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ボロディン:弦楽四重奏曲第1番

○ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団(MCA,westminster)1950・CD

ウィーンらしい音とアバウトなボウイングにアンサンブル、しかしテンションでまとめにかかるのがいかにも往古の演奏スタイルである。ただ、曲がちょっと渋いというか、チャイコに近い「ドイツ+国民楽派」のスタイルを堅持した長々しいものであるがために、このやり方だと飽きてきてしまう。テンションで聞きとおせるのだが、「ボロディンのワンパターン」を知ってしまうとあとは「いつ終わるんだこれ・・・」となってしまうものであるがゆえに、人によっては「なんでこんな曲を録音したんだろ」と思わせることもあるだろう。

ボロディンはそもそも構造の合理性、民族的なリズム、それに何より旋律である。1番においては独自の合理性に落ちていかない折衷的な中途半端さがあり、リズムもしゃっきりしないところもあるから、あとは旋律をいかに歌わせるかにかかってくるとなると、ウィーンの演奏スタイルはとてもあっている。黄金色の音がぐいぐいと旋律を引き立てる。ただ、ちょっと民族性という部分では特殊奏法の部分含めそれほどはっきりと浮き立ってこないのが難点か。○にしておく。
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ラヴェル:ラ・ヴァルス

○パレー指揮カーティス交響楽団(インスティテュート管弦楽団)(DA/vibrato:CD-R)1978/2/13live

鷹揚に起伏のついたパレーにしては異例の演奏。終盤こそそのままインテンポで突進するものの(低弦の最後のワルツ主題でもまったく揺れない)そこまではけっこうワルツしていて面白い。テンポがかなり遅くつけられており、オケへの配慮かと思うが、そのテンポを利用してうねることうねること。パレーの意図とも思えず、終演後拍手がパラパラなのにも(強引なブラヴォが叫ばれるが)けっしてこれが成功した演奏ではないことが伺えるが、しかし音盤としてこのエアチェック盤をきくかぎり(擬似ステレオに近い位相のおかしな録音ではあるが)ただただ突進するデトロイトのパレー「ではない」、緩徐部でのフランスの香気溢れるリリカルできらびやかな音表現も含め、とても透明感ある色彩が感じられて、これはこれでいいと思う。通常のパレーを求めるなら選ぶべきではないが、普通の人が聴いて楽しいと十分感じられる演奏だと思う。○。

ドビュッシー:弦楽四重奏曲

○パレナン四重奏団(EMI)1969/7・CD

テンポが「遅いほうへ」伸縮する独特のスタイルを持ち、2楽章などかなり生硬ではあるものの、ラヴェルに比べるとずいぶんと情緒的な音色の感じがするのは曲のせいか、師匠カルヴェの影響か、ファーストのヴィブラートのかけ方が甘い古いスタイルのせいもあろう。この団体は技術的に特にすぐれているわけではなく、旋律勝負なところのあるこの曲のようなものでは、ファーストの音が細く弱いのは難しいところだと思う(もちろん録音当時のことであるしデジタル化時に痩せてしまった可能性も高い)。情熱的な表現が苦手なのかもしれない、と思った。テンポが遅く感じるのは勿論演奏があるていど制御されたレコーディングとして行われているという点が大きいだろう、終楽章最後のプレストで異常にテンポアップするところを聞いてもけっして技術的に速いテンポをとれなかったわけではなかろう(最後のファーストの駆け上がりでクレッシェンドが足りないし、頂点で音が揺れすぎとは感じた)。情緒的演奏ではあるのだが客観的に情緒を演じているように感じさせてしまう。3楽章は印象的な沈潜の仕方をする。今ひとつ乗りきれなかったが、独特さを買って○。

ラヴェル:弦楽四重奏曲

○パレナン四重奏団(EMI)1969/7・CD

最近妙に評価が高まっている感のあるフランスの名カルテットだが、現代の演奏スタイルの先駆的な部分があり、遅いテンポできっちり音符を揃えていく、やはり手堅さを感じる。とくに中間二楽章はどうも客観的に整えすぎて音楽が流れていない。余裕があるのかといえば二楽章中間部後半(もしくは再現部)のピチカートアンサンブルは遅いテンポ設定にもかかわらず縦のずれそうな危なさを感じさせ、やや不調ぶりが伺える。音色にも余り魅力はなく、かといってヴィブラートには更に前の世代を思わせる艶もあり魅力がないわけではないのだが、デジタル音源化のせいだろうか、全編通じて音色という点からは殆ど耳を惹かれない。1楽章はしかしそれでも情緒纏綿なフレージングが丁寧に音楽の起伏をつけていてゆっくり浸れる要素はある。4楽章も依然楽譜に忠実であろうとする余り5拍子の刻みがしゃっちょこばって聞こえたり不自然な点もないわけでもないが、特徴的な解釈がみられ適度に激しそれなりの集中力も感じさせる。録音が余りよくない(ホワイトノイズが気になる)せいもあるが、全般に音楽が拡散傾向にあり、ラヴェルなりの緊密さがやや希薄な感じがした。両端楽章を評して○。

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私の手元にあるサティ書簡についての考察


ちゃんと訳してなかったので、ちゃんと訳してみた。ちょっと古かったり方言ぽかったりしてわからない部分はてきとうにしています。(ほんとはこの内容は別項に記事を載せていたのですが、間違って消してしまっていたらしいので改めて項をわけて書きます)。~

バレンタイン・グロス宛て

「水曜日」

親愛なる友よ、明日来てください。場所:オースティン氏のところ、12時に。

可能ですか?早くに警告することができなかった(&私は日曜日にあなたと会い話するのをあてにしているのです)。

友情を持っています。スターンと、あなた自身に;ES

~1916年のとある日の夕刻に届けられた簡易書簡で、やや慌てた感じで表面裏側の欄には差出人やあて先もかかれていない(表面表側にはあて先・住所あり)。パラードにまさに取り組んでいた時期で、コクトーと六人組界隈に接近する中で「白鳥」バレンタイン・グロス(ヴァランチーヌ・グロス)婦人との交流が持たれるようになったようだ。スターンは当時の彼女の婚約者。最後の謝辞は9月の書簡にも同じ言葉が見える。8月8日の15時12分の、別件と訣別しコクトーのパラードとの仕事に専念する報告の手紙では、彼女に絶大な信頼を寄せていた事が分る。オースティンがよくわからないが。パラードはこの時点で既にかなり進んでいたようだが、翌年までかかって苦労して作っていったようである。従ってこの書簡は最後まで交流の続いたグロス婦人と、もっとも熱く交流していたころの産物の一つといえるようだ。

とにかく3つ押された消印の読み方がわからない。8月8日と読めなくもないが、8 au 11もしくは8 au のみの消印,ということはau=atとして1916/11/8と読んでおく。8/8は火曜日、11/8は水曜日なのだ!

ヴァランティーヌには12/2に「日本人がコノと呼ぶ音楽」が大好きだという手紙を送っている。オリエンタルな曲導入を検討していく過程での話だ。コノは意味不明とされているが、パリのいいかげんな「発明」だったのか、琴のことなのかわからない(琴自体見た目ほど音は特徴的でもなかったはずだが)クレールの「幕間」回想に当時のシャンゼリゼ劇場につどう「お歴々」についての箇所がある。パラード後すぐにコクトーとは訣別し、更にコクトーのもとに徒党を組んでいる(サティは徒党を組んで世俗的に権威化することを極端に嫌い、ドビュッシーともそのあたりで訣別した経緯もあり、最後までついてきたソゲやデゾらにもサティ派ではなくアルクイユ派を名乗らせている)六人組界隈についても距離を置くようになった(ミヨーは別)。サティは、結局ディーアギレフより更に「新しい」ダダイストと組むようになってクレールとも仕事をすることになるのだが、「お歴々」の中に社交界の人々にくわえコクトーなどの名が連ねられる中、ツグジ・フジタの名も見られる。

この時代のパリ社交界ではオリエンタルな素材はアメリカ大衆文化同様既にかなり浸透してきており、パラードの時期には奇矯とみなされえたサーカス劇の中国音楽も、本日休演のころには大して攻撃力を発揮できなくなっていたのではないかと思った。だから音楽が一見同じでも意図する内容が対照的になったとも。早川雪洲などもアメリカからパリにわたって藤田と同列の「お歴々側」に入ったわけだが、もっともそれぞれ個人としてパリ社交界に受け容れられただけにすぎず、そもそもオリエンタルな人物ともされていなかった(個人の個性であった)可能性もある。

ファリャ:三角帽子第二組曲

○マルケヴィッチ指揮日本フィル(PLATZ)1970/6/3新宿厚生年金会館live

相変わらず重い音だがそれがかえって破天荒さをかもし非常に派手な演奏に仕上がっている。ちょっと太鼓の音が大きく入りすぎにしてもマルケがこういう音楽をやるというのは寧ろ意外であって、オケがよほどドイツ的だったんだなあ、とか、こう整えるより他なかったのか、といったことを考えさせられる。マルケにしては音の整え方の「雑さ」は否めないが、それが臨場感を呼び、まるでロシア指揮者といった感じの最後のタメにしても(こんなにタメなくても・・・)感情的には非常に動かされるものがあった。この曲はやっぱり小さくまとめてしまうとつまらない。派手にやる、とことん派手で大げさにやるとしっくりくる短い組曲。◎にしたいくらいですが、マルケとしてどうなんだろう、というところもあり、録音も含め○にとどめておく。いや、面白いし聞き応えはある。

サティ:バレエ音楽「パラード」

○マルケヴィッチ指揮日本フィル(PLATZ)1965/4/15東京文化会館live・CD

終演後の聴衆の戸惑いが信じられないくらいだ。これほど繊細さと猥雑さの極端なコントラストがつけられた「バレエ的な」演奏があっただろうか。速いテンポでどんどん場面転換していくさまは演奏会型式だと確かに分裂症的な印象をあたえるが元がバレエであることを念頭に聞いていくとこれほどちゃんと踊れるようになっている演奏はなかなかない。ライヴで日本のオケでここまでドライヴできるのは素晴らしい。音響バランスに多少の問題はかんじるが(奇矯な音素材が強調されすぎる)、そもそも主部の「猥雑な演奏」のすくないこの曲の録音にあってここまでキッチュなパラードを聴けるのがこの日本公演記録だったというのは想定外だった(死語)。マルケはバレエ音楽で生きる。ただ、オケがドイツ的だ。音色が暗い。安定感があり聞きやすいのだが、個性的でないわりに楽曲の軽さにはあっていない。楽想間の切り替えもはっきりさせず通奏感を持たせすぎている。これはマルケのせいではないだろう。惜しいが○。

サティ:交響的ドラマ「ソクラート」

○ダンコ(sp)ミヨー指揮ローマ・イタリア放送交響楽団(INA)1954/4/5live・CD

いやー、3曲聞きとおすのはけっこうたいへんです。起伏の無い曲であり、詩はドラマ的な部分は少しもなくただの読み上げに近いものであり、意図はそこにあり、ちゃんと言葉を理解して聞かないと正直音だけでは辛いかもしれない。ミヨーはサティに最も近しかった作曲家だが、この演奏はダンコの歌唱含めてロマンティックに過ぎる気がする。構造の繊細さも録音の古さはともかくミヨー自身の作品のようなドラマ性が響きあるいは「旋律」の起伏の中に織り込まれてしまって、際立ってこない。とはいえ「死」はやはりどうしても深い感傷を残さざるをえない部分が確かにあり、ミヨーの思い入れがそこに加わってどうなのか、というところもあるだろう。ダンコは巧い。雄弁とまでは言わないが歌いすぎ、表現しすぎである。終始つけられた細かいヴィブラートがどうもサティにそぐわない感じがした。オケがRAIなので音に生気がありすぎるところもあるか。希少記録として○にしておく。アンゲルブレシュトのペレアス抜粋とラヴェルのシェヘラザードのいずれも初出ライヴが組み合わされた「歌曲集」。ところでこれをミヨーによる管弦楽編曲版としている人がいるけど、どこをいじってるの?

サティ:馬に乗った三つの小曲

○ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ADES他)CD

組み立てられた三つの小品、組み合わせられた三つの小品、いったいどれがほんとうの題名なんだと言いたくなるが、結局意味の無い言葉と隔絶した奇矯で美しい音楽の集まりである。あきらかに対照的な作風ではあるものの発想の源泉にアイヴズと同じものをかんじる。ただ、ロザンタールのアクリル板でできたキューブのような透明で軽く固い演奏できくと、中期の面白さをかんじることができる。しょうじきあんまり印象には残らない。

サティ:交響的ドラマ「ソクラート」よりソクラートの死

○モンタイユ(SP)ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ADES他)CD

史上もっとも繊細なソクラートの死だろうな。ソクラートはそのまんまやろうとするとサティ的な暴走を始める。だからストラヴィンスキーはこのての単純美を反映するものとして管弦楽は適切じゃないとピアノ伴奏版を推したわけだが、ロザンタールのやり方でやると、殆ど朗誦な詩すら「歌」に聞こえる暖かさがあるにもかかわらず、雰囲気としてはドビュッシーの靄すら思わせる非常に注意深い響きへの配慮がみられ、奇矯さが殆ど無く、聞きやすい。ちょっと「歌いこみすぎ」て起承転結がついてしまった最後ではあるが、サティマニアでない限りこういったしめやかな終わり方のほうが印象的だろう。ほんとはあっさり途切れて死ぬ、全く感傷をさしはさまない「哲学的な死」であることこそが本来の意図である筈なのだが。ちょっと誤解を生じる書き方をしたが、ロザンタールなので、ラヴェル的に輪郭は明快。○。

サティ:馬の装具で

○ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ACCORD/ADES他)CD

パラードとのカップリングはちょっと分が悪い。まあ、ちょっとヘンな曲という印象をのこすだけであった。

サティ:バレエ音楽「パラード」

○ロザンタール指揮フランス国立放送管弦楽団(COLUMBIA/ACCORD/ADES他)CD

パリ国立歌劇場管弦楽団とかシャンゼリゼ劇場管弦楽団とかフランス国立管弦楽団とかORTFとかいろんな書き方をされていて、じつはそれぞれ(ものによってはびみょうな)差があるはずなのだが実質一緒とみなされることが多い、私は打つのが面倒なのでORTFと書いてしまうが実は余り適切な表記じゃないとかなんとかどうでもいいことに拘る人は書誌学者になれ。ORCHESTRE NATIONAL(後年は外国向けにこのあとにデ・フランスとか書いたのでますますわけがわからなくなった)はすくなくともミュンシュのフランス国立管弦楽団じゃないことは確か。

前口上ばっか書いてますが、この演奏、ロザンタールらしいというか透徹した演奏で輪郭がはっきりとし見通しがよすぎる。ただでさえ現代硝子のように何の色も綾もない、しかし硬度は高く、防弾加工もなされたサティの音楽が、ますます磨かれてまったく見えなくなってしまうほどに「美しすぎる」。スワロフスキー社がひとしくん人形を作ったような(祝1000回・・・そんなになるのかよ)不釣合いな美しさが原始主義的な側面を持つキュビズムを意図した趣旨から外れている気がする(コクトーとの書簡でもサティがピカソの芸風により惹かれていたことがわかる、ちなみにコクトーはさほど相手にせず結局敵とみなしたが、コクトーはまたピカソから画風を絶賛されたり相互的な関係はあり、芸術の世界というのはことほどさようにひとつの論に断ずるのが難しい・・・何がいいたいんだおれ)。ロザンタールのラヴェル系の芸風が強すぎて(音楽的には透明すぎて)、純音楽的すぎてちょっと違和感しきりだった。といってもリズム処理などにはロザンタールならではのハッキリした表現がきかれるのだが、それはある種のアタックの強さであり、リズミカルとかいったものではない。まあ、音盤にすればこうなるわな。しかし「サティは音楽だけでも十分に完成されている」。アリだろうな。ロザンタールのアデ録音あたりに慣れていないと、なんかちょっと遅くて客観的すぎると感じるかもしれない。リズム処理は水際立っているのだが。相対的には恐らく今いちばん薦められる古典的名演だと思うが、劇場で見ないとね。そういや97年くらいに現代美術館でピカソの緞帳撮影したデジカメ写真がどっかへいってしまった。ここに載せるのには格好の獲物だったのにな(当時はデジカメの画素数なんてたかが知れてたわけだが)。やっぱりちょっと古い織物だけど(事実上ピカソの絵は下絵であり織ったのは職人さんであろう)迫力はあった。ディーアギレフ劇としてはミヨーが曲をつけたブルートレイン関連画もあったな。

ようは古典的名演ではあるが極めて現代的なさばき方をしていて決してロマン派さん方式の演奏じゃないってことです。

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ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

○ロストロポーヴィチ(Vc)バーメルト指揮(クーベリック指揮?)クリーヴランド管弦楽団(DA/RITARDANDO:CD-R)1976/2/16live

いよいよもってソロは円熟味を増し無理も強引さもなくなめらかに大きな音楽のうねりを作っていく。ロストロ先生絶頂期の記録といっていいだろう。だがバックがジュリーニ並に大きくさほどうねらないのが意外だ。クーベリックがアメリカのオケを振ると時々こういうライヴになる。無個性的ですらある。ほんと老年ジュリーニに似ている気がする。演奏総体としても、ジュリーニや小澤あたりのバックとつけた正規盤に近い感じがし、しかし膝録ゆえ音がヘンな遠近感で聞こえるゆえ、評価はし難い部分もあるが、とにかくロストロ先生の音がインホール録音にもかかわらず「マイクなんか使わずに」ダントツでオケを抑え雄弁に、がっちりと語りかけてくる。ゆえ、真ん中の○としておく。最後の爆発的なブラヴォーに、臨席できなかった無念を思う。絶頂期ロストロ先生のドヴォコンを聞けなかった無念を。まさに低弦の王はカサルスではなく、この人であった。

※リタルダンド盤で指揮者はクーベリックではなくバーメルトと訂正された。

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ドビュッシー:管弦楽のための映像~イベリア

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R他)1938(39?)/11/5live

トスカニーニはすごいね、もうなんかこれが正解、としか言えなくなる。もっとも「正解」が一つではないのが音楽の世界なんであり、正解をやれるからいいというものでもない。もっとローカル色が強くてもいいだろうし、純音楽的に客観的に響きを整えることも可能だろう。録音が悪いのは言うまでもないが、DA盤は妙にフォルムが明確で(「生々しい」とは違うと思うが)雑音の中からも聞こえる最低限のものは聞こえてくる。ほんらいこの録音状態では無印のはずだが、トスカニーニの直線的なドライヴっぷりと第二部でのイマジネーションに○。当初39年放送ライヴとされていた。同日のバーバー二曲、新世界他一曲も収録されているが、年表記はいずれも混乱している。それぞれの別項参照。

ディーリアス:アパラチア

○ビーチャム指揮ロンドン・フィル他(centurion)CD

いちばん「びみょうな」時期のディーリアスの大曲で、たとえば「伝説」などグリーグをアマチュアが書き直したような浅薄で生硬な書法が前半支配的であるが、そこにアメリカの農園での経験に基づく黒人民謡ふうの素材が加わり、独特の雰囲気がやや機械的に付加されてくる。そして、やっと「ひたすら教科書的な三和音による安定した音楽」が「ディーリアス独自の響きを伴う音響」へと変化していくと、男声合唱がひそやかに加わり、さっぱりとした感じで颯爽と、音楽は流れていき、終わる。トラック分けが細かいなあとも思った。つまりは、余りにあっさりしている演奏様式なのに曲自体の冗長退屈な部分がちっとも改善されない、という何か凡庸な作品を聴いた印象だけが残ったという話。演奏のせい?何のせいだろう?

スリムで聴きやすい。この曲に透明感は逆効果の恐れもあるためロンドン・フィルの程度のいい音は耳なじみする。○。

チャイコフスキー:交響曲第6番

クーベリック指揮NYP(DA:CD-R)1975/2/13live

雑なアンサンブルから始まり、この人にしては遅いインテンポで素っ気無く感じられる。恐らく膝録であるが、3楽章最後で拍手が起こってしまってもアタッカで4楽章に入ってしまうため、結果として4楽章冒頭の2音も聞き取れない。どうしたんだろう、という演奏。無印。

ブルックナー:交響曲第7番

○ヒンデミット指揮NYP(DA:CD-R/URANIA)1960/2/27live・CD

客演記録のひとつ。モノラルで雑音も多い。求心力のある「ミュンシュ的な」演奏で、別に雑味が多いとか改変がどうとかいうことではなく、ライヴ感のある速く力強い演奏で、ブルックナーにつきまといがちな野暮さや長さを感じさせないという意味では他の演奏同様ヒンデミットの得意曲と言ってもいいものだろう。ドイツ古典趣味のあるヒンデミットにとって構築的な楽曲は「好み」であり、「あの時代の方法」でそれをさばいている。「あの時代の」というのはクレンペラーの揶揄に象徴されるように「古い聴衆向け」のやり方であり、原典主義とはいえ「フルトヴェングラーの主張した意味での」原典主義である。といっても詳細検証はまったくしておりませんのであしからず。他演と同じ可能性あり(28日と称するCD-Rがある、別エントリ)。ブルックナー嫌いには聴きやすいブラームス的なところのあるロマン性と古典性のあいまった世界。聴衆反応は普通、そんなレベルだろう。○。

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ショスタコーヴィチ:交響曲第1番

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R他)1939/1/14live

純粋に音だけを磨き上げた直線的な演奏で、まさに「新即物主義ここにあり」といったところが聴き所でしょう。トスカニーニの同時代音楽に面したときの芸風を見事に象徴する演奏で、録音が極めて悪い雑音まみれで起伏も明確でないのでどうにも評しがたい部分もあるものの、エッジが立っていて耳なじみは明確でよい。説明はしづらいが「マルケヴィッチとは違った角度から」効果的にフランス印象派的な繊細な音響を織り交ぜつつ、力づくでインテンポで押し切る方法をとっている。きほんはベートーヴェンのやり方である。演奏自体は完璧であり恐ろしいほどの威力を発揮するNBC響には脱帽である。丁々発止という言葉を思い浮かべさせすらしない噛みあいぶりには驚かされる。攻撃性はしっかりしたポリシーのもとにまとめられており、徒に煽っているわけでもなく、純粋なスコアの読みと、音化の結果音楽ができた。聴衆反応もよい・・・切って貼ったような拍手、既出盤と同じ可能性あり。クレジットされているカバレフスキーは入ってない。このレーベルではよくあることである。こういった場合、運がよければ(追加注文があるなど)ミスと判明したら送りなおしてくれるだろう。たいていは原盤にないクレジットが放送アナウンスからだけ聞いていいかげんにつけられていただけである(誤りを指摘しても修正しないようだ、通販業者にはよくあることだが)。参考資料提供にすぎないのだから(対応や経緯を見ていると恐らくこの低価格でも商売ベースであり、仲買を通さない直販イタリア盤(ソッチ系)だから安いというのが実情だと思うが)。 2011年7月現在web無料配信されている音源と同じ。

ラヴェル:ラ・ヴァルス

○バルビローリ指揮ヒューストン交響楽団(DA他:CD-R)1965/7/12live

どういうセンスだか(バランスをとるためかもしれないが)、ブラームスの後にプログラミングされたものだが、これがやりたい放題のアメリカンな演奏で、バルビもこういうオケだと案外フランスものを面白くやるんだなあと思った。弦楽器がもうノリノリで松葉も極端に強調され物凄いボウイングの迫力にヴィブラートもポルタメントも異常なほどかけてきて、スウィング感がすさまじい。伸縮も自在の域をこえているもののオケの中から出てくるもので恣意的に感じないのがいつものバルビのフランスものと違うところだ。アンサンブルの乱れなんてどうでもいいって感じで、ラ・ヴァルスを好きなように演奏している。まだ元気なバルビが面白がっているのが手に取るようだ。最後も近くなるとリズム処理は全くウィンナーワルツではなくブロードウェイのミュージカル、あるいは戦争映画の行進曲になる。ウェストサイドストーリーかチャイ5か、といった物凄いものになってしまう。いや、スピーカーで聞いてください。ヘッドフォンだと毒にやられるかもしれない。雑味たっぷり、でもとにかく弦楽器の音色がこんなに色っぽい演奏は他になく、グラマラスな南部の女がウィンナーワルツと称して猥雑に踊る酒場の音楽。個人的にとても気に入ったが、とても人に薦められたものではない。○。

ミヨー:プラハのための音楽

○作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)live・CD

交響曲第10番と共に録音されたもの。いい音で、ミヨーらしい折り目正しい演奏だが、曲もまたいい。管弦楽組曲的に見られがちな題名だが、むろん楽器の用法や旋律に皆無とは言えないまでも「~のための音楽」というのはたまたま受けた仕事にかこつけて「交響曲」という題名のかわりにつけられた即物的な命名方法に基づく、と「幸福だった~」に書いてある。言葉どおりに受け取って素直に交響曲として聴くとなるほど、しかも更にそれまでで「完結」したはずの大交響曲とまったく同内容の、いい意味でも悪い意味でも「ミヨーの常套的な型式音楽」になっているのが面白い。しかも既に数多の中でも出来はいいほうだと思う。3楽章構成だが、1楽章中のブラスの用法、それに伴う響きの饗宴が耳をひく。管弦楽法はいよいよ簡素化しリズム的にはユニゾンが目立ち一種型にはまった不協和音を重ねるという戦後ミヨーそのものの音楽だが、そこにもいつも、「一つ」違うものを挟んでくる。得てしてそれはシェーンベルクふうの前衛的なパセージであったりもするのだが、ここではチェコのブラスの音色を聴かせるため挿入された、ととって不思議はない、そこがヤナーチェクとまではいかないまでも、中欧的な硬質さを音楽にもたらし、南欧風のマンネリズムに陥らないで済んでいる。この1楽章、弦楽器なんかは常套的でつまんなさそうだが、耳には適度に新鮮だった。そのあとはますます常套的だがライヴであるせいか作曲家の権威のせいか、とても引き締まったオケの好演が目立つ。ミヨーは腐ってもミヨー、構築的なアンサンブル技術はしっかり要求し、ヒンデミット的ではあってもちっともヒンデミットではない聞き応えの結末まで面白く、弛緩なく聞けた。きっぱり短くしすぎたり、変に展開させすぎたりするものもある中、いいバランスだと思う。○。multisonicは録音データが明示されないことが多く困る。
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