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ラヴェル:ボレロ

○デルヴォー指揮ハンブルグ・フィル(EURODISC)LP

不断のテンポに違和感はないのだが、音の切り方がすべてスパッと切り詰めすぎいささか堅苦しい。デルヴォにしては率直な演奏だがいくつか違和感ある表現もあり、ロマンティックというよりは人工的だ。オケのドイツぽさが露骨に出ているため重く、遊びに欠けるようにも聞こえる。やや技術的問題もはらむ。全般ボレロはこうやるべきというものにわりと忠実だが、反面面白みを失ったか。カタルシスいまいち。録音良好。広く見て○にはすべきか。
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ミヨー:プロテー組曲

○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP

エキゾチックでもかっこいい出だしから、平易という意味ではなく、大人が非常に聴きやすい娯楽的なミヨー節が展開。ルーセルのように力強いリズム表現にメカニカルな構造のかっこよさはミヨーの南米ふう作品の中でも極めてよく作られており魅力的なものだ。力溢れる演奏ぶりは楽しむのに十二分なもので古いものとしては音響的にも不足はない。ステレオ的な音場の広がりもいい。古い録音がメリットになるのは難しいフレーズや調性が崩れる細部がほどよく「ぼやかされて」聞こえ、耳易いところだけに集中できるところだが、演奏自体もミュンシュ的にわかりやすい音を選んで強調しているようにも感じた。イキのいい楽しい曲に演奏であるから楽しみましょう。録音マイナスで○。

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コレクターの憂鬱


タワレコ記事に追記したのだが今のサイト構成だとトップでは追記部分が隠れて見えないせいかまったく読まれていないらしいw

まーどうでもいいんですが、たかだか20年近くのクラヲタ生活(ヴァイオリン演奏という部分はちっと長いんですが)の中でそれでも、けっこういろいろとあったことを、ここのところ断続的に回想しているのは「カテゴリ:weblog」を読んでいる奇特なかたにはおわかりのことでしょう。タワレコ記事につけた追記はいわゆる「CDコレクター」の黄昏を自虐的に書いたんですが、ここでコレクターというものの究極の姿を非常に鮮やかに提示してくれた著名な日本美術愛好家のコレクション展覧会についてちょっとだけ。絵画についてはいくらでも書きたいことやらなんやらあるんですが、「しろうと評論は音楽だけで結構」という個人的な思いもありまして、SNSなどいろいろなところに散記してるわけです。

伊藤若冲の装飾的絵画については、アメリカ人コレクターのプライス氏が見出し日本は逆輸入のような形で紹介を受け、宮内庁所蔵品の修復後大規模な展覧会が開かれるにいたって一般的にも認知度が上がったものである。きっかけであるプライスコレクションが日本で!・・・「マニア」ならまず唖然とし手放しで喜ぶべきことだった。何せ鳥獣花木図屏風が来るのだ。前衛的な手法を駆使した若冲の「マニアック絵画」の中でもとっぴな「モザイク画」であり、色彩的にもまるでペンキのようなハデハデしい色づかいでアメリカ人受けしそうなものだ・・・しかしこの青々しく赤々しい色はあきらかに仏画の(しかも恐らく中国仏教の)色彩である。終生仏法に身をゆだねた若冲の、「釈迦涅槃図」における鳥獣表現だけを抜き出し、極楽を極限的に描いたたものと見るべきだろう。周囲の柄が渡来の仏画装具を真似ていることからもこの出自不明な屏風(入手者プライス氏自身によって初めて若冲と弟子によるものとほぼ認定されたものである)が「必ずしも全て独創の鬼才によるのではない」ことを示している。たぶん調べれば何か特異な経緯が見つかるのじゃないか、どこかの寺から。そしてもちろん身近であったろう西陣織など京織、刺繍のデジタルで艶やかな色彩感からの影響もあるだろう。いずれ道を外れているわけではなく、伝統から逸脱し奇天烈な発想をしただけの変人なんかではなかったのだ。

若冲は錦小路の野菜問屋の若旦那として生活に不自由することなくひたすら絵に打ち込んだ京絵師である。独自の絵画表現をストイックに追及したと書けばかっこいいが、今はなぜか「京の引きこもり絵師」などというヘンな頭文をつけて呼ばれる。生活のために描かなかった、描いても金をほとんど取らず、寺に喜捨した(たいていの若冲画の名品は寺に伝来するが、これは寺院に積極的に納めたせいである、もちろん無償で)。それは江戸浮世絵師なんかにしてみればべらぼうな若ダンさんの道楽と言うことになろうが、狩野派などの伝統が身近に脈々と受け継がれてきている京都という町の特異性を考えると、そういった「古い伝統技法」に対する鬱屈した気持ちが他の土地より醸造されやすかったのは確かだ。後に出てくる江戸浮世絵全盛期の北斎らに先んじた前衛性に傾いたのもそういった「反動的前進性」のなせるわざだったのだと思う。手法的限界を感じるとすぐ他の方法技法を探り探し、何も絵師に頼らず縁深い万福寺あたりの黄檗寺院に入り浸って渡来画を模写したりを繰り返し、しかしその過程で得た技術的素地はそうとうに広く深かったから、遂に「凡才は画家に学び、天才は自然に学ぶ」というダ・ヴィンチの言葉どおり、「自然観察」即ち実物をひたすら見つめ続けることによって真髄を見抜くという極意を得たときに、一気に絹地上に「展開する」ことができるようになったというのは、その長年の逍遥研鑽のおかげである。「画材は揃っていた」。金持ちだから揃っていたというのではなく。

腕以上に目を鍛える。目を鍛えるのに数年縁側で鶏を見つめ続けたなんてのも禅宗の修行にも似た日本人伝統のストイシズムなわけで・・・もちろん武士道的な意味でのストイシズムだけではない、寝転んでもぼーっとしてても、見た目だけのことだ・・・それを今ふうに「引きこもり」と言うのは酷い。たとえば虎の実物が見られないから絵もしくは毛皮を見て描いた、というふうな言い訳をいちいち残したのも、誰かに「翻訳」された、既存の工芸的技術によることなく、実物を自分の目で見ることに拘った完成期後の若冲の考え方を如実にあらわしている。即ち若冲は外面的生活だけを見るなら「引きこもりのオタク」なのかもしれないが、そこまでしないとあんな独自の世界は生み出せない。物事を納得いくまでやりつくすには「全てを犠牲にする必要があるのだ」。それをオタクと断じてしまったなら浅はかの極みだ。それを言ったら画家なんてみんな「引きこもりのオタク」である・・・この論は他の芸術にもそっくりそのまま当てはまるのだが・・・。物凄く貪欲に絵だけにまい進した作家であり、そのストイシズムだけに感動すればいい。ヘンな先入観に左右されず。

貪欲に細密で見事な鳥獣草木画ばかりが取り沙汰されるが、一筆で描きぬく画力に表現力は後年得られたものだろう。絢爛な装飾画に没頭するかたわら墨画という「引き算の絵画」で更に純粋にそのわざの特異さを表現していった。私はそこに惹かれていた。どこかに書いたかもしれないが、晩年をすごした伏見の小さなお寺石峰寺を訪ねたとき、「若冲らかん」が目的だった。確かこの五百羅漢のことは土曜夜のテレ東の番組にも取り上げられていたと思うが、若冲が石屋に自分の下絵を見せて竹やぶの中に石像を林立させた。最晩年の「伏見人形図」をご存知だろうか。あのタッチの非常に奇異でプリミティブな「羅漢」が、まるで筍のように生えているのである。姉妹サイトに確かいくつか写真をのっけていると思う。これはもう見ものだった。絢爛な彩色絵に私は余り興味がない。若冲がその技量と筆力をどのように「昇華」させていき、どういう境地にいたったのかがそこにある。羅漢の脇に若冲は眠る。寺は静まりかえったまま誰も来なかった。今はいくぶん人が来ているだろう。

こんかいの展覧会は若冲にこだわらず、氏の「いいとおもったものだけを」「いいとおもった見せ方で」紹介するという趣向で、ネームの大小は殆ど問題にされていない。出来不出来ですらも「好き嫌い」の観点で不思議な評価の別け方をされている。まさにコレクターはこうでなくてはだ。すがすがしい。好き嫌いにも絶対に理由があり、プライス氏ほどの鑑識眼になるとそこに何らかの区分けする「意味」はあるのだ。子供向けのコーナーがひっそりと別に設けられていたがこれがまた素晴らしかった。絵画への冒涜?笑止。絵画は結局見る人のためにあるのだ。買う人のために値段がつけられ画家の生活が成り立つのでもあり、まあ若冲みたいなのは金じゃないのかもしれないけれども、たかだか千数百円出してあれこれ難癖つける輩よりはよほど肝が座っている。可笑しかったのは紹介札のトーンがあきらかに美術史的・研究史的立場から評価してかかれているところだった(プライス氏にとっては余り意味のないこと)。「プライス氏」そのものの、常識に囚われない一種アートプロデューサーとしての「コレクター道」を紹介するという点で、非常に好企画だったわけだ。「ポリシーあってのコレクター活動は一つのアート活動になりうるのだ」ということをほんとはここでテーマとして書きたかったのだがなんか道がそれまくったので適当にこのへんで終わらせるが、プライス氏独特の「絵画鑑賞法」を示し訪問者に強い印象をのこした後半展示、これから巡回する地方のかたは注目してみていただきたい。芦雪がよかったという声も多かったが私は若冲を除けば無銘の作のいくつかに惹かれたなあ。

ちなみに浮世絵なんかを趣味に見る人には常識だし、よそに書いた絵金なんか幕末町絵師の世俗芝居絵屏風には特に見事に細工されていたりするが、紙に光りものを織り込んだり特殊な刷り方をしたり特殊な絵の具を調合使用したり紙そのものに細工したり特殊な描き方で特定の状況にのみ見えてくるような図像を織り込んだりと、西欧的な常識にとらわれない「臨場感やオドロキを演出するためのマニアックな技巧」が数々取り込まれているのが江戸絵画である。幽霊画によく表装をはみ出したり光の具合で血跡が浮き出たりなどといったものがあるが(このての細工は絵に限らないけど・・・そもそも芝居の演出とかもそうだったし)光の具合、見る状況などなど、それぞれによって見え方が違うのは江戸絵の醍醐味、王道なのであり、プライス氏に紹介されてやっと気が付くのはドウモ日本人としてどうかなあ。エルミタージュ行くなら大原行け、なんてね。ボストンでもいいけど。

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マーラー:交響曲第5番

○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R)1996/9/13live

最晩年様式という言い方をこの人にも使うことになってしまうとは。結局体を悪くしたり老齢にさしかかったりすると人間誰しもテンポ感が極端に遅く雄大になり「クレンペラー型」造形を指向するようになってしまうものか。そのうえでチェリやスヴェトラはあきらかに神経質なほど響きを研ぎ澄ます方向に向かっており、スヴェトラはその「作られたイメージ」がゆえに余り言われないが、マーラーのような大曲においてはきわめて繊細精緻で合理的な音響を求めるようになる。この演奏でも3楽章くらいまでの間で時々放送ライヴ(のエアチェック)とは思えないほど、厳しく音響バランスの整えられた(機械のように)隙無く正しい音響が形作られるさまを感じることができる。スヴェトラには元々スコア分析を主とした客観性へのケはあり技術的問題への認識も強く、決してその場その場のノリにまかせたロマンチック没入型の爆演指揮者ではないのだが(そのたぐいの実演や録音ばかりが西側で取り沙汰されただけで)、この遅く踏みしめるような足取りの演奏は客観にすぎ、興をそぐ部分も少なからずある。語り口のビミョウな巧さで辛うじてそのバランスを保っている。人によっては哲学的とみる人もいるだろう。だが終楽章はまるで小クレンペラーのような趣さえあった(オケが非常に優秀な北欧オケであるがゆえにイギリスオケの甘さがないぶんはメリットとして聴ける)。フランス盤でまとめられた全集(後日廉価ロシア盤化)で6番など僅かなものを除けば莫大演奏が多いという様相から繋がった解釈ぶりといえる。じっさいこの演奏は特徴といえばオケの違いくらいで、録音はいいとはいえ放送ライヴのエアチェックで電子的な雑音もあり、ならばちゃんと正規をきくべきだとは思う。ロシアオケのクセや弱体化が気になる向きには薦められるが(このようなソヴィエト傀儡国家ではない国のヨーロッパオケを振ったものは、私などは今はロシアの手兵オケを使った余りにクセのある全体の演奏ぶりよりもしっくりくる。スヴェトラという人が実は西欧的な機能性と怜悧な音を持った「アンサンブルオケ」を求めていたのではないかと思うくらい、「現代の巨匠」たちの客観的なスタンスとの類似性を感じるのだ)、あと、スヴェトラマニアには薦められるが、ここはしかし、実際じわじわと拍手が広がりブラヴォの渦になるという部分で「あー実演と録音の違いだな」くらいの印象を見識としていただく程度で、取り立ててこれを聴く必要もあるまい。確かに長く聴けばこの演奏様式に独特の見識を見出し面白く聞くこともできるので○にはしておく。大見得なんて切らないよ。

マーラー:交響曲10番<クック補筆完成版>

○ギーレン指揮SWR交響楽団(HANSSLER)CD

さすがマーラー指揮者と思った。やはり万能型指揮者やよその畑の人のマーラーとはどこか違う。ツボを押さえている。裏返して言えばそれほど外れたことをやっているわけではない。ただ、アゴーギグなんかに独特のきつさというか、硬質のコントラストが見られるというかんじで、全般的には寧ろ客観的に整えた現代の演奏という感じも強い。但し、ギーレンにしてはいくぶん人工的であるものの没入した演奏という感じもする。とにかくこなれており、録音のクリアさゆえに薄味に感じられるものの、確かにマーラーであり、確かにクックである。中間楽章のダイナミズムはなかなかに巧い。○は十分つけられます。

米タワーレコード破産

20日付でやっぱり破産だそうです。日本のタワレコは独立しているとはいえ対岸の火事じゃないかもしれないですね。ネット配信の追撃がそこまできているということです。

<追記>
寧ろネット通販とディスカウントショップに負けた、という見方が強いそうです。DLビジネスはいくらUSでもCD屋を潰すまでの勢いではないそうで(違法コピーは別)、具体的にはアマゾンの品揃えとウォルマートの値段に負けた、という感じだそうで。

前者はロングテール的にしか存在しないクラシックCDのコアバイヤーにとってみれば既に常識、後者はレコード屋にとってのドル箱ともいえるイキのいい「大衆音楽」分野の新商品を根こそぎかっさらうものとして台頭とあって、双方をカバーすることをリアル店舗展開を前提に据えてきたタワレコにとってみればやむない時代の流れかもしれない。小規模ショップを根絶やしにしてきた代償だろう。クラシック音盤のコアバイヤーにとってレーベル自身が大手決済システムを使いネット通販を始めるなどといった世情において、中間マージンを取りしかも大して早くもない(下手すると在庫確保もままならない)旧来の店に魅力は無い。店頭で比較確認購買するなどといった行為も、大手ショップのサイトで商品をしっかり比較確認したあと直接供給元から自分で取り寄せできるようになったとあっては、店頭に立つ若い店員の付け焼刃知識や誤情報に振り回されることなく、自分の欲しい物だけを効率的に取り寄せられるという状況にあるわけで、大して意味も無い。

初心者向けには優しいといっても、初心者とマニアの間の溝は余りに大きい。使う金額がまず桁違いに違うから、今の「ブーム」だけではマニアの散財ぶんを補うには力不足である。

そういったことで、日本もまったく例外ではないけれども、ディスカウントショップは、そもそも音盤という品物が規制に保護されていることもあってか、それほど台頭してきていない(一時期ディスカウントショップで新譜CDの安売りがなされていたが、そもそもCD市場全体の伸び悩みが専門店ではない薄利多売ショップの撤退を余儀なくさせたように見える)。とはいえこちらのほうが元々市場が大きく儲かるし供給力の強さ速さという点でDL型ショップの影響を直接受けやすい分野であり、万能型ディスカウントショップは撤退しても、新たな巨大なバーチャルDLショップが現れない保証は全く無い。タワレコに限って言えば横並びの挙句のダンピング競争になりかねないDLビジネスに手を出すなら店やめたほうがいい、という判断もあったのか。

「物質的所有欲の強さ」という点で名高い日本はUSほどDLビジネスが興隆するとも思えなかったが、現実には(安い早いうまいが取り得の「使い捨て音楽」の分野においてのみではあるが)デバイスやソフトウェアの普及によりかなり一般的になってきている。

そもそも所有欲を満たすような商品はニッチなコアユーザ向けのものであろうから、安売りDLサイトより今のところ品揃えで勝負しているネット通販のカバー範囲なのかもしれない。

CDという媒体が劣化する、という話も深刻だ。こちらは「所有欲を満たすものとしての」適格性に対する疑問を提示する。正直この事実はダメージが大きい。アナログのほうが版を選べば音は聴きやすく(良くなるかどうかは好み)、しかも傷ついても「CDのように完全に聞けなくなることはない」という点で信用できるという評価を個人的にも下さざるを得なくなっている。pearlや今は無きKOCHといった貴重な復刻音源を提示してきたCDレーベルに、かなりの確率で劣化盤が発生するという事実には大いに失望させられてきた。元々悪質なイタリア盤やCD-Rなどの海賊盤には仕方ない面もあるが(初期ストラディヴァリウスなどは最初から劣化していたようなものさえある)、pearlは今でも活動している老舗CDレーベルであり、今後もこのレーベルではそういった劣化する盤が供給されるかもしれないという意識が購買意欲減退を促している。購買した盤のコピーを念のためとっておく、といったことも必要であるとしたらそもそも手軽に高音質で聞けるというCDそのものの価値が無くなる。

手軽さ持ち運びの利便性という点ではHDDなどに直接落とし込めるDL供給に負ける可能性も高い。コピーできないという点はDLの難点でもあるが、CDでもコピーコントロールなど「そもそもの価値を貶めるような手段」が根強く残ったらそれは一緒のことである。まして更なるデバイスの大容量化が起こったら「そもそもデバイスを恒久的音盤とみなす」ことすら可能になるから、CDである必要もなくなる。もちろんCDにはジャケットデザインや解説などの「オマケ」の魅力もあるが、それすらデータで取得可能になれば大した問題ではない。そういったものをコレクションするならビジュアル的なインパクトも「格調」も高いアナログへの回帰の可能性もある。

超高速大容量化の波が通信手段と融合したポータブルミュージックデバイスにまで到達したら、一曲の長さが極端に長いという点でDLでの供給に難のあったクラシック分野にも一気に変革が訪れるだろう。今後ロングテール向けのネット配信が台頭してこない保証は無い。デバイスやソフトウェアに左右されない供給方法の標準化及び簡略化がなされたら、手軽なDLによる取得手段に雪崩れ込むのは時間の問題だろう・・・アマゾンのように。

いずれCDもDVDも古い媒体になるかもしれない。CDコレクターという存在自体が、特に神経質な音楽分野であるクラシック音楽において無くなっていくことさえありうるのではないか、と思うのだ。

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レスピーギ:ローマの松

○サッカーニ指揮ブダペスト・フィル(Bud.PO)CD

響きの重心が低いことと金属質な透明感、テンポが比較的落ち着いていることから客観性を感じる。しかし旋律のカンタービレ、特に三楽章、かなり情緒的な揺らぎが聴かれて面白い。陶酔的な表現はこの曲の録音盤では珍しいほうだろう。音色はこの曲向きではないように思えるが全体のバランスのいいオケなので聞きごたえはあり、四楽章など「パシフィック231」かとききまごう重厚さが面白い。迫力がある。音域が高くなると開放的で派手な吹かせかたをするのはイタリアぽいがやや雑味を呼ぶ。○。

ヴェルディ:弦楽四重奏曲


○レニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(MELODIYA)LP

これが古風ではあるがなかなか面白い曲なのである。1873年の作品でアイーダの後くらいか。冒頭主題からして、ちょっと歌謡曲チックではあるもののリズムの刻み方や理知的な構造の面白さでおっと思わせ、すぐにフーガなどが巧みに織り込まれた見事な構造的アンサンブルが繰り広げられる。のちのタネーエフ弦楽四重奏団はこれまた見事に歌謡曲にせずに純音楽的な演奏を繰り広げており、高潔さすら漂う。技術的部分以外でローカリズムの発露が無いからイタリアオペラの大家の趣すら無いのが逆に面白い。時代的にいえばかなり挑戦的な作風でもあり、個人的にロマン派バリバリの曲は余り好きではないのだが、それでもその一種前衛的な部分に惹かれて全曲聴きとおしてしまった。曲全体としては確かに中期ロマン派のベートーヴェン影響下にあると言えるもので名作と断言することには躊躇があるし、演奏者も特異な表現をとっているわけではないので最大評価にはしないが、好きな人はすきだろうなあ。

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ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」


○レニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(MELODIYA)LP

タネーエフ弦楽四重奏団の旧称。しかしこれは巧い!曲が冗長なので正攻法では正直飽きる部分もあるのだが、テクニック的にもまとまり的にも、ロシア流儀ではあるが音色的にも国民楽派の器楽曲として素晴らしいものを見せている。奇をてらったところのない表現はしかし最近の演奏にみられるような妙に透明感のある無味乾燥あるいは常套的な穴には堕ちていない。これはやはり隙の無い音色表現に尽きるといってもいい。細かいヴィブラートがえもいわれぬ味をはなっている。個人的に◎でもいいとは思うのだが、理由は余りはっきりとはしないのだが少なからず飽きてしまう部分があったので○にしておく。奇をてらわないのが仇?

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ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」より四つの海の間奏曲

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc,img)1966/11/26live・CD

アングロサクソンってこういう響きが好きだよなあ。いかにもブリテンらしいテイストの、わかりやすい音楽でそれほど描写的でもない。むしろ娯楽的な世俗音楽のテイストを感じる。どちらかといえば吹奏楽器に重きが置かれているが細かい音符を刻む弦楽器があってはじめてのいかにもイギリスといった音楽になる。即ちフランス印象派などとは違った「薄さ」と「即物性」がある。この演奏は輪郭がくっきりとしてわかりやすい。録音がやや弱いが一つ一つの声部が際立っている。四つの海の形象が抽象化された音楽の中で、いっそう抽象化を進めた純音楽的な指向が感じられる。リアルだ。○。

チャイコフスキー:交響曲第2番

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(BBC、IMG)1966/11/12放送LIVE・CD

愉悦感に満ちた楽しい演奏で、手堅くも緊張感にあふれこのまとまりにくい「国民楽派のチャイコフスキー」の代表作をローカルな野暮さから救っている。踊りの音楽だ、深刻さなどたいしていらない。響きの軽さはオケの特性でもあり、四楽章の軽やかさ(アゴーギグのきつさはある。派手な箇所は強烈)に違和感のある向きもあろう。リズム感はいいがテンポがやや「ユルい」と私も思う。旋律の叙情性のほうを重くとったのだろう。録音は正規と思えぬほど悪い。放送雑音のような音が終始ジリジリキンキンと聞こえている。モノラル。

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シベリウス:交響曲第7番


○ガラグリ指揮ドレスデン・フィル(BERLIN CLASSICS/ETERNA)CD

重厚でワグナーのような響きにガラグリの晩期シベリウスの評判が悪いこともわかる気がする。この繊細な曲にじつにそぐわない無骨さが特徴的な演奏だが、思ったより悪くないのだ。ようは1、2番をさばくやり方で7番をやっているのである。弦楽器の奏法からまるきり変えて挑んだバルビが目を円くするような、一本気な野武士のやり方なのである。だから、晩期のシベリウスがわかりにくい向きは、多少の荒さはあるにせよロマン派的にわかりやすい解釈には馴染める要素はあるのだ。私も大変純粋な未来指向の音響と精密な構造をもった曲だとは思うが好き好んで聞くのは初期二交響曲だからして、まったく違う曲と認識すれば間違いなく楽しめるのだ。響きに軽さはなくとも、不協和音は十分な長さと、明確な遷移をもってしっかり認識できるからこちらも面白い。まあ正統ではなく変なやり方ではあるが昔よくあったスタイルをも彷彿とさせる点でも懐かしい。○にさせて下さい。

マーラー:交響曲第6番


○マリス・ヤンソンス指揮RCO(KARNA/ELS:CD-R)2005/8/29live

これが意外なほど良い。解釈等他と全く同じで、あとは些細なミスや録音状態の違いということになってくるわけだが、左右反転しているし、明瞭に確認できるソロのミスも4楽章にあり、決して最上級ではないのだけれども、「聴きやすい」のだ。不要にクリアなリマスタリングのかけられない素直であるがゆえに生々しい音、そう、ライヴとはこういうものだ。継ぎ接ぎして綺麗にしたてたものはライヴとは言えない。ぎくしゃくするところもあるし、物凄く激情的というわけでもないが、マリス氏の唸り声を聴きながら圧倒的な迫力をもって迫るRCO(録音のせいだろうがすこぶる「良い」)に心揺り動かされる。ロマンティックであり、ベトベトではないがガツガツとは来る。ああ、もうどう言ったらいいのだろうか。○。EnLarmesの録音月表記は間違い。

ブルックナー:交響曲第7番


○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(kapellmeister:CD-R/MEMORIES)1958/2/8live・CD

終楽章が短い・・・はいいとして、案外まともなのはブルックナー7番がこういう風にしか演奏しようがないからなのか、ベートーヴェン指揮者としても知られていたミュンシュの元々のドイツ的な性向に基づくものなのか。録音は言わずと知れた状態ではあるが、クーセヴィツキーのブルックナーあたりを想起させるボストンの中欧風の響きがしっかり前進的で集中力の高い演奏ぶりとあいまって、純粋にロマン派交響曲の小名品を聴いているような感覚を与えられる。すがすがしくさえあるのは単に7番だからか。今の私はブルックナー、バルトーク、ベルリオーズが苦手なかんじなのだが、これは途中飽きながらも力強い音楽作りによって最後まで聞きとおすことができた。そんなにヘンな演奏じゃないです、まとも。○。

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アイヴズ:答えのない質問


△カラヤン指揮ロス・フィル(KAPELLMEISTER:CD-R/Pristine)1959/7/2ハリウッドボウル放送LIVE

素朴な演奏ぶり。もちろんほとんどの悪印象は録音やオケのせいというところだが、正直カラヤン自身もこれをどう演じたらいいのか皆目見当がつかなかったのではないか。のちの犬猿バンスタがオハコとした因縁もさることながらこれは表現者が積極的に解釈して、自分の作品として表現することを求めるアイヴズ作品のたしかに特異な一面を体言した曲でもある。バンスタは「作曲家」として入り込み易かったということもあるだろう。文学的内容をきちんと理解して、最後まで問い掛けを続けるペットと、不毛な議論を繰り返し仕舞いにほうり出して消えてしまう木管たち、それら卑俗のものの背後の自然界を超越的に彩る弦のコラール、この三者を独立した三部の音群として並列させないと、下手に論理的にリズムから交通整理しようものならぶかっこうな珍曲と化してしまう。それでもわかりやすい構造だからバンスタのような単純化も可能であるのに、カラヤンは何かぶっきらぼうに即物的に音を出させているだけでやる気もなく、聞く人々の反応も悪い。ここまで理解されないまま演奏されたアイヴズは珍しい。Pristine(PRSC)で全プログラムをweb配信販売中。

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ショスタコーヴィチ:交響曲第4番


○コンドラシン指揮ドレスデン・シュタッツカペッレ(PROFIL)1963放送LIVE・CD

話題盤である。抽象度の高いコンドラシンならではの演奏で、娯楽的要素はなく暗鬱とした細い音線が、ひたすら1時間近くつむがれてゆくさまは「タコヲタ」でないとなかなか入り込めないと思う。だいたいショスタコは各楽器を剥き出しにして数珠繋ぎで使用していくことが多く、ロシアの伝統もあろうが(恩人グラズノフがアバンギャルド以前の唯一の例外か)余り構造への意図的な配慮などはないので、スコアを見ながら精緻な響きを追っていかないと全容を掴みづらく、「本当の内容」を見かねてしまう。まあ、「本当の内容」なるものが本当に存在したのかどうか、今や一面的に決め付けることもできないが。この外様を使っての放送ライヴはモノラルではないと思うがほぼ残響をつけたモノラルに近い。ライヴではよくある類の舞台の遠い録音状態である。しかしそのためまとまって聴きやすく、細部は明瞭に聞こえるため(一部電子的雑音のようなものが入るが)難はなかろう。オケはロシア臭がしないぶんその録音状態とあいまって客観的評価が下せるような安定した音を出す。集中力もコンドラシンが時々はまるような即物的なものにはならず、マーラーのアダージオすら髣髴とさせる場面も少なからずある(もちろん元々そう書かれているのである)。ショスタコがフランス派の繊細な響きに接近しているということも改めて認識させる。そういった意味で見通しはよく、個人的にはロジェストのように表現のメリハリ、物語的な起承転結のはっきりしたもののほうが聴きやすいのだが、演奏的にこちらの純音楽的演奏をとる人もいようことは想像がつく。引き締まった演奏振りで、ロシアオケの雑然とした表現力に霍乱させられるという向きにはロシア盤よりこちらをお勧めする。○。正直個人的には余り強い印象はなかった。

マーラー:交響曲第10番<クック補筆完成版・決定稿>


◎マルティノン指揮ハーグ・フィル(RO/Disco Archivia:CD-R)1975/6/13ハーグ・オランダ音楽祭LIVE

名演というか独特の演奏である。すばらしい音「楽」ではある。全体にはよくまとまった筋肉質の演奏で、異常なほどの集中力と立体的な音楽作り、諸所の印象がマーラーでなかったとしても、純粋に「音楽」として充実した聴感が与えられる。特に中間楽章の激烈さと乖離性人格障害のダイレクトにあらわれる特異にごつごつとした終楽章には聴く者を唖然として惹きつけるものがある。録音は古いものとは比べ物にならないほど明晰でバランスのとれたステレオだ。ちゃんとした録音なのになぜハーグ・フィル(レジデンティ管)が未だCDでの再販に踏み切らないのか、マルティノンの人気が今ひとつなのか腑に落ちないが仕方ない(後註:CD-Rでは発売されているとのこと、但しリストはカットされている模様(いやそういう意味じゃなくて))。改めてデジタルな変化のついた非常にダイナミックで、かつきわめて分裂症的な演奏である。

シカゴのものとアプローチは変わらないが、終楽章冒頭のバスドラの残響の無い打撃には心臓が止まる、もうやめてくれと思うほど悪魔的な辛らつさが感じられ、スコアが進むにつれ決して一つのなめらかな解釈にまとまることなく、分節ごとに全く異なる感情をただガシガシとつぎ込んでくる。ともすると余りこなれていない解釈に聞こえ、これが決して正しいとは言わないが、少なくともバスドラの打撃と、雑然と聞こえるまでに「そのままの音響」を聞かせようという態度には感銘を受けた。ほんとに短く感じるほど飽きない演奏である。終楽章の淋しい旋律をもっと旋律として楽しみたい、というきらいは残ったが(旋律の途中でどんどん調性がおかしくなっていくところ(これこそマーラーの個性なのだが)が、そのまま旋律が奇怪に歪んでいくだけのものとして(まるで前衛音楽的に)感傷を込めず表現されていくところはザンデルリンクと対照的なもので好悪分かつだろう)、それでもこの即物的な演奏ぶりは特筆できる見識と考えることができよう。マルティノンの作曲家としてのスコアの読みはマーラーともクックともまた一線を画してしっかりした独自のものとなっている。マーラー指揮者ではないからこそできたものとも言えるだろう。マルティノンが新ウィーン楽派を振ったら面白かったろうなあ。◎。

マーラー好きにアピールするものというより、クックによるマーラー編曲といったものとして聴けば真価が確かめられるようなものだ。ハーグは巧かったんだ。これ(原盤LP)はレジデンティ管の自主制作で、一応正規に販売されたもののようだ(確認できるもののレーベル面にはサンプル表記が加えられているが、ネット通販でかつて正規のものとして販売されていた記憶がある)。マルティノンの追悼盤の扱いでリストのファウスト交響曲とのカップリングである。DAは放送音源でホワイトノイズや電気的雑音により音質は落ちる。ファウストもCD-R化された。

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ラヴェル:ボレロ


○ウォレンスタイン指揮ヴィルトーゾ・シンフォニー・オブ・ロンドン(AUDIO FIDELITY)CD

これがウォレンスタインの廉価盤にしては音がよく(ブラームスとか音の悪い盤もある)演奏は言わずもがなの引き締まった、激しさも併せ持つもので非常にいい。どこをどう、という批評はしづらい曲だが(ソリストの腕でどうこう言う声が多いのはそのせいでしょうね)この演奏はバランスがとれているというか、パリとか南欧とかアメリカとか、どっちに転ぶわけでもなく正しくこの曲のイメージを表現している、としか言いようが無い。初めての人にも薦められます。○。タワーがこのレーベルを長く売ってくれているおかげで、ウォレンスタインがルビンシュタインの伴奏指揮者というイメージから外れて評価されることを祈ります。このCDは長く品切れ状態だったが今は店頭に並んでいる。オケはLPOか。

シベリウス:カレリア組曲~行進曲


○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(aura,HMV/ermitage)1957/10/20アスコーナlive・CD

あからさまに気分を煽る国民楽派時代のシベリウスの代表的な曲で、組曲全体も素晴らしい。フィンランディアなどと同系統でけっこうよくアンコールなどでやられる。ドヴォルザーク晩年以上に「垢抜けた民族音楽」の冷たく洗練された響きと巧緻な構造を、単純な民族旋律連環の中に見出すことができる。もう弦楽器は大変なのだが(ワグナーやらブルックナーやらの伴奏音形の影響ですな)カッコイイので団員のやる気はすごい。ただオケ自体の特性が、このギッチリ揃ったアンサンブルを堅固な響きの上に展開するという中欧的な楽曲にあってないというか、弦楽器はっきりいって軽くてギッチリとは揃わないので、こうクリアにリマスタリングされると少し技術的問題を取り沙汰したくもなる。ビーチャムはシベリウス消費大国イギリスにおけるシベリウスの先鋒的権威だし、このスピードにドライヴ感は必須と思ってやってたんだろうけど、ちょっと煽りすぎて聴く側も緊張してしまう。○にしておくが最大評価にはならないという感じ。

シュヴァルツコップ死去

予感というのはたびたびあるものですが、記事を書いてまもなく亡くなられたというニュースを聞くのは悲しいですね。。

3日亡くなられたそうです。90歳。

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