倦怠期来たる

譜面を漁って久しく弾いてない曲で回春を狙う。

シゲティが長々と前口上を書いているプロコのコンチェルト一番改訂版。

うわー弾けないー

インテンポはとうてい無理なのであった。立て直すためにアイヴズのアンサンブル曲からアダージオ・カンタービレ。

美しいがなんだかよくわからん。

ストラヴィンスキーの兵士組曲トリオ編曲版がでてきた。

まあ、さすがです。響きがおフランスぅ~。しかし・・・曲がさっぱり思い出せない。。

非常に弾きづらい重音とボウイング。もちろん小コンサートの途中で放棄。曲はさすがです。ワタシの腕がだめなんです。

回春どころか回冬しそうなので古い曲にさかのぼる。チャイコのフィレンツェのファースト。しかも無難にワルツから。

可能。しかし恥ずかしい。フィナーレでは顔が真っ赤になる。この曲の前には一切の羞恥心を捨てよとトルストイが泣きながら言ったことで有名な(うそ)旋律とリズムと装飾音の数々。チャイコがハイなときに書いたんだなあ。しかし民族的なリズム処理とか機械的な書き方が妙にストラヴィンスキーと似てるかんじもして、仇をとったようになる。

ブルッフのコンチェルトのわずか一ページ目で倦怠期に戻りそうになる。

を、バルトークのラプソディ一番ではないか。チョン・キョンファが日本でやってった曲ね。ストラヴィンスキーぽい骨張った曲だけど、勢い良く重音を響かせ、







苦情。終わり。いつか二時間くらい弾きたい。もっか一時間しか弾けない。。

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ルーセル:交響曲第4番

◎ミュンシュ指揮フランス国立放送管弦楽団(DM/ina配信)1966/9/13live(10/13?)・CD

クリアなステレオ録音。かなり生々しく、ブラス陣の美しいひびきがよくとらえられている。ミュンシュの気合声もクリアに聞こえる。ルーセル晩年の美質がくぐもった晦渋な方向ではなく透明で繊細なドビュッシー的方向に向いて聞こえるというのは、ロマンティックなミュンシュの解釈のためもあるが、録音状態の勝利だろう。厚みのあるじつにスケールの大きな録音だ。1楽章にも増して2楽章はクリアで、響きには怜悧さよりぬくもりが感じられ、まるでマーラーのような音響世界が展開され、素直にメランコリックなペット、サックスや木管ソロがオリエンタルな旋律線の奇矯さよりも、安定した一種諦観に近い世界観の構築に役立っている。このオケは高弦の音が中性的で幅がなく余り魅力がないが、打楽器と管楽器と低弦でその物足りなさを補っている。構築的というより印象派的で、少し点描的な印象も受けた。3楽章は元気なアンサンブルのスケルツォだがやはりルーセルのちょっと病的な奇怪さが殆ど感じられず、ブラームス的なスケルツォ楽章にすら感じられた。木管、弦の機能性が光る。数十年前のウィーンを彷彿とさせるような生ぬるさがきびきびと律せられて提示されるさま、ルーセルがドイツで受けたのがよくわかる演奏である。フランツ・シュミット的だが変に変奏を繰り返さず形式的にきっぱり短く楽曲を切るところは違う。4楽章はまさにフランスふうの木管と弦のピチカートなどによる爽やかな主題提示からオリエンタルな展開が弦を中心に広がっていく。楽曲の問題でもあるのだがややとめどなく不思議な軽さがあり、客観性を感じる平坦な演奏になっている。しかしリズムが単純で明瞭ゆえに「整えた感」はなく流れはよい。過不足なく挿入されている打楽器要素の表現もきっぱりしていていい。ハスッパになりがちなところでも抑えたブラスはミュンシュがやや冷静に引き締めてこの楽章を演奏していることがわかる。不思議にきっぱり終わる楽曲に対してだろう、戸惑いの声も聞かれる終演後の拍手。録音の功績が大きいがまずもってこの曲の記録としては◎。ライヴなりの生き生きしたところが聞き所。 ina配信のデータは10月になっているが、誤りか放送日。

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ドヴォルザーク:交響曲第8番

セル指揮クリーヴランド管弦楽団?(DA:CD-R)1966/2/16live

音が軽く表面だけを美しく整えたような演奏で正直まったくそそられなかった。終演後の大ブラヴォは録音が演奏の凄さを捉え切れていないことを示しているが、それでも抜けのいいステレオでテープ撚れが僅かに混ざるほかはかなりいい状態といっていい。演奏がとにかく客観的すぎて、オケの自発的な表現意思も感じられず酷く薄味なのだ。唯一3楽章だけが感情の揺れをテンポルバートとフレージングの綾でどんどんつけていくやり方で、ひょっとしたらこの人は(得意の演目とされていたとはいえ)3楽章以外には余り思い入れがなかったのでは、と思わせる。技術だけを聞く演奏。無印。

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ドヴォルザーク:交響曲第9番抜粋

○クレンペラー指揮ロス・フィル(archiphon:CD-R)1945/2/11ハリウッドボウルlive

全般ピッチが高く録音状態は悪い。放送エアチェックLPからの板起こしと思われ、冒頭を欠いた1楽章、一箇所ダビングミスのノイズが入るほかは完全な2楽章、ナレーションをはさんで冒頭僅かに欠ける4楽章からなる抜粋。重みのある響き・堅い構築性と反して非常に前進力を感じる仕上がりとなっており、いくぶんテンポ・ルバートもかかり格調高さよりむしろロマン性を感じる。フィナーレの盛り上げなどは後年のクレンペラーには聞かれない感情的なものでブラヴォもうなづけるライヴならではの出来である。音の一つ一つの発音の強さはやはりクレンペラーで、これがまさに表現主義の時代の指揮者というものだろう。面白い。○。

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ブラームス:交響曲第4番

アーベントロート指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス交響楽団(biddulch他)1927/3/3・CD

余りにグズグズもっさりしていて、1楽章の冒頭でかなり聴く気が失せるが、重厚な語り口には(録音状態も演奏精度も誉められたものではないので歪んで伝わっている可能性もあるが)独特のドイツ流儀の魅力はある。1,2,4楽章はみなそんなかんじがして正直まったくそそられない。しかし3楽章が何故かいいのである。この曲の3楽章は1楽章冒頭いきなりの弦楽アンサンブルと並んでテンポ設定のしづらい、やりづらい部分だと思うが、弾けるようなリズムにガタガタのアンサンブルが勢いよく乗ってくるさまは一種旧びた感興を呼ぶ。輝かしいペットの響きにはこのオケのよさがあらわれているし、アーベントロートに期待されるエキセントリックな部分がこの曲では唯一と言ってもいいくらいにはっきり現れている。まあ、無印ですけど。

ファリャ:バレエ音楽「三角帽子」第二組曲

◎ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団(mo)1958/3/28live・CD

ミネソタ管弦楽団のBOXより。ドラティのこの曲はとにかくテンション、さらにバス音域のズシズシくる響きが何とも言えず迫力がある。演奏自体重くならずに重低音でリズムを煽る、なかなかにカッコイイのである。ドラティは職人的な気質のいっぽうで一部の曲にかんしては著しく集中度の高い独特の演奏をすることがあるがこれは後者か。トスカニーニとはまた違う音響の迫力である。バレエとしてはどうかわからないが。◎。

ラフマニノフ:交響曲第3番

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc,medici)1967/12/1・CD

情緒纏綿な一方リズム感のよさ、音のキレは逸品で、録音がやや小さく篭っていることを除けばかなり楽しめる要素の詰まった引き締まった演奏である。ライヴではないと思う。演奏的瑕疵がなくオケも巧い。この曲の旋律をきちんと魅力的に響かせ、ラフマニノフの持ち味である騎馬民族的なリズムの魅力との交錯を楽しませる、よく曲をわかった人の演奏だなあといったところだ。ロシア式の演奏に近い部分はあるが、オケのせいもあってより洗練された聞きやすさがある。やはり2楽章など原曲の冗長な部分は冗長として残ってしまうし、逆にあっさりしている部分はあっさり通ってしまう感もなきにしもあらずだが、ラフ3の演奏としてはかなり上位に置けるものと思う。録音を除けば。モノラル。

リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード

○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(euroarts)DVD

恐らく70年代後半の映像か。見た目の「窮屈さ」と音にみなぎる覇気の間に少し違和感をおぼえるがテンシュテット同様そういうものだろう。まさかカラヤン方式(別録り)ではあるまい。スピードも縦の強さもチェリ壮年期のかっこよさを体言しており、スタジオ収録映像にもかかわらず掛け声をかけたり気合が入りまくりである。シュツットガルトもかなり精度が高い。まあ、チェリのシェヘラザードはたくさんあり、その芸風の範疇におさまる記録ではあるので、見た目にこだわらなければこれを入手する必要はないとは思うが、生気ある白髪チェリを拝みたいかたはどうぞ。モノラル。

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アルベニスの誕生日

イマイチ乗り切れない作曲家でもありますが。好みですな。

のらなきゃやるな

ほんとに体の底から疲れきっているというのに無理して弾くと元の木阿弥になる。

チャイコンのページをとばしても気がつかなかったりベトコンさっぱり音とれなかったりモツ5の1楽章を無理して通したら譜面のなかったころのほうがよほどスピーディに軽く弾けていたことに気づく。果てはアップをはじめたときにやっていたメシアンがさっぱり弾けない!!音がわからない・・・アイヴズのソナタ1番の1楽章をなんとかやって2に入ったところであまりの音・リズムの読めなさにしにたくなった。3楽章の例の賛美歌をやりながら「なんでヴァイオリンソナタに歌詞が書いてあんだ?」と今更な突っ込みを入れるほど集中できていない。

理由はやはり疲れだ。あと、太田総理を見ながらというのもある。

こんなんじゃとても「楽器が弾ける」とは言えない。ニュアンスが出せずしてただフォルテでがなるだけでは音を出しているだけだ。しかも音すら当たらない。リズムものれない。そう、昨日封印したメトロノームはやはり、ある程度アップには必要なのだ。

チャイコのトリオを始めて、ああ、ほんとに今日はダメなんだ、とやめた。

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トスカニーニの誕生日


瞬間湯沸かし器的な人だったのに、人気は瞬間湯沸かし器的ではなく高いところでアベレージを保ってますね。けっきょくこういう方法がいちばん残り易いというのは、変な突出したところを作らずに万人向けの高精度演奏を行ったというところにあったのでしょうか。カラヤンなんかはそこだけを受け継いでる感じがしますけど、トスカニーニは「同時代人として作品とわたりあった」ところが違う。双方向的なやりとりの結果が即物主義的演奏と言われるものに結実したわけでした。譜面だけを根拠にしなきゃ、と主張しつつそうでもないベートーヴェンとか。

ドヴォルザーク:交響曲第8番

◎ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(DA:CDーR)1960/12LIVE

これが大変な名演で、録音の瞬断がひんぱんにあらわれるにもかかわらず◎をつけたゆえんである。颯爽ととばしていく中にも分厚い均整のとれた響きが輝かしくニュアンスをつけていく、その古典的均整感と力強い表現がじつに美しく、内面からの覇気が精度を更に高めている。明るくやや単調な音色も木管の素晴らしい技術とブラスの強烈な力感の前にどうでもよくなる。ビーチャム最良のものを聴くことができる。凄まじいブラヴォも聞き物。さすが作曲家自身による英国初演をになったオケだ。

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苦情と練習と変な分析

今日は5時間寝ているので指は回る。ベトコンの1楽章冒頭をちょっとやろうとしたが完全に知らない曲なのでやめる。今日は時間が遅い。3楽章の最初の二ページだけをやることにする。冒頭からの1くさりはいきなりの跳躍的旋律で「掴む」わけで、ここの表現には演奏側の好みが現れたりもする。だいたいやねー(誰)、ヴァイオリン曲なんてものはそもそもソリストを聞かせるためのツールとして成立してきたわけですよ。名技性を示すために難しく書き換えたり逆に技術に自信がなければ易しく書き換えたりなんて、コンサートの現場ではよく繰り返されてきた(きている?)わけで、考証の対象としては流動性が余りに高すぎるもの、もともとそういうもんです。特にコンサートにて表面上の華美さが求められたロマン派時代に多いもんだけど。

オクターブあがって繊細にとの指示がある(天国的に、という注も見たよなきがするが作曲家が書いたわけじゃないだろう)、じじつ楽器の音域的にも表板にしか響かないような透明で薄い音がわりとはっきり響くところ、ここの運指にかんしてはいろんなヴァイオリニストがさまざまに指示した版が存在していて、シゲティとフランチェスカッティじゃぜんぜん違うわけだが、私はフランチェスカッティを使っている。もっとも、だいたい近代の版は大元はヨアヒムの編纂した版。運指にしても練習用譜を除けばヨアヒムを参照している(カデンツァはもちろん自由なので別だし、どちらかといえばヨアヒムの譜面の音符に独自の数字(指)と弧(ボウイング)その他特殊記号を付け加えるかんじでそれぞれの版が成り立っている)。だからヨアヒムの活躍した時代柄泣くほど生臭く、ちぐはぐな部分が混ざってたりする(らしい。カデンツァはあきらかにそうだけど)。ペーター版も確かこの範疇だが、ちょっと前の時代に遡ると、ペーターを使いながらもより演奏効果を高めるようにというか微細な演奏上のコントラストをはっきりつけるために、トリッキーでマニエリスティックにフラジオを混ぜたりするクライスラーなどもいる(これがpeters版かもしれない、忘れた)。フラジオ話は仄めかすにとどめるが(この音域のフラジオは明確な音色変化を狙えるほど実音と変わらないように個人的には思うし、むしろ旋律の構成上全部実音のほうが音量の座りがいい気がする)、このへん、作曲的系譜より演奏家の系譜をたどらないとルーツたどって正誤判定は難しい。

一子相伝がヴァイオリンの世界。いや一じゃないけど、確実に口伝体教的な部分があるから、文献学のように譜面(演奏家の書き込み譜含む)を漁るのみならず「民俗学のように」聞き込みして周らないと演奏家の加工の系譜なんて明確にはならないし、ましてや埋もれた「原典」を掘り起こすことはできない。演奏家には書き込みを一生懸命やる、もしくは使命としてやった人(ヨアヒムやアウアーあたり)とそうでない人がいるし、そこらへんにも時代なりの権威の差なんかもあったりする。そのときどきのコンディションや音の好みで、一人の演奏家でも違う弾き方違う運指違うボウイングなんてやることもざらにあるから、一意に決められることでは基本的にはないはずで、ちょっと調べたくらいではわけがわからない。オイストラフなんて器用な名手は平気でそういうことをするし、じじつ演奏記録と校訂譜でも相違がある(実演と校訂作業は別モノなのだ)。逆にハイフェッツの技術の前にそういう手はいらなかったりもする。余りやり方を変えないといえばシゲティは原典回帰をうたいつつ譜面は結局ほとんどヨアヒムだし、やや独自が混ざる。

ルーツにおける正誤自体も、あくまで作曲家オンリー視点なのか作曲家が相談納得した演奏家視点なのかが明確でないかぎり難しいものがあり、わりとさいきんの考証版(シュナイダーハンだっけ)がまた演奏的にはちょっと変に地味だったりもするのだが・・・といってもベトのころは運指やボウイング指示なんてそれほど記譜するようなもんじゃなかったわけで(演奏家の仕事)、この譜面もそんなかんじなのだからそのままやれば地味になるわな・・・

で、思ったのだが、あるていどやったらメトロノームはいらないんだなあ。

メトロノーム使わないとメトロノームの音を打ち消すべく音量を出さなくなる(つかそんな俺は阿房か?)。天国的にと言われてものすごいアゴーギグつけてフォルテでやってたのが、今日は静かにそつなくやったら難なく、フランチェスカッティのフラジオ駆使版でも弾けたような気がした。

で、急にチャイコン。まあこんな曲弾けるわけがないわけだが、5ページ目までとにかくゆっくり進んでいたら、

苦情・・・


はい。10時過ぎてますね。


物凄い音抑えてFからの有名なところに行ったら何故かわりとキレイに聞こえた。ありゃ。やっぱ力みすぎなのか俺。スピッカートにトラウマがあるのだが(師匠が「やってりゃできる」って教えてくれなかったせいで大学時代は物凄いヘタでオケでは不利だった)、弓ほどほどに張って中ほどでちょこちょこやりゃわりとそれらしいじゃん。はははははは<戯言

で、チャイコンは有名な作曲初演経緯がある曲である。だいたいやねー(誰)ピアノ屋に弦楽器の曲と言うのは無理があったりする。ロマン派のコンチェルトで二段構えになってる譜面なんてざらにあるが、これが版というもので、まさに前記の演奏家の主張が完全に示されているわけである。印刷譜にまるで作曲家の意図かのように主張されている。もっともいちおうは誰がそうしたか小さく↓に書いてあったりして、まー、チャイコンの場合アウアーなんですな。

アウアー。

グラズノフなんかでも簡単にしてあったりします。オクターブ下げたり単音進行にしたり。

でもすごい権威だったんだぞアウアー。でもちょっと現代の耳からすると寂しいぞ。戦後の演奏家はそんなわけで、たとえばハイフェッツやヴィオラになるがプリムローズあたりは逆にオクターブ上げたり重音にしたりスピッカートとかつけてみたり、誇示するためでもなかろうが面白くするためか作曲家の意図を汲み取ったのか難しくしたりしたから、そういうのを土台に練習をしいられる今の人はたいへん。でも聞くだけなら楽しい。ううむ。<あ、チャイコンの話からずれたか。

Eのあたりなんてほとんど何が原典なんだかわからん。オイストラフがモストラスと校訂したやつはアウアーが三度くらいの和音のずり上がり(半音階的ないかにもこの時代っぽい)なのだが、スラー付分散和音にしてある。

演奏家の手の大きさや形とか、得意な奏法とかそういう都合もあったりするんだろうなあ。アウアーの時代はとくにそういう独善的なのが正しいとされた節があるのは事実。また、オイストラフはあくまで「校訂」であり、自身の演奏はまた上記のとおりビミョウに違うかもしれないけど、ここはちょっとなんなのかよくわかんない。

スコアではここはこの音、とかやたら注釈が多く、譜面によっては前に考証が載ってることも多いので、だんだんめんどくさくなってきたので、興味があったら複数集めて読むよろし。そんなことを考えながらだと演奏は進まないので、今日はこれで終わった。作曲家のミスを正す、みたいな演奏家も多かったんですよね。ほんとのミスも、ロシアあたりにはあったのかもしれないけど。

カリンニコフ:交響曲第2番

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(russian disc/melodiya他)1953

録音が古びて遠い。細部が聞こえてこないのは辛い。また、比較的ムラヴィンスキーの若い時期を彷彿とさせる、未だロシア様式といってもいいような派手めの演奏で、オケもレニフィルにしては拡散傾向をとくにブラスあたりに感じるから少し異色だ。円熟ムラヴィンファンにはそれほどアピールしないのではないか。曲がやや構成的に弱いところもあってどこを焦点にきいたらいいのか、3楽章で終わっておけばよかったんじゃないかとか考えさせられるが、この演奏もやはり3楽章をまるでスヴェトラのチャイ5のように盛り上げている。交響組曲ふうの内容はバレエ的ではあるがムラヴィンはそこまでロシア式におもねってもいず、小粒な印象もあるが精度はこの曲のディスコグラフィの中ではなかなか上のほうだろう。

マーラー:交響曲第6番

○ドラティ指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live

インホール録音(膝録)。不安定だが過不足ない迫力のあるステレオ録音。演奏自体は集中力は高いものの職人的で解釈に目立ったところはなく正直面白みはない。が、無心で楽曲だけを聞けるメリットはある。4楽章など細かくはより効果的にドラマを演出するためにいじっているような箇所もあり、楽曲だけ、といってもスコアが透けてみえるたぐいではない。とにかくこの曲によく慣れている人のどちらかといえば即物的なスピード感ある演奏。3楽章など凡庸で地味かも。オケはデトロイトだけに?鉄鋼製品のようなところがあるが巧い。よく制御されておりミスもない。実演だったら何度でも行きたくなる演奏だろうなあ。ブラヴォがわりと凄い。

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ドビュッシー:バレエ音楽「遊戯」

○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(LONDON)1953/10・CD

~<ジュー(Jeux)>のよい校正刷を手に入れ次第、君におくります・・・・・・この<三部からなるおしゃべり(バデイナージュ)>に対する君の意見を、ぜひききたいと思っています。<ジュー>といえば、君は<公園(パーク)>という題の方がいいといっていたから、私がこれを選んだのでおどろいてましたね。しかし、<ジュー>の方がいいことを信じてくれませんか。第一に、より適当しているし、つぎに、この方が、この二つの性格曲***の間におこる<恐怖(ホラー)>を、もっと切実に偲ばせる。~

***ドビュッシーは<ジュー>を作曲中、ずっと、私と親しくつきあっていたし、どう管弦楽に移すかという問題で、再三、私に相談した。私は今でも<ジュー>は管弦楽の傑作と考えている。もっとも、あのうちのいくつかは、<あまりにラロー的だ>と思っているけれども。

~ストラヴィンスキー/吉田秀和訳「118の質問に答える」音楽之友社

1913年11月8日パリ付のドビュッシーからストラヴィンスキーへの書簡には、「春の祭典」をピアノ試演奏したときの「何か美しい悪夢」という比喩的感想ののちに、この記述がつけられている。周知のとおりドビュッシーの「管弦楽における(上記文章註でストラヴィンスキーが強調記号をつけているように)」意欲作であったこの隠喩的な作品はハルサイ初演のセンセーションの後ろに隠れ忘れられた存在となり、戦後になってやっと再発見され評価されるようになった作品である。不可思議な管弦楽の響きは「現実に無い光景の描写」をなし、夢のようにあらわれた男女がかなり肉感的にたわむれるものの、いきなり幽霊のように消え去り、ギロチンの歯が落ちるように終わる。<恐怖>は幻想の最も激烈たる発現であるが幾分ニュアンス違いもあるであろうこの訳文を読みながら、世間の評判や売れ方と全く関係の無い未だ仲の保たれていた天才作曲家同士の会話が暗示する、両者が音楽に対して全く異なる視座と美的センスをもっていて、しかしプロフェッショナルな作曲家という点においてのみ密接な関係があったことに気づかされる。別にこの項で引用しなくてもよかったのだが、アンセルメが二人のいる音楽的環境に既に確固として存在していたことも考慮に入れて、このモノラル録音を聞いてみる。

すると今現在きかれる遊戯よりもかなり娯楽性の強い、リアルな肌触りのバレエ音楽になってきることに気がつく。カッチェイ王が踊りだしそうなほど動きがある。意図的に取り入れられたワグナーふうのロマンティシズムもしっかりそのように重厚に響く。アンセルメはかなり長い間ストラヴィンスキーのよき解釈者であった。20世紀も10年をへて、世情は印象派の定義の曖昧な世界から極めてリアルな肌触りの明確な音楽~それが理解できようとできまいと空想的であろうと大衆的であろうと目的(「ホラー」ではなく「パーク」)とフォルムの明確な「強い音楽」~に流れていて、ストラヴィンスキーは賛否あるにせよその象徴的存在となっていた。この作品には間隙にいたドビュッシーがどのような立場を取ろうとしたのかを偲ばせる部分がある。濃厚なエロティシズムと冷え冷えとした前衛的な響きのちぐはぐな交錯が、まさにその発露として現れているように思う。結局、「リアリストの闊歩する世の中に順応できなかった」けれども、形式音楽への志向を題名に示しながら内容的には終まで己に忠実な作品を作り続けた。それがだいぶ後年、流行というものにおいそれと左右されなくなった耳高い音楽家や聴衆によって冷静に評価されるようになった、この段階において今一度アンセルメの生々しい音楽を聴きなおすと、面白いのである。ただ、正しいのかどうか、オーソリティだから正しいという評価は無意味である、ほんとうにこんな娯楽音楽でいいのか・・・・・・・・・・「ジュー(英語でJOY)」だからいいのか。神々の遊び、スクリアビンの好きな世界だ。意味不明。○。

ブラームス:交響曲第2番

○ダムロッシュ指揮NYP(BIDDULCH)1928/1/4~6・CD

正確には統合前のニューヨーク・シンフォニー。堅実で揺れの無い解釈にポルタメントだらけの情緒てんめんな弦が乗るが、総合して面白みはない。かなりドイツ臭い剛健な造りをしていて、妙に楽天的というかアメリカンな音色(SPの復刻次第なんでしょうが)だけを武器として直進を続けるさまはいささか地味にすぎる。しかし速いテンポに鋭いリズム感をもって煽る4楽章に聴ける要素はあり、最後まで近視眼的なルバートはいっさい無いのだが、なんともいえない浮き立つ感覚が愉快だ。だから○ひとつにしておく。SP復刻というのはノイズ除去をしくじると音を骨抜きにしてしまい、特有のクリアで鋭い音を非力で聞き辛いぼやけたものに化かしてしまう。演奏自体にそういう印象を付加してしまう。これはややその気がある。

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ルーセル:交響曲第2番

○デルヴォ指揮コロンヌ管弦楽団(EMI/PATHE)

わりと未だ印象派的とかそういうくくりで説明される曲のように思うが、和声的で非構造的な部分も無いこともないものの、寧ろ重厚でも整理された響きで洗練をみせる同時期(1910年代)の中欧産ロマン派交響曲と似た情景が冒頭より展開される。またもや比較に出してしまうがツェムリンスキーの抒情交響曲やRVW中期以降の交響曲(但し共にもっと時代は下る)とスタンスがかなり似ている。その意味で先駆でもある。後半楽章あたりになってくると強い響きを伴う単調なリズムが明確にあらわれており、バレエ音楽に既に出てきた後年の特徴であるオリエンタルな半音階的な音線を支えるひたすらのリズム・オスティナートが、3番ほどのバーバリズムは無いがそのぶん聞きやすい形で提示され単純に心地いい振動となる。スマート快楽派や人生疲労派の聴衆にはこういう曲が適切です。デルヴォーは巧いなあ。マルティノンほどの強烈さがなく、ロマンティシズムが爽やかに紡がれている。

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アフィリエイトなぞ興味は無いが、こんなんで大丈夫かgooブログ???この御時勢にアフィリエイトの仕組みを「やめる」という選択はただでさえ鈍重で使い勝手の悪いココのイメージを悪くさせないか?GWに指摘した不具合も改善も回答もないし、、、

タグ機能もないし、唯一(ソートはぐちゃぐちゃだけど)データのテキストベースのバックアップができることぐらいかここの売りは。しかも有料会員のみ(私も)。

練習なのか?

徹夜明けは見事に指が言うことをきかない。びっくりした。数十年ぶりに見るモーツァルトの5番のヨアヒム版の一楽章、ボウイングや音をすさまじく勘違いして覚えていて、それもあるんだけど。さいきん難しい難しいばっか言ってるがこいつぁ案外難しい、テンポどおりやるのは。ショスタコのピアノトリオ二番とベトコンほかを軽くつまむが、ダメなときはダメなんでした。おわり。

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