フランツ・シュミット:交響曲第2番
珍しいライヴ。クリッツはこのブルックナーの流れを汲む末流ロマン派交響曲作家の代表格たる作曲家の弟子である(カラヤンも学んでいるが演奏記録は限られている)。シェーンベルクと同い年でありながら文学性を帯びた表現主義的前衛性を前面に出すことなしに、あくまで純粋な音楽としての技巧的先進性を追及した理論家でもあり、保守的とみなされるのは主にいかにもウィーンの古きよきロマン性をかもす主題、ワグナーからの流れをくむ自由でありつつ耳心地いい和声によるものであって、分厚いオルガン的音響と耳に捉えられないくらい細かな機構の、うねるように変化し続ける複雑な様相、既存のロマン派交響曲に囚われない有機的な楽曲構成への挑戦が新古典主義の堅固な構造と組み合っているさまはブラームスの流れをも汲んでいることを示している。
死後、ナチス協力者の汚名が晴れてのち少しずつ認められていったが、この人には華々しい使徒がいなかったのが不幸であった。クリッツも華々しいとは言えない。少数の室内楽やオラトリオを除けば演奏機会は少なく、やっと10数年前ヤルヴィや大野氏が注目し演奏録音したものの、今も余り脚光を浴びてはいない。正直前衛が受けない時代に何故この絶妙な立ち位置の作曲家が取り上げられないのか理解に苦しむが、易い聞き心地に対して(ウィーンの作曲家らしいところだが)声部剥き出しだったりソリスティックでトリッキーな部分の多い比較的演奏が困難な楽曲であることは大きいだろう。チェロの腕は有名であり、職業演奏家としてマーラー時代を含む(マーラーを嫌ってはいたが受けた影響は指摘されている)ウィーン国立歌劇場オケの主席をつとめていたが、弦楽アンサンブルに対するけっこう厳しい要求がみられ、クリッツが生涯育て上げたこのオケにおいてもばらけて辛い場面が多い。同時代を知っている演奏家によるライヴ録音はミトロプーロスとクリッツのものだけだそうだが、分は悪いと言わざるを得ない。
解釈が生硬に聞こえるのもオケが厳しいせいかもしれないが、ともすると旋律追いになって完全にブルックナーの和声と旋律だけで出来上がった単純な交響的大蛇に聞こえてしまう曲を、構造面をかなりクリアに浮き彫りにしようとしていて、立体的なつくりがよく聞こえる。2楽章の中間部、ハイライトたるべき魅力的なワルツ主題もそれだけが浮き立つのではなくそこを盛り立てるための内声部の明快な組み立て、魅力的な和声変化の鮮やかな表現にクリッツの意図は汲み取れる。けして指揮者としての腕があるようには聞こえず学究肌に聞こえる、これは結局シュミットが使徒に恵まれなかったということに繋がることだが、それでも、数少ない演奏の一つであり、晩年のクリッツの境地を知る資料ではある。録音がかなり辛い。○にはしておくが。
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フランツ・シュミット
本サイトのフランツ・シュミットの項
ペナリオ死去
L・ペナリオ氏死去/米ピアニスト
この終の病は音楽家には致命的、しかし芸術家としての命運を絶つ力はない。現に罹患したといわれる音楽家も歴史上に名を残している。絶望こそが人を殺す。希望は永遠の生をもたらすことすら可能である。
ペナリオは90年代には既に引退していた。録音は技術的に最盛期であった60年代までのものが殆どである。50年代に花開いたアメリカのクラシック演奏スタイルを象徴する華麗なプレイ、ドライな解釈、完璧な技巧が現在忘れ去られているのは悲しいことだ。ドイツ至上主義の鈍重な日本人には受けの悪い人だが、ガーシュインアルバムだけでもその名は永遠の光をはなち続ける。
ペナリオ
Gershwin SongbookGershwin,Leonard PennarioCapitolこのアイテムの詳細を見る |
![]() | ブラームス:ピアノ三重奏曲第2番ハイフェッツ(ヤッシャ)BMG JAPANこのアイテムの詳細を見る |
ラヴェル:「道化師の朝の歌」管弦楽編曲
録音は厳しいが曲の要求する俊敏さとかキレのよさがまさに発揮されたなかなかの演奏。この曲は原曲もそうだが「狡猾な」演奏センスが要求される。ソロ楽器のミスがない云々よりも(得てしてマニアや職業演奏家はそんなところを聞きがちだが)、トリッキーなリズムや繊細な不協和音、装飾音をぴっちりパズル構造に組み込んで、なおかつ浮き立つような「微妙なズレ」を持ち込んだ舞曲に仕立てなければならない。パレーは基本的にいつもと同じではあるが、力づくの前進性だけではなく、それに沿うように「構造」をぴちっと仕上げてきており、複雑だが無駄のない書法を省かず全て聞かせる。解釈を手抜かれるとわけのわからない散漫な曲になりがちでもあり、かといってただ単純化されたり整理されたりするだけではただのアンコールピースのようになってしまう。「ジグソーパズルのピースが全て明らかに見えてなお全体像もしっかり焼き付けられる」、ラヴェルは全体像だけ見えればいい音楽を描いてはいない。しかもそのパズル画は静止画ではなく時間経過に従い常に動いているのである。難しいものだが、パレーはさすがだし、オケも曲に適した硬質な表現技術を会得している。ライヴだから雰囲気も素晴らしいということもあって、これはなかなか。
(参考)正規盤
![]() | イベール:寄港地デトロイト交響楽団マーキュリー・ミュージックエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
ラヴェル:組曲「クープランの墓」管弦楽版
これも恐らく既出盤と同じだろう。硬質で瑞々しいNBCSOとミュンシュの前進的で締め付ける指揮が、ラヴェルという硬軟手綱さばきのかなり絶妙さを要求される楽曲で爽やかに組み合ってかなり聞ける演奏になっている。さすが同時代ラヴェルの権威であったミュンシュの経験が指揮者としての個性を上回り一部演奏にみられるハメを外した表現はない。ちょっと「強すぎる」感はあるが。雑音が厳しく、その点で最高評価はできない。
同一日収録:ドビュッシー「イベリア」ほかルーセルのバッカスとアリアーヌが演目(録音あり)。
ホルスト:惑星
BBCオケ時代のボールトの貴重な客演記録だが、この指揮者はオケによってかなり相性の問題があり、ボストンのような中欧的なオケとは相性がいいと思いきや、何かアメリカの二流田舎オケを聞いているような、あっけらかんと明るくもばらけたアンサンブルを聞かされてしまう。特に前半乱れる。ヴァイオリンが好き勝手に歌い(曲に慣れていないせいで魅惑的な旋律をソリスティックに歌ってしまったのだろう)、ブラスは下品に吹きっぱなし、木管は技巧的フレーズを吹きこなせず、ティンパニのみがしっかりリズムを締める。VPOとの惑星もこうだったように思う。オケのセクションがバラバラになる、これは練習時間が足りないせいなのか?それでも説得力はあり、最後には聴衆の盛大な拍手が入るが、古い録音でもあり、ライヴなりの面白さだけを聞き取るべきか。その点、各楽章間にアナウンサーの解説が入り、わかりやすい。惑星はアタッカでつながった曲ではないのだ。マジシャンの、デュカスをカリカチュアライズしたようなリズムにはっとさせられた。ああ、惑星の名前にしばられてはいけないのだ。ホルストは完璧なオーケストレーションを目指し、曲の中身よりもそちらの整合性を重視しているようなところがある(じじつ編成をいじることは自らやむを得ず作った小編成版以外禁止していた。ジュピターもアウトだ)。だがやっぱり表題性をちゃんと意識して聴くと非常に世俗的な目から神秘主義を見つめたなりが面白く感じられる。○。
(参考)正式には五回録音していると言われる初演者ボールト。どれが好みかは人によるだろうがイギリスオケに越したことは無い、イギリスオケでやるように解釈されている、と言ってもいいセンスが反映されているのだから。民謡旋律を木管ソロでえんえんと吹かせる、などいかにもだ。この曲を一面真実であるスペクタクル音楽としたのはオーマンディやカラヤンだが、ボールトはあくまでRVWらと自らも同時代者として新民族主義的見地から、そして少し古風な重厚さをもってさばいている。惑星を浅薄と断ずる人はボールトを聞くと理解の仕方がわかるだろう。ただ、人によってばらけた演奏とか(上記ライヴはそれが極端にあらわれた状況ともとれる)躁鬱的とか感じるかもしれない。
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手に入りやすく、聞きやすいのはこちら五回目の録音。わりと上記のようなお国モノとしての個性は薄まっている。
![]() | ホルスト:惑星ボールト(エードリアン)EMIミュージック・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
レビューもたくさん書いてある。あまりマンセーなのもどうかと思うが・・・
ラヴェル:ピアノ協奏曲
「この面子が揃ったにしては」僅かに瑕疵はあるものの、非常に充実感のある演奏。ラヴェルに充実感という言葉は似合わないがロン最盛期はこうだっただろうなあというマガロフの腕、パラパラそつなくも繊細明瞭で高精度なピアニズム(ラヴェル自身に好まれたピアニストはみなこんなかんじ)、録音もよくマルケも前進的なテンポと的確なリズムで(マルケのフランスものの中欧オケライヴは素晴らしい、VPOとの「海」はARKADIAの不良盤以降耳にできていないがどこか出さないものか)緊密なアンサンブルを維持している。厳しく真面目だったとも言われる演奏家で際立った特徴は指摘しかねるが、ラヴェルのコンチェルトはいいものであればあるほど個性が見出せなくなるものでもある。そういう作曲家であったのだから。そういえばピアニストと指揮者は一応同郷か。エアチェックレベルの録音と個人的好みで○にとどめておく。
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(参考)マガロフのラヴェルやフランスものはいくつか現役だが最晩年のこれを挙げておこう。
![]() | Magaloff-DeBussy/Faure/RavelMusidiscこのアイテムの詳細を見る |
アイヴズ:祝日交響曲~Ⅱ.デコレーション・デイ
縁深いミネアポリスオケとのこれもレクチャーコンサートで取り上げられたもので、アメリカ音楽特集の一曲。コープランドの説明は通り一遍のものだが(「祝日交響曲」の楽章(2)という説明をしているが元々は独立した作品)、アメリカ・アカデミズムの申し子がこの前衛祖派のアーティストを、何だかんだ言っても西欧音楽の伝統に楔を打ち込んだ”音楽史上のモニュメント”として尊敬し、クラシック音楽における真のアメリカニズムを(”アイヴシング”という言葉でアメリカ的ですらない孤高のような言い方も混ざるが)体言した作曲家としている。演奏でもそこに古きよきアメリカの風土伝統を見出そうとしているかのように優しい。
アイヴズが生地ダンベリーから大学でイェールに移り、更に長らくニューヨーカーとして実業との二重生活を送った、その流転ぶりを説明する中、保守的な風土の故郷ではほとんど評価されなかったのにひたすら故郷を描き続けた、という部分などなるほどそうだと思った。会社の副社長として辣腕を振るいながら、「個人的な意見では」世界で最もオリジナリティ溢れる作品を作り続けたことを、「想像できない」、としている。コープランドはアイヴズを表向きはアマチュアとして退けたが、それはプロの作曲家としての技術においてのみであり、音楽はけして理解していないわけではない、少なくとも一部の素朴な曲は愛好しピアノでかなでていたと言われる。ここでは愛しているように聞こえる。
〜1973年開催されるヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに、コープランドは6分の短い曲を提供した。それは英語で「夜想」とだけ記された。コープランド最後の独奏曲集におさめられている同曲は老いの諦念を感じさせる静けさに満ち、硬質な響きを伴いながら、なぜか仄かに抒情が宿っている。正確に構成された課題曲であるものの、雰囲気には冷えた北部の空気が感じられ、ある作曲家の最も良質の作風を想起させられざるを得なかった。その副題は「アイヴズ賛」という。アイヴズを追悼した著名作曲家の曲を、私は他に知らない。2012年、同コンクールの記念コンサートにて、ソン・ヨルムにより再演された。〜
あくまでアカデミズム側からの解説解釈であり、演奏もアイヴズの立体的で完全に複層的な音楽を単線的な旋律と精妙な和声の音楽に整理し換骨奪胎している(だがアイヴズの演奏法としてこれは一般的である)。時間軸は精密に追っているが上に積み重なる音楽の層は構造的ではなくあくまで和声的なものとして処理している。
ここで実感されるのはアイヴズが素材だけでも実に才気溢れる素晴らしいものを持っていたということで、既存素材の流用にしても選択と利用方法が的確。デコレーション・デイと聞いてかつてのニューイングランドの若者が誰でも思い浮かべる情景をうつした「音画」(コープランドはこの言葉でアイヴズの描こうとした世界を適切に説明している)、元来ごつごつした像のぶつかり絡み合う前衛抽象画であるものを見やすく印象派絵画に描きなおしたものとも言えるが、ただ、この曲は(デコレーション・デイの情景を知らない者にその祭日の時間軸に沿った音楽の変化自体の意味は伝わらないだろうが)それほどぐちゃぐちゃではなく、アイヴズも印象派的な感傷性をはっきり残しているので悪くは無い。だから逆説的にコープランドも振ったのだろう。録音は左右が揺れるモノラルというちょっと聞きづらいもの。○。
(参考) 祝日交響曲としてはティルソン・トーマス/シカゴ盤をお勧めします。
![]() | New England Holidays: Music by Charles IvesSonyこのアイテムの詳細を見る |
75年BBC交響楽団とのコンサート録音についてはこちら
ロックフェスタ帰りにしっくりくるアイヴズの音響的音楽 :デコレーション・デイについて説明しています。
アイヴズにかんするいくつかのこと。
アイヴズ、マーラー、シェーンベルクそして死
アイヴズについて考えているいくつかのこと
サイトの項目:アイヴズ
本ブログのアイヴズのカテゴリ
STING、ダウランド歌曲集ライヴをオーチャードで再開
UDO告知より転載

12/17(水) Bunkamura オーチャードホール 午後7時開演
12/18(木) Bunkamura オーチャードホール 午後7時開演
【料金】S¥12,000 A¥11,000(座席指定/税込)
先行予約受付期間:6/25(水)11:00〜7/11(金)18:00
*各公演とも限定1,000枚の受付となります。限定枚数に達し次第受付終了となります。
*ご予約はお一人様2枚までとさせていただきます。
一般予約受付期間:7/12(土)10:00〜
*ご予約はお一人様2枚までとさせていただきます。
12/20(土) フェスティバルホール 午後6時開演
【料金】S¥12,000 A¥11,000(座席指定/税込)
先行予約受付期間:6/25(水)11:00〜7/18(金)18:00
一般予約受付期間:7/19(土)11:00〜
ウドー告知
正直ダウランドはそれほど好きではないので、ほんとは別にいいかと思っていましたが。。DVDも買ってないし。スティングの歌唱はあってます。クラシック畑から見て昔よりずっといい。CDレビューはこちら。
ライヴレポはこちら>といってもこのブログの趣旨に沿った部分のみになります
![]() | ラビリンススティングユニバーサル ミュージック クラシックこのアイテムの詳細を見る |
DVD
![]() | ジャーニー&ラビリンスユニバーサル ミュージック クラシックこのアイテムの詳細を見る |
ベートーヴェン:交響曲第7番
○シェルヒェン指揮スイス・イタリア語放送ルガーノ放送管弦楽団(ARIOSO,PLATZ他)1965/3/19live・CD
初出時にはそのとち狂った速さとテンションと雑さと吼え声でマニアをあっと驚かせたシェルヒェン最晩年のルガーノライヴで、ウェストミンスターの素っ気無い大量録音指揮者シェルヒェンのイメージを一変させ、後支持者をやたらと増やすことになったべト全である。骨董ライヴCD販売におけるエポックメイキングな盤群でもあり、マイナーレーベルの日本盤発売を待てないという(私も含む)マニアに対し、バブル崩壊時満を持してあらわれた外資レコードショップの日本進出という現象とシンクロしてもいた。このあたりから神経質な日本のマニアの世界でも音盤における演奏瑕疵があるていど許されるようになり、却って面白いライヴや戦前録音がたくさん出回るようになった。思えば骨董CD黄金期でもあった。
これはシェルヒェンでは唯一と思われるステレオ優秀録音によるライヴ録音集でもあり、他の悪音のものに比べても価値は高い。当初日本盤の分売であったが現在ARIOSOから廉価ボックス化している。この曲あたりが一番シェルヒェンライヴらしさがあらわれており、まずとにかく異常なスピード、必死についていくハイテンション二流オケ、それでも縦をびしっと揃えようというドイツっぽい整え方、その鋭い音符のキレ、芸風的に緩徐楽章が面白くないことを除けばこのハイテンション交響曲にはうってつけ。終演後も大拍手が入る。惜しいのだ、緩徐楽章をもっとデロデロにしてコントラストをつければ・・・いやドライな分析家のシェルヒェンにべトでそれはないだろう。○。
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これはPLATZ再発盤。全集もあるがえらく高い。外盤はライナーが無い(ARIOSOは録音日すら記載がない)ので注意。
ヘルマン・シェルヘン ベートーヴェン交響曲ルガノ放送管弦楽団プラッツこのアイテムの詳細を見る |
(参考)ウェストミンスターのスタジオ盤はこちら。ウィーン国立歌劇場管弦楽団。
ベートーヴェン:交響曲6&7番ウィーン国立歌劇場管弦楽団MCAビクターこのアイテムの詳細を見る |
プロコフィエフ:交響曲第5番
LYS(DANTE)及びASdisc盤が11/17ライヴとなっており、同一演奏の可能性が高い。DAとはエアチェック音源が違う可能性はある。
クーセヴィツキーはプロコフィエフを愛好し、在米中は親交も深かったようだが帰国後はよく知らない。どの演奏にも共通した芸風として、最初から最後まで速い直線的なテンポと強いリズムの上に、いかにも弦楽器奏者らしい滑らかにうねる分厚い旋律を載せていくといった方法をとり、精力的な指揮には違いないのだが、演奏する曲によって多少はやり方を切り替えていて、プロコの場合より鋭い音符の切り方をし弦楽主体のオケ特有のロマンティックな曖昧さをプロコ特有の立体構造から抜こうとしている。録音が悪くてわかりにくいが、スコアリングが明確にわかるような、ラヴェルなどをやるときの理知的な(ある意味単純な)整理方法を施している。
だがやはり血というべきか、3楽章や4楽章序奏部の異様なルバートぶりは、歌謡的と一言で言うけれども、それは明らかにロシア民謡の濃厚な世界なのである。われわれの想像する軽やかな歌ではない。この人の緩徐部はかなりテンポ・ルバートするもののけして全体的なフォルムが崩れず、通しの中ではインテンポに聞こえてしまう。それは(作曲家にではなく指揮者に)意図的に施されたルバートが、決められた短時間に、たとえば譜面上の数小節の間に計算されたようにきっちりおさまるからだ。音量変化も表情付けもそれに沿われ濃厚に付けられている。
もちろんどんな演奏も原則的にはそういうものなのだが、ここまで予めきっちり解決されるように作られ設計されている、メンゲルベルクなどもっと名人芸的にあけっぴろげにやっているが、素人でもできそうな数学的な方法だけれども、それがこう違和感なくスムーズに聞けるというのはプロフェッショナルな神業なのである。バンスタはこの曲を得意としたが、クーセヴィツキー譲りなのだろうか。それほど遠い演奏様式ではないと思う、NYP時代は。
終盤で録音音量がガクンと下がるのが惜しい。客席反応もよく、名演であったろうと思われるが、録音状態は推して知るべき。○。
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(参考)クーセヴィツキーの正規盤。1946/2/6,7録音
![]() | Prokofiev: Symphonies Nos. 1 & 5RCAこのアイテムの詳細を見る |
バーンスタインのプロ5。意表を衝いてイスラエル・フィルのほう。
![]() | Prokofiev;Symphony No.5/LieSony Classicsこのアイテムの詳細を見る |
クーセヴィツキーについてはこちら
バーバー:弦楽のためのアダージオ
こんな歌謡的なアダージオは初めて聴いた。高音域中心で流麗に歌われる哀歌。響きも輝かしく美しいが、祈りの雰囲気はまったくなく、ただ悲劇の追憶にまなざしを遠くする。録音は余りよくないし、パレーはこの曲をほとんどやっていないが、個人的にはトスカニーニとは別種の感銘を受けた。ちっとも祈ってなんかいない、でも名演には違いない。いつもどおりあっさりと速いながらも、歌の流れに従い自由に細かい起伏がつけられそこはかとなく哀しい雰囲気を盛り立てる、これこそパレー節なのだと理解させられる。◎にしたいが正統ではなかろう、○にしておく。
この演奏が非常にわかりやすいために気づいたようなものだが、クライマックスやその周辺のコード進行でふと、アイヴズの調性音楽を思い出した。これはわかりやすいところで言えば交響曲第4番の3楽章、それに第3番に似ている。アイヴズは宗教的作曲家であったが、バーバーもまたそういう地盤の上にいた。音楽的には対極でいながら同じ方向を向いている。クラシック音楽におけるアメリカニズムというものがしっかりこの時代に共通地盤として存在していた、ふと感慨深く思った。
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(参考)この盤はアイヴズの弦楽四重奏曲も収録しており、その1番の緩徐楽章とバーバーの中間楽章(アダージョの原曲)を比較して聴いたりしてもいいかも。アイヴズの室内楽曲の多くは幼時の宗教的経験を背景にしている。
![]() | American OriginalsDeutsche Grammophonこのアイテムの詳細を見る |
ベートーヴェン:交響曲第7番
フィラ管とのベートーヴェンはライヴ記録がいくつか残っており、いずれも精度より力づく、というクレンペラーらしさが他のフィラ管指揮者と違う演奏をひね出しており面白い。とにかく洒脱さ流麗さは皆無で、音の重さが違うしリズムの重さが違うし、ただでさえ物凄いフィラ馬力がすべて縦の方向に地面を踏み鳴らすために使役されている。さすがに終楽章の遅さは如何ともしがたくちっとも前に向かわない演奏、音符間の空疎さに違和感しきりだが、録音の悪さが迫力を増している側面もあり飽きることは無い。ほんとうに独特で、ある意味クレンペラーのべト7の究極進化形とも言えるかもしれない。華麗なフィラ管にここまでドイツ臭く雑味の濃い音はクレンペラーにしか出せない。この遅さ重さにもかかわらず大ブラヴォで終了。○。
クレンペラーのべト7についてはこちら
ドビュッシー:管弦楽のための映像~Ⅱ.イベリア
ミュンシュのドビュッシーは大量にライヴ録音が残されているのでいちいち追うのはやめたが、ついでに入っていたものは取り上げてみる。これは既にCD/CD-R化されている1954年3月とされているものと同じだろう。
芸風が比較的一緒なのであとはその場のノリとオケの精度と、何より録音状態なわけだが、この録音は放送エアチェックものにしてはいいのではないか。モノラル末期のいい録音、といった風情である。演奏はわりとスタジオ的な精度を保ち、それに加えてライヴなりの迫力が迫ってくるなかなかのもの。強い合奏力をもった弦が大きくうねり、アメリカ黄金期のブラスが強烈に短く切り詰めた音符を吼えたてる。木管も負けてはいないしパーカスは強調。つまり全パートががなりたてる演奏だ。ただロシア的な阿鼻叫喚ではなく、ミュンシュという統率者によって隊列を組み破裂しそうな内圧を抱えて進軍していくのである。・・・という書き方は全てのミュンシュライヴに当てはまる。あとはそのボルテージをどの程度と評価するかだが、10を完全テンションとした場合、8くらいはいっているかも。録音がわりといいので、そう感じるのかもしれないが、時々ある「いつもの感じ」的ルーティンな雰囲気は無い。ああ、また一緒の芸風か、ということがミュンシュにはままあるのだが、これはそうは思わなかった・・・往々にしてオケ起因のことでありミュンシュはいつも一緒だとは思う。わりとおすすめできます。
本サイトのドビュッシーの項目に既出盤(TREASURE OF THE EARTH:CD-R)について記載あり
(参考)正規スタジオ盤。「管弦楽のための映像」は全曲です。
![]() | ドビュッシー:海ボストン交響楽団 ミュンシュ(シャルル)BMG JAPANこのアイテムの詳細を見る |
ルーセル:交響曲第1番「森の詩」
ルーセルは漢。作風は所謂印象派、バーバリズムから新古典主義へ時代の流れに忠実に非常に明確に変化したが、変化の間にあいまいさは皆無に感じられる。但し、もともと理知的で無駄の無い単純さへの指向も強く、幾何学的な整合性がきっちりとれた作品を作る傾向があった。数学を好む合理的な人だったからカントゥルムの先生にうってつけでもあったわけだが、比較的初期作品にあたるこの作品においても、ドビュッシー=印象派の影響が濃いとはいえけして非論理的な構成構造はとっていない(そもそもドビュッシーが嫌った形式音楽である「交響曲」なのだ・・・表題はあるにせよ)。印象派の影響というのは主題と和声だけにあらわれ、精緻な管弦楽法への指向は寧ろラヴェルに近い。
極めて明るく透明で美しい音楽は前期ルーセルのメリットが存分にあらわれたもので、この時期だけをとっても非凡な才能であったことがわかる。個人的には一番素直な才能が発揮できていたのはむしろこの頃だと思うし、曲的に好きな時期だ。単調だがそれであるからこそ強い印象を与えるリズムへの指向は既に現れており、後期で濃くなりすぎたオリエンタリズムの曇りや構造起因の響きの重さが無いぶん聴きやすいのは曲のメリットだろう。
デュトワ盤はしばらく殆ど唯一の音盤として親しまれてきた。この人はいい意味で曲の個性の灰汁抜きができる人なので、後期作品の入門には最適なのだが、この曲のあたりは比較対象がもっとあれば「無難」とか言うこともできるんだろうけど、現時点では「最適」と書かざるを得ない。明るく繊細な表現はどこにも心を曇らせる要素が無い。フランス作品を爽やかに巧みに表現していた、いちばんいい時期のデュトワが聴ける。○。今は全集でも廉価でお得。
![]() | ルーセル:交響曲全集デュトワ(シャルル)ワーナーミュージック・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
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<ルーセル:交響曲第1番>
1楽章 冬の森
2楽章 春
3楽章 夏の夕べ
4楽章 牧神と森の精
表題からわかるとおりバレエ音楽的で、言うまでも無くドビュッシーの影響が現れている。20世紀初頭の10年間に描かれた作品であることを考えると、実に「流行に乗りやすい人だった」と思える。ルーセル自身は1860年代の生まれであり海軍経験をへての遅咲きである。ドビュッシー同様、リヒャルトのような中欧音楽に感化された時期が既にあっての作品で、単なる浮ついた若者の初期作品ではないことは明らかだ。
本サイトのルーセルの項目
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
1楽章は雑な始まりかたでやる気を感じないが、緩徐主題の異常な素っ気無さは健在。ここまで新即物主義的な表現だとかなり変な感じがする。さっさと終わらせられるしっとりした場面のあと、テンペストってかんじのトゥッティに入るとオケの集中力が一気に凝縮され爆発。凄まじいパレーが聴けて、ここに持ってくるための布石か、と思わせる。このあたりの力強い揃い方は冒頭と同じオケとは思えない。緩徐主題の回想はスピードこそ速いインテンポなものの、弦の総力を結集して思い切り歌いあげる。こういう設計なのである。運命の鼓動がリズミカルに刻まれ爽やかに終わる。ほとんどおんなじ調子の2楽章も力強いテヌートで貫かれ、速いインテンポのまま音量変化で曲想を継いでいく。「チャイコの憂い」は足りないが無いわけではない。
3楽章冒頭からはさすがにこの高速でスピッカートが維持できず一流オケとの差が出てしまう。反面管楽器群のアグレッシブでスリリングな吹奏は拍手もの。ティンパニもダンダン響いて、音楽は恐竜パレーの独壇場になっていく。ある意味トスカニーニより新即物主義を貫いた演奏と言えるだろう。ここまでドライに突き通したスポーティなライヴはなかなか無い。雑味はあるけど、客席で聴いていたら間違いなく圧倒される怪演。ガシガシという軍隊行進曲のようなリズムに、黄金期デトロイトの自動車工場の機械音を聴け(謎)いつまでもスヴェトラとか言ってんじゃないよ。表現の幅ではミュンシュには及ばないけど。それにしても案外素晴らしいのは管楽器。アグレッシブな木管に拍手。いや拍手には早い。
4楽章はさすがにやつれた表情をきちんと出してくる。ある意味常套的でもある。やや即物的表現を保ちスピードもつんのめり気味なところもあるが、テンポ・ルバートが巧みに取り入れられていて違和感がない。意外と泣きの旋律に感情移入して、歌っている。フランスはチャイコ嫌い国と言われながらも結構好む指揮者がいるのだ。とにかくスピードが速いのであっという間に死の挽歌が低音ブラスから提示され、弦が入ると分厚くスピーディにちょっと盛り上げてしまうけれども、低弦が強く音量バランス的に突出はしない。余韻の無い演奏で心臓はあっさり発作的に止まり拍手も入りやすそうだ。独特の悲愴ではある。○。
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(参考)パレーは協奏曲伴奏以外にチャイコの大曲を正規録音していない。かわりにこれまた独特のラフマニノフの2番シンフォニーを挙げておく。
![]() | フランク:交響曲パレー(ポール)ユニバーサル ミュージック クラシックこのアイテムの詳細を見る |
交響曲第5番非正規盤についてはこちら
パレーについてはこちら
レスピーギ:ローマの噴水
せっかち。リズム。これがパレーの80パーセントを占めており、この演奏も冒頭からつんのめり気味のテンポでひたすら絶妙なリズムが表現されるわけだが、表層的な派手さだけではない、未だリムスキー譲りの濃厚な響きが残る箇所もうねらせるだけの指揮の幅を持っていることがわかる。ライヴでこの速さなので細部にこだわる余裕は無い演奏ぶりだけれど、非常に貧弱な録音においてもおお、と思わせる爆発的推進力やスケールの大きな表現が有機的に織り交ぜられ、この人の得意分野はやっぱりこういう曲だなあ、と納得するものがある。高音で木管アンサンブルが繰り広げられる天国的なメディチ家で、細かい音符の交錯を生命力溢れるきびきびしたさばきかたをしつつ、品のよい雰囲気を醸していくさまはかつてパリでならしたこの指揮者の本領発揮の部分でもあろう。穏やかな拍手。どうしても「ローマの泉」と書いてしまうなあ。間違いではないんだけど。
<パレーについて>
オケトレーナーとしてならした指揮者に共通の単調さにもかかわらず、この人のファンはマニアには多い。最近は作曲家としての再評価も進んでいる。だがわりと表立って取りざたされない。なんでだろう。不当に低い評価をされているのはアメリカにわたってのち殆どフォード村の専従指揮者になってしまい録音もその時期mercuryに集中的に行ったのみで、フランス時代やナチス抑留から流転時代の功績が顧みられないからか。オートグラフも量が出ているからという以前に凄く安い。日本とも縁がないわけではないし、逆にそれだから日本で忘れられないという側面もあるのかもしれない。mercuryは近年、廃盤もまとめてリマスター廉価復刻して一部高額収集マニアの顰蹙を買った。そんなマニア滅んでしまえ(LPで集めろ)。演奏スタイルが安定し一貫しているのでオールマイティに振っているが(アメリカの常で長いロシア曲はカットバリバリだったりもするが)、音盤は大衆向けの小品集が多い。中ではお国のフランスものを聴いたほうがいいだろう。ドビュッシーよりラヴェルだ。サンサンのオルガンは師匠デュルフレが参加しており歴史的価値のある盤。
![]() | ラヴェル:管弦楽曲集パレー(ポール)ユニバーサル ミュージック クラシックこのアイテムの詳細を見る |
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オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
破滅的な音響と爆発的な推進力で最初から最後まで突き進むパレーだが、管弦楽の強烈なリズム表現に派手なデュナーミク変化はいかにも凄まじいとして、合唱・歌唱の扱いがやや雑に感じられるところもある。ソリストはわりと自由に歌唱し、合唱は強烈さをアピールするために敢えて自発的な迫力に任せているようにも聴こえる。比して中盤歌曲の単調さは管弦楽にしか興味がないパレーの意図?とはいえこのわりと散漫なオラトリオの最初と最後の「おお、運命の女神よ」だけでも聴く価値はあり。録音がとくに前半悪すぎるが、パレーのこの曲、というだけで食指が動く人もいるのではないか。そもそもオルフは管弦楽は伴奏と位置づけ、あくまで演劇的連作歌曲として描いているのにこの管弦楽曲みたいな音楽は何だ、という教条主義者はヨッフムでも聴いとけ。新旧どっちの録音を選ぶべきかちゃんと調べろよ。○。そりゃ終演後は大ブラヴォ。冒頭がBGMに使いまわされて久しい運命論的なこの曲だが、オルフの本領はむしろオスティナート・リズムに貫かれた簡素な本編歌曲にある。数々の教育用作品に通じる特有の平易な表現だ。オルフが発掘した「とされている」中世大衆歌の味ももちろん両端だけでは味わえない。体臭をふんぷんとさせながらあけすけに大声をあげる下品さが求められるところもあり、パレーの芸風は曲にはあっている。歌唱は何とも言えないが俗っぽいところはきちんとそれなりにやっている。何よりアメリカだから俗っぽさでは中世ドイツ顔負けである。音色は明るいけど。
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(参考)カルミナ・ブラーナ
67年のヨッフム・ベルリンドイツオペラ管弦楽団他の録音(ディースカウが参加してるけどどうでもいいや)は作曲家監修の定番。個人的には録音や演奏精度はともかく解釈表現にそれほど野性味は感じないが、普通の人は地元バイエルンの荒々しさに感銘を受けるらしい。リマスター新盤のほうが迫力がある。トレッチェル参加の53年モノラル旧録(DG)もある。
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リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード
20世紀の名指揮者シリーズで復刻されたモノラル末期の名録音。スタジオ。速いテンポを一貫してとり、流麗で色彩感に富む演奏を聞かせてくれる。木管ソロのいずれもニュアンス表現の素晴らしさは言うに及ばず、再興ACOの黄金期と言ってもいい時代の力感に満ちた素晴らしくスリリングなアンサンブルを愉しむことができる。ベイヌムは直線的なテンポをとりながらも構造的で立体感ある組み立てをしっかり行っており、同傾向の力感を持つクーセヴィツキーなどと違うのはその点であろう。もっとも録音状態が違いすぎるので(スタジオ録音は有利だ)安易な比較はできないが、リムスキーの管弦楽の粋を聴かせるにステレオでなくてもここまで十全であるというのは並みならぬものを感じさせる。
表現も直裁なだけではない、2楽章の変化に富んだアゴーギグ付け、その最後や4楽章の怒涛の攻撃はライヴ録音を思い起こさせるし(あのライヴは色彩感が落ち流麗さを強引さに転化したちょっと違う印象の録音だが)、ソロ楽器を歌わせながらオケ部には派手な情景描写をバックに描かせ続ける、そういった劇的表現が巧みだ。まさに絵画的な、オペラティックな印象を与える。人によっては純音楽的表現とし表題性を気にしていないと評するかもしれないがそれはあくまで全般的にはスピードが速め安定で構造重視、という側面だけで得られる印象であり、もっと表題性を無くした演奏はいくらでもあるのであって、これは十分表題を音で表現できている。たくさん褒めたが直感的に○。私の好みはクーセヴィツキーのような表題性無視完全即物主義シェヘラザードなのです。シェヘラザードが物欲女というわけではありません(謎)
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(参考)
シェヘラザード:表題性に興味の無い私のかわりにwiki参照。wikiは名盤推薦もするのか?執筆者の恣意性が払拭できないそのての記事はどうかと思うが。
コンドラシン盤が最もスタンダードとされるが個人的には硬質すぎてそれほど評しません。むしろこの曲はフランスでよく演奏された。近代管弦楽法の大家リムスキーの象徴的作品としてロシア熱冷めやらぬ時代に受け容れられていたせいだろう。
ベイヌムのライヴ盤はこちらに書いた。
ベイヌムの正規録音は長らく廃盤になっていたが最近まとめてCD復刻された。感情的な強い流れを作るだけではなく色彩的でニュアンスを表現する技巧に優れていたためモノラルLP時代はフランスものも高評価を受けていた。細かい装飾音まで曖昧さのない水際立ったドビュッシーは今も好まれる。
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ブルックナー:交響曲第7番~リハーサル風景
1楽章終盤にアナウンスが重なり、メインは30分近くに及ぶ2楽章のほぼ通しリハ。ボストン弦楽セクションの重厚な響きを背景に濃いいロマンチシズムの盛り込まれたクーセヴィツキーらしい演奏で、単体で聴けばワグナーの緩徐楽曲のように聴ける。ルバートな伸縮もすれば音量変化もあざとい(表現主義者のデジタル変化ではなく、弦楽器奏者らしいうねるようになめらかな変化)。力強く速いテンポで音楽は歌われていく。だがこれはブルックナーなのである。このノリが全曲だと疑問に思うかもしれない。クーセヴィツキーの指示は殆どダイナミクス変化にかんするものしかない。ただ音量についていちいち感情的に叫ぶ。あとは歌う・・・ひたすら「旋律だけ」を。たまに表情記号にも言及するが、ロシア訛りの調子で実にボキャブラリーが少ない(陰で揶揄されるわけだ)。怖い頑固爺さんといったふうである。オケは大人の態度でただ鋭敏に従うだけ。異様に指示を理解するのが早く、指示する前に既に準備しているようですらある。そんじょそこらのオケではないので、予めボスの言うようなことはわかるのだろう。リハとはいえ表現に手抜かりはない。クレンペラーが晩年振らなくてもオケが弾いてる状態に至ったのと同じ、これは裸の王様とは違うカリスマ性であり、高度な芸術の世界での老年の奇跡である、としておこうか。
後代の指揮者に引き継がれるこのオケの実力はしかし(政治的なもの含め)全てクーセヴィツキーが培ったものとも言えるから、無骨な指導ぶりもやはりカリスマ性だけでなく、何かの技があってのもの。これは単なる本番前の断章にすぎないかもしれない。まあ、嫌われそうな人だなとも思った。ミュンシュと似てるんだけど、違うんだよなあ。わりと単曲としては感動的なので○。
クーセヴィツキーのブルックナー8番
クーセヴィツキーについてはこちら
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