プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

△D.オイストラフ(Vn)ハイティンク指揮RCO(KARNA:CD-R)1972/10/8LIVE

美しさは音色のみ。オケソリスト共に振るわない。テンポが遅く莫大で三楽章などオイストラフとは思えないくらいメロメロだ。調子悪すぎ、こんな録音は出しちゃ駄目だよな。。法悦的なテンポはたしかに一つの見識に聞こえなくもないが録音がいいだけに辛い。
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スクリアビン:法悦の詩(交響曲第4番)

○クレツキ指揮フランス国立放送交響楽団(KARNA:CD-R他)live(1955/11/24?)

分厚く力強く厳しい演奏でオケはかなり本気である。テンポに実はかなりデジタルな起伏があり、遅くなると異常に粘るため、冒頭の木管アンサンブルを始めとして音線が繋がっていかないところも散見されるものの、おおむね精緻な整え方ですっきりとした響きが支配的になっている。スクリアビンのスコアは単純だが響きはなかなかに複雑で分厚く、その響きをいかに明瞭に浮き彫りにするかが鍵になってくる。その点よくできている。リマスターは快適だが録音自体バランスがよくないモノラルのため時々スカスカに聞こえたり、ヴァイオリンなどどことなく音がばらけて聞こえたりもするが、これは仕方ないだろう。スクリアビンは非常に耳のいい作曲家で、20世紀音楽への幕をあけたと言われるのもなるほどと頷ける響きが横溢していることがこの演奏を聞くとよくわかる。後年の音列書法による新ウィーン楽派の作品とよく似た楽器法が現れたりするところもはっとさせられる。ラフマニノフは微分音まで正確に聞き分けることができたというが、スクリアビンも自然音に含まれる倍音要素を分解し明確に捉えることができたようであり、神秘和音に代表される独特の重低音を含む不協和音も、共振音を含む自然音を再現もしくは「凌駕」しようとしたと思われるものである。弦楽器の響きに厚みを持たせるために長い音符を刻ませるということは古来よくやられてきた方法だが、(ロシアにはグラズノフのように長い音にトリルを多用し厚みを持たせる「伝統」があり、その延長上と考えることもできるし、ピアノの書法からの単純な移しかえとも考えられるが)この曲など非常に刻ませる場面が多く、それはともすると単純に厚みを持たせる以上に、その音響的な「ブレ具合」を音色のひとつとして取り入れていたようにも感じられる。いずれ神秘のものだがこの古い録音ではそこまでは聴き取れないものの頭で理解することはできる。最後の盛り上がり方は実に誇大妄想的でスクリアビンにふさわしいスヴェトラ的伽藍の構築だ。終演後客席がややどよめき気味だが成功していると言っていいのではないか。○。盤にはただ「交響詩」とあるが法悦の詩は元々詩曲のひとつとして(ドビュッシーの夜想曲のやり方だ)かかれたもので、「交響曲」「交響詩」のどちらでもなく、どちらでもあるから、間違ってはいない。初期の習作に交響詩のような題名をつけている例もあるが、それとは違います。

(後補)inaより1955年11月24日のコンサート(悲愴等)が配信(Amazonデジタルミュージックでは2016年8月~)、同一音源と思われる。forgotten recordsから音盤化もしている。

リヒャルト・シュトラウス:4つの最後の歌

◎シュヴァルツコップ(Sp)バルビローリ指揮ロンドン交響楽団(vibrato:CD-R)1969/9/28live

いまさらケミカルのStarGuitarを聴いたりm-floのベスト(こりゃいいです)聴いたりと無茶苦茶な音楽生活なわけだが・・・それでハウスマンの詩を訳したりしている・・・、楽器のほうはイベールやメシアンやマーラー、バッハなどこれまた無茶苦茶である。で、いきなり思いつきで滅多に聴かないリヒャルトなど聴いてみたりする。コントラストで心地いい。命と季節のうつろいにまなざした1曲目「春」2曲目「9月」に顕著な恍惚感・・・浮遊感のある生ぬるく明るい和声展開はワグナーより派生したリヒャルト独自のもので、同時代に幾多の追随者を生んだ。しかしリヒャルトにはどうしても量産家としての宿命、「消費者サービス」の過剰さがつきまとう。だから大衆におもねったような巨大な歌劇などはなかなか聴く気になれないし、初期から最盛期以外の作品がこの曲のようなものを除き余り現在俯瞰的に演奏されないのもわかる気がする。この曲のように小さな曲は端的に作曲家本来の姿を示してくれるのでわかりやすく、感情移入もしやすい・・・短い曲に慣れた現代の大衆音楽好きには。人気もわかる。リヒャルトがプロフェッショナルとしての能力技能を見せ付けることや世事の喧騒に巻き込まれることから離れて、もはや音楽的冒険なども意識しなくてもよく、名声も望むべくも無い晩年の末(1948)の作品、そこには先鋭さより素直で穏やかな感情があらわれ、ワグナーからの影響もてらいなく披露し、戦後になって初めてマーラーに接近したような諦念と陶酔の世界が展開・・・2曲目「9月」以降あきらかにマーラーの同時代者としての直接的感傷(意図しているようにも聞こえる)を掻き立てられる。暗示的な3曲目「眠りにつくとき」の古風な穏やかさから、圧倒的に終曲「夕映えの中で」が感動的であり、これはこの歌曲集で最初に着想され作曲されたものだが、非常に長い穏やかで美しい後奏にマーラーの終楽章・・・「千人」終盤の雰囲気の中に「大地の歌」告別のテーゼが織り込まれたようなもの・・・を連想するなというほうが無理な話だ。歌劇の終幕のように壮大でいながら歌詞は死を示唆しており、それは断ち切れた死ではなく薄く明るく消え行く死の一種の理想形である。このバルビとシュヴァルツコップによる「絶唱」は、バルビがなぜリヒャルトをそれほど録音しなかったのかわからないくらいの名演である。バルビは晩年様式に依っており、イギリス的な清浄で明るい響きを柔軟に操り透明感のある巨大な音楽を波打たせ、シュヴァルツコップは波頭に立つ海の女神のように崇高な声を解き放つ。ロマンティックであるにもかかわらず生臭くないのはバルビ特有の表現だが、ペシミスティックにならず満ち足りた表情をとるべき曲である、バルビにマッチした選曲でもあるのだ。穏やかで感情を抑制したシュヴァルツコップの表現もまたバルビの世界観と一致している。音楽のゆったりと波打つさまにただ漂いながら、時折不安な和声に心揺らしつつも、ただ消え行くことに身を委ねる・・・これはねえ・・・なぜ正規化しない?◎。

(なぜかメゾソプラノと表記してました、すいません)

ソプラノ歌手のシュワルツコップさん死去
 オーストリア通信などによると、1970年代に引退するまでマリア・カラスらと並び20世紀の最も偉大なソプラノ歌手の1人とされたエリーザベト・シュワルツコップさんが3日、オーストリア西部のフォアアルルベルク州シュルンスの自宅で死去した。90歳。死因は不明。

 15年12月、現ポーランドのヤロチン生まれ。ベルリンの音楽学校で才能を見いだされ、38年にベルリンでオペラ歌手としてデビューした。

 モーツァルトなどのオペラを得意とし、ウィーン国立歌劇場などで活躍。カラヤンやフルトベングラーといった名指揮者たちと共演し、ザルツブルク音楽祭といった欧州を代表する音楽イベントにも出演した。

 引退後、かつてナチスに関与した過去を認めたが、歌手生活を続けるためだった、などとしていた。

(2006/8/4 ニッカンスポーツより)

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RVW「ウェンロックの崖にて」全文試訳


参考:本体サイト
画像:Bredon Hill

RVW「ウェンロックの崖にて」 ハウスマン「シュロップシャーの若者」より、歌唱と弦楽四重奏、ピアノのための

以下、曲順に従ったてきとう訳詩

1.(31)
ウェンロックの崖にて森がざわめく、
森の羊毛はレーキンの丘に波うたされる
強風、若木を揺さぶり
そしてセヴァンの川面に葉が雪と散る

雑木林や崖地の森をこのように風が吹き抜けた
ユリコンの町のありし時のように、
これこそ昔の風は昔の怒りのままに吹き、
しかしそれから他の森を打ったのだった

そのとき、私の時よりずっと昔、ローマ人が
遥けき波うつ森を見つめていたものだ、
血、イギリスの農夫を暖めたもの、
彼を傷つける思い、それがそこにあった

そこだ、森を騒ぎ吹き抜ける風のように、
彼の中から命の強風が吹き上がった、
人間の木はけして穏やかではない、
その時はローマ人、今は私。

強風、若木を揺さぶり、
とても強く吹く、だがすぐ吹き去ってゆくだろう、
今日ではローマ人と彼の苦しみは
ユリコンの下の灰。

2.(32)
遠くから、夜から朝から
そして君、十二方位に風が吹く空から、
生命の素が私を編むために
ここに吹き付ける、ここに私はある。

今・・・一息私は留まる
まだ散り散りにはならない・・・
早く私の手をとり告げるのだ
君が心に持っていることを。

今語れ、私は答えよう、
どうやって君を助けるかについてだ、言うのだ
風の十二方位へ向け
私が終わりなき道を行く前に。

3.(27)

「私のチームは耕しているか、
私がかつてそうしたように
馬具の鳴るのを聞いたように
私が生きている男だったときに?」

ああ、馬はぐんぐんと進み、
馬具は今も鳴っている、
何も変わってはいない、
君が自分の耕した地の底に横たわった以外は

(訳注:ここでRVWはサッカーにかんする一節を削除した)

「私の彼女は幸せか、
ああ離れ難かったのだよ、
泣くのに疲れてしまってはいないか
夜横になるときに?」

ああ、彼女は気軽に寝ている。
泣くために横になることはない、
君の彼女はとても満ち足りている。
安らかに、若者よ、そして眠れ。

「私の友は元気か、
今私は痩せさらばえている。
彼は眠るのにいい寝床を、
私のものよりいい寝床を見つけたか?」

そうだ若者、そうだ若者、私は安らかに横になる、
若者たちが望むように横になる、
死んだ男の愛した女を楽しませる、
誰のだなんて野暮は聞くな。

4.(18)

ああ僕が君に恋していたとき、
清廉潔白勇敢で。
名声は何マイルにも拡がって、
僕が何てうまくやったのだろうと羨望の目が集まって

そして今幻想は去った、
何も残っちゃいない、
何マイルもの範囲のみんながまたも言うのだ、
僕はただの僕でしかないのにって

5.(21)ブリードゥンの丘

ブリードゥンの夏の日に
鐘が澄みやかに響く、
両方の州に響き渡り
尖塔から、遠くから近くから、
幸せなノイズが聞こえる。

日曜の朝には
彼女と僕は寝転んで、
そして色とりどりの州地を眺め、
そして空高く雲雀の声を聞いた
僕らの頭上を舞う。

鐘が彼女を呼んで鳴ったっけ
谷の彼方から、
「来たれ教会へ全ての善き者たちよ、
善き者たちよ、来て祈れ。」
でも彼女はここに座りっぱなしで。

それで僕は振り返って答えたんだ
弾けるタイムの葉の間から
「ああ、僕らの婚礼のときに鳴れよ、
そして僕らはチャイムを聞く、
そしていつか教会へ行こう。

でもクリスマスの雪が
ブリードゥンの丘の頂を覆ったとき、
僕の恋人はさっさと立ち上がった
そして知らないところへこっそり行った
そして一人で教会へ行った。

彼らはただ一つの鐘しか鳴らさなかった、
花婿はどこにも見えなかった、
葬列があとにつづいた、
そしてそれから教会へ彼女は行った、
そして僕を待ってはくれない。

鐘がブリードゥンに鳴り響くとき、
まだ尖塔がうなっている
「来たれ教会へ全ての善き者たちよ、
ああ、何てうるさい鐘だ、ちくしょう、
僕は君を聞く、行くさ、行くさ。

6.(50)

(訳注:序の部分が削除)

川の源の谷あいで、
オニーとティームとクランのほとりで、
安らかに生活する人々の国、
太陽のもと一番静かな場所。

我々はまだ軽くすべき悲しみを抱いて、
いつも楽しいというわけにもいかなかった、
そして若者はナイトンでも苦しみを知っていた
私がナイトンの若者だったころ。

テムズが下に流れる橋のあたりで
ロンドンで、醜く創り上げられた町、
想像に難くないことは確か
もし悲しみが人にまだあるとしても

若者が年をとるにつれ
こうむる苦しみも増してゆくとしたら、
悲しみを肩に背負って運んでいるのだ
それはずっと昔に荷なっていたもの。

どこで降ろして休むことができるのか
喜んで降ろしたいこの荷物?
テムズでもティームでもない川で、
ロンドンでもナイトンでもない町で、

そこはナイトンよりずっと遠いところ、
クルンより静かな場所、
最後の審判の日、雷の落ちるとき軽くなる、
だがそれは彼には問題ではないこと。

(以上てきとう訳)

RVW「野をわたり」全訳解説など


参考:本体サイト
画像:A.E.ハウスマン

~A.E.ハウスマンの最初の詩集「シュロップシャーの若者」は1896年に出版された。それは作曲家たちにとって大きな贈り物となった。ハウスマンの本業は学者であり、その詩はギリシャのアンソロジーにみられる、ある種の見事な質を保っている。失われた若さ、失われた愛、失われた古里への深いノスタルジーが混ざり合った感情だ。彼は地名の組み合わせの絶妙をもって読者自身の経験と共通する「失われた地」を創り上げている。1922年に二冊目の「最後の詩集」が出版されると、作曲家達は今一度自身の音楽にぴったりの文節を持つ詩文を見出した。ハウスマン自身は音楽を嫌い、彼とRVWは初期の歌曲集「ウェンロックの崖にて」の一つの歌*をめぐりいくつかの激しい言葉を交わしていた。これはテノールと弦楽四重奏、ピアノのために書かれたものである。

*訳注:27番「私のチームは耕しているか」のサッカーにかんするくだりをRVWが削除した(「この一節が純粋に気に入らなかった」)ことに関するトラブルを言っていると思われる。男らしさ(ゲイだったともいわれる)とニヒリスティックな感覚を持ったハウスマン自身、RVWの美しく感傷的な音楽に批判的だったようだ。故三浦淳史氏も同調しバタワースの歌曲のほうを評価している。

この二番目の歌曲集「野をわたり」でRVWはソロの歌唱とソロ・ヴァイオリンを用いている。8つの歌の最初と最後は哀歌ふうで、「野をわたり」の歌は「ウェンロックの崖にて」の「私のチームは耕しているか」の幽霊の声の、もう一つのバリエーションとなっている。「半月~」と「ため息~」はいずれも失われたことを受け容れる感情を示し、小さな「朝に」は今ふたたび初期のハウスマン歌曲集の小さく冷笑的なエピソード「ああ僕が君と恋に落ちていたとき」のパラレルになっている。「さよなら」は同じムードがあり、親密な少女の出現
とその後の後退、男の敗北の流れに、ヴァイオリンによる驚くべき彩が添えられている。「妖精の鐘」の舞曲にも同様のものがきかれる。

この歌曲集はジョアン・エルウェスとマリー・ウィルソンによって初演された。ロンドンのグロトリアン・ホールで1927年10月24日のことである。しかし1954年まで出版されずじまいになっていた。(ウルスラ・ヴォーン・ウィリアムズ、MHS盤ライナー)

~ハウスマンもRVWも思索のすえに無神論に至った点は共通している。しかし起伏はあるにせよ比較的円満な人生を結果としておくることのできたむくつけき大男RVWに対し、10余りしか離れていないハウスマンは70台で早くも老衰死した。RVWの美しすぎる「ウェンロック」を嫌う人の感覚もわかる。しかし素直に詩文に感動し、しかし独自のポリシーを堅持しつつ歌曲につけたRVWの純粋な作曲家としての態度、その作品に溢れるRVWならではの美観には決して浅い思いつきで書いたものではない魅力があり、これはハウスマンの詩につけた歌というより、ハウスマンの詩による変奏曲なのである。そしてここに私が書く訳文も、私による更なる変奏曲になっているということをご理解いただきたい。翻訳とはそういうものだ。

RVW「野をわたり」 8つのハウスマンの歌、歌唱とヴァイオリンのための

以下、曲順に従ったてきとう訳詩

1.(最後の詩集、序)

我らもう森へ行くまい、
月桂樹は全て刈られた、
ミューズたちがかつて頭上に飾った月桂樹の枝は
もはや木陰に無い、
年月が日を過ぎ、
すぐに夕べの闇が来るだろう。
全ての月桂樹は刈られてしまい、
我らもう森へ行くまい、
ああもう、もう行くまい
生い茂る森へ遠く、
高い月桂樹のむら成す森へ
そして月桂樹の枝なす木陰へはもう。

2.(シュロップシャーの若者、26番)

野をわたり我ら来たりし
ひととせの昔 恋人と私は、
ポプラが牧場の石垣の上で
ひとりつぶやいていた。
「ああ、誰がキスして去っていくのだろう?
村の恋人、その彼女、
二人の恋人は結婚するようだ、
そして時が彼らをベッドに送るだろう
でも彼女は土の上に横たわり、
彼は他の恋人のかたわらに。」

そしてたしかに木の下を
他の恋人が私と共に歩いている、
そして頭上にポプラが揺れる
銀の葉ずれから雨音をしたたらせ、
そして私はその動きから何も読み取ることができない、
でも今たぶん彼女に話しかけているのだ、
そして彼女にははっきり理解できる
彼らは間もない時のことを
私がクローバーに覆われて眠るであろうとき、
そして彼女が他の若者の傍らに眠るであろうときのことを。

3.(最後の詩集、26番)

半月が西へ低くかたむく、いとしい人、
そして風が雨を運んでくる、
そして僕らは別れて眠る、いとしい人、
そして二人の間に海々がよこたわる。
雨が降っているかどうかすらわからない、いとしい人、
君の眠っている土地に、
そしてああ、君の寝息がきこえる、いとしい人、
君は知らない、私と同じように。

4.(最後の詩集、23番)

朝に、朝に、
楽しい干草の大地で、
ああ 彼らは互いに見つめあった
日の光さす中。
青く、銀色の朝に
干草の山に彼らは横たわり、
ああ、互いに見つめあった
そして目をそらした。

5.(最後の詩集、27番)

ため息、草ぐさを揺らす
汝が決して起き上がらぬ地の
ため息つくかどうかも知らぬ、
わたりゆく風なのだ。
ダイヤモンドの涙、飾りつける
草原の低い汝の塚を、
朝の涙なのだ、
すすり泣く、でも汝のためではない。

6.さよなら
(シュロップシャーの若者、5番)

おお、ごらん何とたくさんの金のカップの花、
野や小径に咲いていることか、
たんぽぽが時をつげる
二度とは繰り返されない。
おお、僕は原っぱへお供していいかい
そして綺麗な花をたくさんつんであげても?
「腕を組んでもよろしいでしょう」
「ええ、あなた、ええ。」

ああ、春は若い二人のために送られてきた
「今こそ血が黄金に輝き流れる、
そして若い二人が楽しむ時
世界が年老いる前に。
今日咲く花は明日咲くかもしれない
でも新しいものほどよくはない。
僕が腕を回したとき言ってくれ。
「ほんと、あなた、ほんと。」

こういう若者たちもいる、「口にするのも恥ずかしいけれど
盗むためだけに寄ってくる者、
そしてひとたび彼らが花を摘み去ってしまうと
「捨てることなどかんたんだ。
そうだ君の心を僕みたいな男のためにとっておけ
そして信頼できない輩から安全であれ。
僕の愛はほんもの、すべて君のために。
「たぶんね、あなた、たぶんね。」

おお、僕の目を見て、それでも疑うかい?
なぜ、「町から1マイル。
あたり一面、何て草ぐさが青あおとしていること!
腰をおろしてもよろしいですよね。
ああ、人生よ、ただの一輪の花にすぎないのか?
なぜ真実の恋人たちがため息をつかなければならない?
やさしくね、憐れんで、僕だけの、僕の美しい、・・・
「さよなら、あなた、さよなら。」

7.(最後の詩集、41番)

若者たちが労働を終え家に帰ったころ
クリーのふもとのアブドンで、
一人の男が近所の人を呼んだ
そして二人が私を呼びに来たものだ。
そして槍の光なすところ
草原を横切っていき、
ダンスにあわせて、
僕はフルートを取り吹き鳴らした。

僕らの喜びは他愛ないもの、
でも、おお、それで僕らは満足だった、
楽器を吹き鳴らす若者たち、
調べに聴き入る老人たち、
そして演奏を続ける僕
木々から塔から山から、
綾なす光をはっしつつ、
太陽はフルートに眠りつく。

若者は恋人のほうへ
日焼けした額を向けたものだ、
そしてトムはナンシーとカップルになり
そしてディックはファンと踊ったものだ、
少女はまなこを上げて
彼のまなこを、そして黙り込んだものだ、
ダンスは楽しく進んだ
夕べにフルートにあわせて。

ウェンロックの崖はアンバー色、
そして輝きはアブドン町に、
そしてその間に暖かく眠る
芝のゆるやかなグリーン・マイル、
草やクローバーからやがて
最後の光が消え去ったものだ、
そしてイングランドの上に
影が張り出してゆく。
張り出す影は拡がって
僕はフルートを取り奏でる、
来いよ、若者、ダンスを学べ、
今日の調べをたたえるのだ。
明日悲しみは更に増える、
僕らは早く去らなければならない、
うたは空へゆけ、
そして僕は大地をゆく。

8.(シュロップシャーの若者、54番)

僕の心は悲しみ思う
僕の持った黄金の友達のために
たくさんの薔薇の唇の乙女のために
そしてたくさんの足取り軽い若者のために。

跳び越えるには広すぎる小川のそばに
足取り軽い少年たちが臥す、
薔薇の唇の少女たちが眠る
薔薇の色失せた野の上で。

クラシックブーム・・・

さっぱり感じとれない私は情報感度が下がっているんでしょうかねえ。一時期にくらべ手にする演奏会のチラシも激減しており、見逃すことも非常に増えています。結果クラシックを聴きに行く機会は他のジャンルの一割くらいでしょうか。

音盤はそれにも増して全体の収益が下がっている。クラシックのネット配信は音質や権利関係の煩雑さから殆ど発展しておらず(金銭のからまない放送はそれなりですが)他のジャンルに比べ更に落ち込んでいるでしょう。廉価盤だけのリリースが減り全般に高額化していることや、中古市場が厳しいなりに生き残っているのがその証拠です。


うーん、どうなんだろ。クラシックには私みたいに一切交流せず個人で愛好する人も多いから、統計に出にくい部分もある、潜在ニーズはあると思うんですけどね。「あの店には置いてあったのになんでここでは取り扱わないんだ、ふざけるな!ここではもう買わない!」なんて息巻くクレイジーな人が多いのもまた一般に敬遠されるゆえんだな、と思う半面、ユーザーニーズと売り手都合があいかわらず一致していないという所にも改めて気づかされました。名盤ほど店頭から消えているものです。新しいものを売りたい気持ちはわかるんだけどね。

シュロップシャーの若者


面倒臭くなり訳本を手に入れたがどうも訳がよくない。まったく詩文というのは難しいものだ。思ったのは訳本というのは音楽でいうところの音盤である。そして原書というのは譜面なのだ。誤解を恐れずに原書を読もうとする感覚は、楽譜だけで未知の曲を弾こうとするのに似ている。なんだか学生のころを思い出した。

画像:バタワース

ラフマニノフ:交響的舞曲

○コンドラシン指揮シンシナティ交響楽団(VIBRATO:CD-R)LIVE

激烈なコンドラシン健在でリズム刻みの強烈さは比類ない。両端楽章がききものだ。特徴としてはロマンティシズムで、中間楽章から三楽章までの流れの中に強靭で男らしいうねりがより届きやすいわかりやすい形で取り込まれている。楽団にやや弱さを感じるしとくに弦楽器はついていけずバラケる場面も少なからずだが、三楽章のとくに後半、芳醇な香りにはハリウッド往年の感傷的な映画音楽張りの音表現をきくことができる。いかにもアメリカ的な垢抜けた要素もはらむ曲なだけに清々しく板についている。こういうレガートの表現にたけたオケなのだろう寧ろ。コントラストも鮮やかである。明らかにバラけてもやる気はすさまじく好感が持てる。旋律が浮き立つのは録音バランスがいいせいもあるだろう。モノラルで篭った汚い音だが録音状態としては悪くない。最後の派手なフィナーレからタムタムの残響が残り絶えるまで拍手が起こらないのが呆気にとられたようでライヴ感がひときわ際立ちよい。これはなかなかのものだが、録音をマイナスして○にとどめておく。

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ヴォーン・ウィリアムズ:アカデミックな協奏曲(ヴァイオリン協奏曲)

○メニューイン(Vn)ボールト指揮LPO(EMI)CD

この古いモノラル録音でも技術的な問題は既に顔をもたげてきている。弓返しや運指の不明瞭さが気になる人は気になるだろう。しかしここでより重く聞き取れるのはそういう子供でもわかるたぐいの浅い問題点より、何かもっと「本質的なもの」を表現しようとした・・・RVWが本質的に内包する自然主義的・哲学的宗教性を抉り出そうとしているとでも言おうか・・・メニューヒンの崇高な意思である。3楽章のジプシー音楽的な(注:ジプシーは差別用語です)無窮動では細かい音符を悉く機械的に組み上げていくことが必要とされるのに対し、メニューヒンは若干ぎごちなさを感じさせるが、音線だけを追っていては見えてこない有機的に組み込まれている「聞かせどころ(もしくはロマンチシズム)」に着目し、余り技巧を見せびらかす方向だけに行かないよう寧ろ気を配っているようにも聞こえる。カスレに近い表現的な音がシゲティに似ているのもその思いを強くさせる。音楽自体は所謂(厄介な定義や知識が跋扈する最近は余り使われない曖昧な言葉だが)新古典主義の範疇にあり、といっても当然擬古典とは違い現代的な和声リズム感覚に明快な構造を与え理知的に組み上げていく方法、特に対位的手法のみをバッハへ帰れとばかりに使いまくる風情は勿論あるし、元々クリスチャンで古楽や宗教音楽に造詣の深かったゆえにドビュッシーの影響を待たずとも既に教会旋法の流用は多数見られた、ところに尚更非西欧的な瞑想的な響が加わり、このあたり前後の作品は楽団も小編成に留められいっそうブリティッシュ・アルカイズムといった感じが強くなっている。いっぽうで前記の「ロマン」というものは流麗な旋律の中に多くも無くしつこくも無く、でもしっかり盛り込まれており、ここを強調させすぎずかといってさらっと流さないように如何に表現し切るか、普通に流してやっても名技性だけでそれなりに聞けてしまう完成度のある曲だとしても、(じっさい短いが)小曲風情に纏まってしまい「もっと表現の広げ方はあったろうに」と残念な気持ちを残してしまう、メニューヒンが避けようとしたのはそういった理に落ちることだったのだ。はっきり伸び縮みはしないがギリギリそこを追求しようとした感じはある。ボールトはまったく重心の低く落ち着いた、かつ適切なテンポ感のもとにメニューヒンをサポートしている。技巧だけ聞ければいいや、RVWなんてそもそも興味惹かれない、なんて人には向かない演奏だろうが(RVWにしては明快スッキリ系なので寧ろそういう人には向く曲)RVWのウェットな薄明の世界が大好きな向きは惹かれると思う。緩徐楽章の平易な二楽章が印象に残る演奏というのは案外ない。そこがRVWの本質だというのに。これはそこがある。○。

オペラは長すぎ

いったいみなさんどのように鑑賞してるのですか!日常の多労諸事をかたわらになんでそんなに行き聞けるんですか!w


だいたい何年ドビュッシーのペレメリに悩まされてきてると思ってるんですか!仕事で日本モーツァルト協会の小編成版録画ビデオを見てからもう何年も、アンゲルブレシュトのINEDITS盤と格闘し続けているのに、いつも気がついたら朝の目覚ましですよ!


これは超名曲だしクロッシュ氏渾身の大作で、少しの隙もない!デジーはライヴではロマンチシズムを抑えずに没入してみせている。だいたいこの歌劇が同時代のオペラハウスや作曲家の机上に巻き起こした物凄い反響と影響は繊細なクロッシュ氏を精神的に追い詰め、しかし世界中の先進的作曲家たちはこぞって写譜を求め分析のかぎりをつくした。しかし瑣末な影響はあれど本質的に真似できるしろものではない、しつこいワンパターンな手法がなんで全然気にならないのだろうという不思議もある。多分フランス語を勉強しないと音だけでは何とも書きようもない。ペレメリはたくさん持ってるが一つも書かないのは、


やっぱり長すぎだ!

スーザ:星条旗よ永遠に

○ハンソン指揮イーストマン・フィルハーモニア(meircury)CD

個々の技量についてはイマイチで全般チープな香りが漂うことは否定しないが、ハンソンの厳しい締め上げでとてもまとまった構造的な演奏になっている。ただ楽しくブカブカやっているのではなく、内声部まできちんと演奏されており、更に非常に前進的で浮き立つようなリズムが心地いい。ハンソンの夥しい録音群は録音特性のこともあってやや小粒な感もあるが、これはそれでも「アメリカだなあ」と感心するくらい根っから板についた音楽でもあり、また正統なクラシカルな技術によってしっかり創り上げられた演奏でもあり、聞かせるものはある。総体は楽しげだが、個々の奏者はけっこうきつそうだなあ、とも思ったが聴くだけの人間には知ったことかというわけで○。

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

○コンドラシン指揮ミュンヘン・フィル(VIBRATO:CD-R)LIVE

モノラルでエアチェック状態は悪くないが録音は悪いというか遠く篭っている。ノイズもある。演奏は紛れも無く超即物的コンドラシンスタイルで冒頭からつんのめり気味の異様な速さである。軽快に聞こえかねないほどだが妙に粘り深刻なよりは聞きやすく個人的には好きだ。スケルツォはそれに比べれば普通のテンポ。水際立った音のキレとリズム感はコンドラシンらしい厳しくりっせられたものだ。ミュンヘンの一糸乱れぬ好演が光る。ソロに瑕疵はみられるがこの曲でこの厳しさでソロのこけない実演のほうが珍しいのである。アダージオはドライなコンドラシンにとって鬼門のように個人的には思う。わりと常識的な演奏に落ちる。美しく淋しく深刻なさまは描けるのだが例えばバンスタのような歌謡性や迫力がなく、ソヴィエトスタイルの典型的なやり方を踏襲しているがゆえに個性の印象が薄い。全体設計の中ではそれで充分なのかもしれないが。雄大に烈しい発音で始まるフィナーレはわりと落ち着いたテンポから徐々にアッチェルしてゆきヴァイオリンがばらけだして激烈な最初の頂点にいたる。強制された歓喜それ自体より直後の太鼓の破滅の乱打が深刻で印象的だ。念を押すような珍しいテンポルバートがコンドラシンの言いたいことを音楽で示している。わりと普通の緩徐部から再現部は徐々に徐々に注意深く表現を荒げていく。少し注意深すぎるような気もするがじつに大きな造形だ。コーダは二度テンポを上げることなく雄大に壮麗な勝利の凱歌をあげる。設計がすばらしく上手い。ブラヴォもむべなるかな。初心者向きではないが古典好きにもアピールするであろうロマンに流されないしっかりした構造の演奏。○。

マーラー:交響曲第6番

○マリス・ヤンソンス指揮RCO(RCO)2005/8/22・9/7,8・CD

まー実演でこんなに隅々まで聞こえるわけはないのだが、ぼーっと聞いているとさらっとするする聞けるのに、譜面を意識して聞くとかなりアクの強さも感じさせる演奏だ。比較的ニュートラルで弦楽器は非力といってもいいこのオケで、充実した聴感を与えるには異常なほどのテンポのメリハリや細かいフレージングへの配慮にオーケストラ総体として広く響かせる解釈の絶妙と統率力の強さがあり、またとくに静かなパセージの恍惚的なテンポの丁寧な表現には、音の透明感と崩壊しかねないほどの感情の起伏の絶妙な(計算された)バランスが聴かれ秀逸だ。あくまで現代の覚めた演奏でいながら、かなりの深い呼吸ぶりが必ずどこかの声部に感じられる。両端楽章の聞き易さと面白み、ライヴ感には当代随一のものがある。一楽章提示部の繰り返しには少し辟易するが、鋭い切っ先のリズム刻みがグダグダになることから救っている。アンダンテはロマンチシズム溢れるものだが、マリスのマーラーは基本的に明るいので(スケルツォからフィナーレの中では角笛交響曲の牧歌を思わせるほどに安らかな緩徐部も聴かれる)さほど引っ掛かりはない。優しい。実演はここまで綺麗に聞こえるものではなくかなり操作されているが、何か一枚だけ、新しい録音で、と聞かれたときに差し出すには適した好演。○。

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カウエル:マノノーンの潮流


○バーン(P)(ACTA)CD

やや起伏がデジタルで、雰囲気のうつろいやクライマックスの作りかたが生硬すぎるか。若書きゆえスコアが単純生硬というのもあるが、ゴーン、ゴーンと渦巻く運命の潮流を低音のクラスターが演出し、右手は感傷をもはらむ力強い民謡ふう旋律をきざむという極めて理に落ちた構造を、全体としてどういった流れの中に起伏を作っていくか、「視覚的効果のない音盤という世界で勝負するなら」周到に考え、録音操作も加えること辞さずに造り込んで欲しかった。○。

カウエル:ダイナミック・モーション

○バーン(P)(ACTA)CD

これは明瞭にカウエルらしい抽象的前衛作品で、ブレークビートな断裂する音線に、クラスターも装飾的に添えられるのではなくはっきり部品としての機能を果たしている。ピアニストもスタンスをはっきりさせやすいからかのっている。ただ、少し詰めが甘いか、曲も演奏も。

カウエル:富士山の雪

○バーン(P)(ACTA)CD

どうも日本というより東洋趣味といった風情で、冒頭からひたすら繰り返される旋律も、こういう衝突するハーモニー(あきらかにドビュッシーの「金魚」などに似せている)をひたすら重ねられると、日本ふうの単純さより中国ふうの豪華さをもって聞こえる。少し浅い。○。

カウエル:虎

バーン(P)(ACTA)CD

見た目そのまま描写というアイヴズのやり方に似せながらも、思わず抽象化してしまいわかりやすい音楽のほうへ寄せてしまうがゆえに、どこか暴力にも甘さが感じられる。東洋旋法やハーモニーもこの西欧的で生硬な演奏スタイルだと今一つよくわからない。結果としてクラスター的音響もスクリアビン後期のやり方のシミュライゼーションに聞こえてしまう。カウエルはかなり先人の作風を取り入れてくる作家ゆえ恐らく間違った指摘ではなかろうが。無印。

カウエル:妖精の答

○バーン(P)(ACTA)CD

サティ的に単純化したドビュッシーの前奏曲ふうの断章に内部奏法による掻痒なハープ式装飾が美しく色を添える。この時代にありがちな極めてフランス的な夜のアルカイズムがそのままシミュライズされており「これ、何だっけ?・・・」と頭を悩まされることうけあいだが、単純な美感はなかなか独特の粋を感じさせてよい。短いことが効を奏している。演奏はややぎごちなく、パセージ途中の間髪なき内部奏法導入の難しさを感じさせる。二人でやればスムースかもしれない。曲は単純に綺麗で内部奏法にも山っ気がなく素晴らしい。○。

カウエル:オンガク

○ホイットニー指揮ルイスヴィル管弦楽団(FE)1958/4/20・CD

カウエルは意欲的に他国の音楽にも取材し多彩な楽曲を書いた。日本に取材したものもいくつかある。これはガガクとサンキョクからなる組曲だが、「まんま」である。三曲のほうはいくぶん西欧的なオーケストレイションにより20世紀前半にイギリスあたりによく聞かれた民謡編曲音楽(ま似てますからね)に現代の映画音楽風味をふんだんに盛り込んだかんじで、雅楽風の笛による繊細でのっぺりしたハーモニーに、アメリカらしいペットソロが乗ったりするところはなかなか凡百作曲家にできない絶妙さをもってくる。日本の作曲家に多かった感じもあるが、とにかく西欧置換が上手いので、下品にならない。気持ちがいい。雅楽のほうこそまさに「まんま」だが、三曲はRVWの哲学性にも通じる。かなり日寄った作品とも言えるが縁深いオケの、多少粗くもよく掴んだ演奏ぶりがいい方向に働き秀逸。カウエルはアメリカ前衛主義の創始者としてかなり左寄りに置かれているが、アイヴズより余程感傷的なロマンチシズムと音楽的合理性を持ち合わせたプロフェッショナルである。日本人が聞いても○。

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ハチャトゥリアン:交響曲第2番

○作曲家指揮ナショナル・フィル(COLOSSEUM)1953初版・LP


カッコいいなあー。でもロシアオケには違いないんだが正体不明だ。録音のクリアさのせいもあるが美しい透明感ある音で、ホルンあたりはイギリスオケみたいに聞こえる。アクが際立ってこないのですっきり聞き通せる。最初のドゥワージャージャージャージャーンから好悪をわかつロシアンバーバリズムだが所々に繊細な響きがあらわれ様々な同時代作品・・・ショスタコだけではなくプロコをもっとあく抜きしたような平明な表現からRVWの交響曲やホルストを彷彿とさせる清澄な響きの連続、20世紀交響曲好きにはわくわくさせられるような感じがある。いろいろな表情が万華鏡のように現れ人好きするものばかりではないが(随分とわかりやすいほうだが)三楽章の怒りの日の変容あたりからシベリウスをモダナイズしたような才気溢れるフィナーレの壮麗な盛り上がりにいたるまでの見事な大作ぶりったらない。指揮がまた引き締まって上手いのである。むろん弛緩はなくもないがオケの気合いはそうとうなもの。盤面が死んでいるので最高評価はやめておくがまずもって飽きない見事な大作なので、ミャスコフスキーに手を伸ばすならまずこちらから聞きましょう。○。
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