないのだがテンポやデュナーミク(アゴーギグ?)が単調だ。美にこだわるあまり流れが大河のように緩やかになり勢いまかせの初期グラズノフの解釈としてはそぐわなく、つまらない曲のように聞こえてしまう。美しさと精度の長所をとって○としておくが、最初に聞く演奏ではない。
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