ディーリアス:夜想曲「パリ」~大都会の詩

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(bbc,medici)1967/3/2live・CD

情緒深く表現されるディーリアスの世界。ワグネリアンそのものであるディーリアスのうねるような情緒がドビュッシー的なパセージや和声を絡め大都会パリの陰影を思い出をこめてうたわれる。求心力の弱い演奏であってもそれなりに聴けてしまう職人的なわざの篭められた大管弦楽曲として、しかもシルヴェストリだからかなり力強い情感が迫り、ディーリアスというよりもっとドイツ的な重厚さはあるにせよ動かされる部分はある。長くて飽きてしまう、みたいなことはありません、わかりやすい。○。

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チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」

◎アシュケナージ(P)パールマン(Vn)リン・ハレル(Vc)(EMI)1980/1・CD

評判悪い盤だと思ったのだが15年ぶりくらいに聴いてけっこう仰天した。もちろん録音マジックもあるのだろうがとにかく各人の幅のある表現力(あくまで表層的なアーティキュレーション付けなどの範疇だが)に音色の(一部単調で浅薄な部分もあるが)美しさには平伏である。アシュケナージの柔らかな抑制こそが美しいピアニズムが飛び抜けているのは言うまでもないが、パールマンも諸所に伸びやかかつ感情的な表現がはっとさせられるところがあるし、ハレルの音がよく拾えていて(この曲のチェロは普通だとピアノの左手の音域と同じだったりヴァイオリンとユニゾンだったりと何かと埋没しがちなのである、ロストロ先生でさえ)、この人は前から私は好きだったが何故マニアに疎まれることがあるのかよくわからない。表現力のあるボリュームたっぷりの奏者だと思う。そして全体のアンサンブルの調和もすばらしい。三者解釈が合わされ尽くされ、全体設計も非常に上手く作り上げられている。諸所若さというか浅薄に聞こえるところもあるしよく聴くと集中力にムラのある奏者もいるし、変奏フィナーレ(B部)のヴァイオリンなどいかにも最近よくある全て「飛ばし」で弾くことで粒だった正確なアンサンブルが構じられるものの客観性が表立ってしまいちょっと冷静になってしまった。最後の葬送リズムにのった1楽章主題のリヴァイヴァルは確かに譜面指示以上にルバートして唐突感を抑えようとしているがここはちょっとやはり唐突感を拭いきれていない。いや難しいのだけれども。演奏するうえでは非常に参考にできる演奏であり、往年の演奏が好きな向きにはどうかというところもあるが、今の聴衆にとっては最高のレベルのものと受け止められえるものだと思う。◎。

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シベリウス:トゥオネラの白鳥

クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ROCOCO他)

ROCOCOは他に出ている(?)ものと同じか。ROCOCOでは録音がこれだけ極端に悪く、5,6番に比べ演奏効果も長さも足りない曲であるために、流して聞いてしまい、そして別にそのままの印象で終わった。クーセヴィツキー向きのしっとり情緒的な曲ではないか。無印。

シベリウス:交響曲第6番

◎クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ROCOCO)live?・LP

名演。この活き活きとしたオケの躍動、立体的にしてバランスのいささかも崩れない音響を聞け。モントゥもミュンシュもクーセヴィツキーの訓練したBSOなくしてあの活躍はありえなかった。誰がクーセヴィツキーは指揮下手だの楽譜が読めなかっただの言い出したのか(重層的に五線の居並ぶスコアの読めない指揮者に現代作品がやれるわけがない、シゲティが譜読みが苦手だったというソリスト話とは違うレベルだ)。シベリウスの6番をここまで細部まで彫刻し尽し、なおかつ噎せ返るような響きの中に「弦楽合奏ここにあり」といった引き締まったアンサンブルによりスピーディに力強く描き出せた人間はかつていたとでも言うのだろうか。トスカニーニの時代に(ストコは余りに期間が長く世代も後なので置いておいて)ボストンという土地に覇を張ったコントラバスの名手にしてロシア人指揮者の真髄が、少なくともこの録音にはある~ロシア人指揮者というイメージよりも寧ろフランスなど周辺国作品を得意とした現代指揮者というイメージが強いし正しいと思うが。シベリウスは木管はソロ旋律こそあれ後期になると殆ど弦楽アンサンブルが中心になり、ブラスなど合いの手やクライマックスで斉唱するくらいのぞんざいな扱いを受けたりする。だからこそ、亡命演奏家の多く西欧色の強いこの土地にあって、弦楽の国ぐにである東欧からの直輸入の演奏レベルがクーセヴィツキーの掌中に入ってきた、その結果がこのスピード、ダイナミズムにして細部まで完璧に弾きこまれた統制のとれた演奏に結実している。とにかく弦楽器弾きとして、この弦楽器の響きにはとても魅了されるし、6番というウラ名曲とされる作品の中にそれが如何に重要な位置を占めているか、改めて気づかされた。終幕、クーセヴィツキーの静寂はRVWの静寂に似て、現代的な金属質の「間」の美学に近いものがあるなあ・・・と終幕にて思ったり。ライヴではない可能性がある。録音はクーセヴィツキーにしてはなかなかいい。◎。

プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」第二組曲

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA他)1982/11/6・CD

やはりオケの統制という意味ではピークを越したあとの感は否めないがそこが野卑たロシア風味をかもし、別の面白みで聞ける演奏である。いきなり乾いた不協和音から急くようなテンポの「モンターニュ家とキャプレット家」騎士の踊りがキッチュにすら思え、また客観性が先立っているのにオケはどぎつい音をぶっ放しとなかなかに「スリリング」ではある。トスカニーニ的手法によって考える隙をあたえない感じはこの「読み込んでいってしまうと果てしなく理知的に組み上げられた構造のマニアックな穴に落ちて音そのものを愉しめなくなってしまう曲」にとってはいい方向に働いていると思う。オケの過度な思い入れが弛緩の方向に働かないようにつとめるのはもともと上演バレエ用に作られた素材であることを考えると正しい。まあ、ムラヴィンはプロコと交友こそあれ嫌いだったというけれども、これはけっこうプロコをきちんとやっている。「スピード」そしてリズムだ。踊れると思う。オケはブラスのぶっ放し方もいいが、なかなかに弦楽器が凄みがある。プロコの弦楽器は酷使上等だがきちんと弾けて無いとチャイコ以上にその細密な作曲の手腕(とアイロニー・・・このプラスアルファを付けられるかどうかで凡才と天才の差が出るのだ)の凄みが聞き取れないからタチが悪く、この曲くらいなら皆識っているので大した問題にはならなかろうが、長大なオペラなんかになってくるとけっこうだらしない演奏だと殆どオケなんて聞いてられなくなったりするわけで。しかし最後まで力感は凄いが、醒めてるよなあ・・・ショスタコみたいだ。この組曲にも素材としてストラヴィンスキーや果てはサティの器械リズムまで聞き取れたりするのだが(ワグナーとかそのへんになると他の作曲家もよくやってるのだが同時代から引いてくるところがこの人のあっけらかんとしたいいところだ)、ムラヴィンがロマンティックな意味での色をつけないために原素材の音楽が剥き出しで聞こえてくるところが面白かったりもする。○。

芸風荒れてる理由

若干忙しいのは置いておいて、世界のほうぼうの店に声かけて探していたタネーエフ四重奏団(レニングラード音楽院四重奏団もしくはレニングラード・フィル四重奏団名義)のグラズノフ5番がひょんな近所の店から出たというので、多忙を縫って飛びついたら寸でのところで目鼻のきくかたに買われていたことが理由です(ダビング願いとかそういう無粋なことは求めない)。そりゃ漫画とか描いても荒れるわな。

つか、そんな盤余り欲しいのか?といわれれば今の自分はけして欲しくはないのだが、室内楽はわかりやすいのでここの記事も書きやすい。

ここの記事がとどこおっているのは多忙に加え殆どCKBばっかり聴いてるからだが(クレイジーケンバンドですね)たまに東京事変も聞きます。アシッドジャズ好きを自認して10年以上になるのでJAZZTRONIKとかそのへんは別ブログにアウトソースしているわけだが、今、そこはなぜか「連作」四コマ漫画にハマりだしてしまったので、更に別の場所を設けるか思案中です。

ポリス来日公演(来年2月)はいつ発売だ。そのあたり、仕事がどうなろうと武道館へ駆けつけるわけだが。たぶん武道館だよなあ。・・・てメンタリテでクラシックを聴くわけがない。シベリウス?大昔の寒い国の人でしょ。偉大な芸術家が岡本太郎だったって気がつかない。

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シベリウス:弦楽四重奏曲「親愛な声」

○スメタナ四重奏団(INA)1956/6/12ヘルシンキ・シベリウス祝祭live・CD

ピアノトリオなどをやっているとつくづく弦楽四重奏のアンサンブルとしての面白さに気づかされる。やはり同じ音質・音数の楽器同士であわせるというのは絶対的な支配者になりうるピアノをまじえたアンサンブルに比べて「簡単」であるからこそアンサンブルとしてより高度なやりとりができ、また求められるものだなあという感慨を持つ。スメタナは凄い。ライヴならではの熱気もある。ただ、解釈自体は生硬で抽象化されすぎている感がある。シベリウスの作風過渡期のものであるからこそ、多少のロマン性も残されるべきだし、それは単なる音量変化やアーティキュレーション変化の付け方に留まらず、ロマンティックな観点から自主的にのめりこむような態度を必要とするものだ。1楽章の無味乾燥にとくにそれを感じた。楽章がアーチ構造の組曲風のものであることから、急峻な2、5楽章についてはスメタナここにありといった非常に緻密で集中力の高い演奏ぶりが胸のすく思いをさせてくれるが、5楽章の最後にしても古典風の楽曲の盛り上がりにもう少し気持ちがついていっていてほしいし、また緩徐楽章である3楽章にはいくぶん気分がのっているところも感じられはするが、ラフマニノフを想起するような後半部などやはり、この団体の芸風の一種「限界」を感じさせる。そもそもこの曲を余りやらなかったのもわかる気がする。アンサンブル的にさすがシベリウスでマニアックな構造やら響きやらがつぎこまれ面白いことは面白いのだが、スメタナQ的には物足りなかったか。激烈とまでもいかないところもこの団体らしい。○。


ミヨー:オパス・アメリカナム2番(「モーゼス」)

作曲家指揮ORTFのメンバー(CAPITOL)LP

陰鬱とした大管弦楽曲である。しょうじき聴きとおしても何か腑に落ちないような感じは否めなかった。大交響曲の晦渋な緩徐楽章をえんえんと聞かされるかんじである。それでもオネゲル風の構造の面白さや真面目な顔のミヨーを真摯に受け止められる局面もあるのだが、録音が古いのも手伝って少々辛い。別に演奏だけのことを言っているわけではないが、無印。


フレンニコフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

○L.コーガン(Vn)コンドラシン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)

フレンニコフが諸所でやけに目に付くと思ったら先月亡くなったそうで。。。前に紹介したDVDなど見直すことをお勧めする。48年の有名な「批判」でのプロコなどに対する糾弾は悪名高いがこの曲などほとんど、平易な作風に落ち着いた晩年のプロコが美しく力強い旋律を駆使して多少長めに作り上げた、といったふうの作品である。このあたりの作曲家の間には大した距離はなかったのだ。後年擁護の言をとったというのも当たり前かもしれない。この聞きやすさの裏にある目覚ましい機械的な構造は後年のカバレフスキーの余りに民族に阿った作風よりよほどショスタコ・プロコふうにとんがっている。シェバーリンの弟子という位置づけにあるがいろいろな想像を生む話でもある。これは初演メンバーによる演奏である。コーガン最盛期ってこのあたりなのだろうか、すさまじく正確でそれでいて憂いまで帯びたような演奏振りは、この旋律だけで突き通された楽曲を非常によく弾きこなしており、むしろコンドラシンのバックが鈍重と思えるくらいだ(終楽章のピッコロなどひどい)。非常に聞きやすいのに新鮮な感触の味わえる、円熟味の感じられる曲であり、構造的な単純さはともかく、いい演奏で聞けばカタルシスは得られよう。それにしても、ソヴィエトはほんとうに、遠くなった。

シベリウス:交響曲第5番

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ROCOCO)live・LP

ROCOCOは詳細情報が一切記載されず、正規音源で出ているものよりマスターに近いものからの復刻もあれば悪質なエアチェックもある。これも情報が無いので既出盤と同じかどうかはわからないがクーセヴィツキーのライヴ盤としてはかなりクリアに細部まで分離して聞こえる良質なものと言えるだろう。スコアをめくる音さえ聞こえる。意思的に突き進み揺らぎの無い自信は作曲家の賛美を背景にしたもの(シベリウスはしょっちゅう指揮者を賛美したが)、オケもそれに応え聞きごたえのあるアンサンブルを力強く提示してくる。これをライヴで聞いたらかなり圧倒されることだろう。オーマンディのスタジオ盤に魂を篭めたようなかんじだったろう(オーマンディも素晴らしいが)。圧倒的なクライマックスに向けて全楽章で盛り上がりを構築するというよりは、冒頭よりひたすら太筆描きで前進していきその結果としてクライマックスが出来上がるといった風だ。私は好きである。○。


音感がものすごく上がる

病み上がり(?)に楽器をやっと手にとったらボロボロでしたが・・・もう遅い。それより恐ろしかったのが音感が今度は物凄く上がっていたことで、相対的な音程がとれない。チューナーがおかしくなったのではないかと思うほど楽器の響き方の軸が違うので、秋だなあ、と思った。つか明日の練習どうすんだこんな状態でorz絵はどんなに調子が悪くても取り繕えるが瞬発力と記憶力で構成される音楽はそうはいかない。ううう、ごめんなさい。

・・・あ、ほんとだ、ダイバスターのテーマを聴いたら確かに音程が低くて気持ち悪い。これは耳が悪いのか頭が悪いのか???恐ろしいなあ。

ホルスト:組曲ホ短調~Ⅰ.行進曲(ジャコブ管弦楽編)

○ボールト指揮ロンドン・フィル(LYRITA)1973/11/13・CD

派手なブラバン曲でどこを管弦楽編曲したのかよくわからないほどにすぐに終わるが、ホルストの曲がそもそも内容的に大曲指向であり余り小規模な曲では魅力が十分伝わりにくい側面をよくわからせてくれる。ボールトも覇気に満ちた老齢とは思えない指揮ぶり。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:歌劇「すずめばち」~鍋の前の行進曲

○ボールト指揮ニュー・フィル(LYRITA)1973/9/19・CD

RVWらしい民謡旋律の横溢する鄙びた雰囲気満点の曲で好みは別れるだろうがRVW好きには「いつものRVW」である。ボールトはお手の物であろう。この小品集には他より洩れた珍曲が多いがこの曲も序曲以外余り紹介されないので、こういう復刻は歓迎だ。○。

ウォルトン:「ハムレット」より葬送音楽

○ボールト指揮ロンドン・フィル(LYRITA)1973/11/13・CD

映画音楽のしかも典型的な葬送音楽で特に言うことは何もないオーダメイド臭ふんぷんの曲で、あきらかにラヴェルやプロコから剽窃してきたような楽想・和声の巧く組み合わされた感じに僅かにウォルトンらしい妙な装飾音を織り交ぜた強い旋律によって突き通された悲劇的な曲だが(綺麗は綺麗である)、ボールトはそれほどウォルトンを得意としていないせいかどうも透明感がなく、いやこれはこれで完全にハムレットの悲劇的シーンを描ききった名演と言えるが、ウォルトンを聴いている感じがしないのである。とにかくコノ曲では評価のしようがないが、ボールトにそもそもウォルトンの根幹に流れるシニシズムを表現する気もないわけで、まあ、これは小曲を表現できる範囲で表現した、といった感じか。○。

ディーリアス:マルシェ・カプリス

○ボールト指揮ニュー・フィル(LYRITA)1973/8/15・CD

ボールトのディーリアスはきわめて珍しいが、ディーリアスの特にしっかり描かれた最盛期までの作品はドイツふうの重量感のある和声と明確な旋律性を帯びており、リズムは明確に打ち出されるもののそれほどリズミカルになる必要もないからボールトには寧ろ向いていると思う。この演奏もかなり上位に置ける素晴らしく立派な演奏になっており、晩年のボールトがまだまだ指揮において衰えをみせていない、しっかりした足取りにディーリアスのまだ初期の香りをとどめた民謡風旋律にも格好悪さを感じさせない響きの重量感で演奏を非常に上手くまとめている。短いのでこれだけで評価というのは難しいがボールトらしさというのが渋くて鈍重というイメージでは語れない部分というのを感じさせる演奏。RVWが演奏できてディーリアスが演奏できないわけはないのだ。

病床

仕事量はそれほどでもないので、主として精神的な部分起因だとは思いますが朝から寝込んでおります。蓄積疲労が身を削っていたようです。昨日までは張り詰めていたのとドリンクを飲みまくっていたのでなんとか持ちこたえていましたが、今日は駄目のようです。三日休みが確保できているのが救いですが月曜はトリオの練習です。練習もままならなかったここのところですので、明日は少しは弾いておかないと「口だけ男」になってしまいますw←「w」をつけるのも億劫なほど体が動きません。大丈夫でしょうか。遅い夏休みをとってしまう予感がします。まあいろいろあって家にも居づらいので・・・四面楚歌な状態。ここのところ音楽を聞くのもほとんど↑なポップスロック系になっていたのでクラシックから離れています。ミュンシュのフレンニコフという夢のような盤が手に入ったのでそれだけ気合入れて書きましたが、殆どそれだけです。今日は音楽すら聴く余裕はないです。でも文章は打てるのが不思議。。

諸所文句や苦情一切受け容れます。ノロウィルス以来の体の緊急事態です。とにかく寝ます。おやすみなさい。

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

○ナヴァラ(Vc)ストゥプカ指揮チェコ・フィル(arlecchino)1959Live・CD

ナヴァッラの往古のヴァイオリニストの出したような甘い音色が強く印象に残る。とにかく美音である。アーティキュレーション付けの自在さ、滑らかで自然な音のうねりが恍惚とすら感じさせる。ただ、伴奏が凡庸というか、全般にどうも余りぱっとしないことも否めない。それはこの板起こし板の音の悪さに起因するものでもあろう。でも○にはできると思う。ナヴァラを聴く板。


フレンニコフ:交響曲第1番

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(MELODIYA)1959/11ボストンlive・LP

珍しい録音でモスクワ録音とされたこともあるようだがボストンと明記されている。メロディヤではモノラルだが原盤はRCAでステレオの可能性が高い。モノラル末期の比較的良好な録音だがライヴなりのぼやっとしたところは残り、裏面の協奏曲(コーガン、コンドラシン)のほうが数倍クリアである。最初から最後まで焦燥感に満ちたえんえんと続く激しい愚痴、といった曲だがソヴィエトのリアリズム作家に典型的な作風が発揮されているともいえる。ただ、オケが洒落ているのと指揮者が統制力のある人であるために曲の価値が数倍上げられている感があり、ソヴィエト特有のお定まりの盛り上がりもショスタコ的な骨ばったものではなくかといってピストンやらアメリカ・アカデミズムの平易で安易なものでもない、「フレンニコフってなんだかんだいって独特の才能があったんだなあ」とまで言わしめる起承転結を曲想にあわせしっかりつけた演奏になっており、ブラヴォー大拍手も「いつもミュンシュが浴びているたぐいのものではなく」真にこの珍曲を名曲に仕立て上げたミュンシュとBSOへの賛辞と受け取れる。けしてミュンシュは洗練された指揮者ではないと思うのだがここではやはりロシアの指揮者と比べて数段スマートでまとまりいい演奏をする人、という印象が残った。○。


マーラー:交響曲「大地の歌」

○フォレスター(CA)ルイス(T)ライナー指揮シカゴ交響楽団(RCA)1959・CD

SACDで復刻されているが、元の録音がどうしても旧く、前半楽章では所々に旧いなりの瑕疵が認められる。だがこの歌唱陣は反則だ。とくにライナーの珍しく心象的なものの入り込みすら感じさせる深い呼吸の中に暗く大きなマーラー世界を描き出し秀逸な「告別」の中で、囁くような、そくっと染み入るような非常に繊細なフォレスターの歌唱がもう素晴らしすぎる。これこそ絶唱というものだ。それは絶叫ではない。じつに自然に、じつに静かに、じつに美しく、注意深いヴィブラートのさまはびろうどのように滑らかで柔らかくしっとりと心に染み入る。そもそもライナーはわりとシェルヒェン的なマーラーというか、ややぎくしゃくした軋みを生じる彫刻を伴った、かなり解釈の感情的なマーラーをやっているが、いっぽうで醒めた感覚が聴取者と一定の距離を保つような感じもあり、各楽章のコントラストも余りはっきりしていないせいか歌唱は素晴らしく演奏は器用ではあるもののそれほど印象に残りにくい。けっこう過激なのにそう聞こえない悲しさがあるのである。だがやっぱり「告別」となると曲が線的で解釈の綾が目立ちやすく、歌謡に支配された室内楽的なアンサンブルなだけにワルター的なドライヴを余儀なくされるところもある。表面上は冷徹なライナーもワルターと化してしまう、そういう曲なのである。とにかくまあ、演奏も立派だが、それ以上にフォレスターの静かな絶唱に傾聴。○。


ブラームス:交響曲第2番

C.クライバー指揮シカゴ交響楽団(MEMORIES他)1983/7LIVE・CD

正直このモノラルと聴きまごう悪質な音では評価のしようがない。スピーカの前でテープ録音したような感じだ。演奏自体も終楽章の愉悦性にこそらしさを感じさせるが基本的にCSOがブラームス向きとは言い難い「冷たいオケ」であることも手伝って、殆ど印象に残るところがない。その終楽章にしてもスヴェトラの演奏くらいの統率力に聞こえてしまうのは録音が茫洋としているせいか。何か壮大感を誤ったかのように一音一音が締まらずだれているのだ。だからといってスヴェトラ壮年期のような強引なまとめの面白みや内から漲る力感もない。慣れている感じはしてもかなでているという感じがしない。これも録音のせいかもしれないけれど。無印。マニア以外不要。
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