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ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R他)1972/5/7LIVE

新しいわりに音は悪い。手兵だけあって軽く明るく、美しいひびきにしなやかな表現は板についたものがあり、他客演録音と比べるとストコフスキらしさがより出ているように思う。三楽章のむせ返るような弦楽合奏、ねっとりした木管ソロの競演、ストコフスキの独壇場だ。曲の響きの重さに引きずられることもそれほどない。個性的な変化付けやデフォルメも、横の流れの上に有機的に紡がれ不自然さがそれほどない。これもストコフスキらしさだがややラフさが気になるし、技巧的にはとりわけ優れているわけではなく、深刻さを求める向きには甘い演奏に聞こえるかもしれないが、スケルツォの即興に流れるような前のめりなテンポなど、ライブ感は楽しめる。フィナーレがやや弱く作為的に聞こえてしまうのは楽団の疲れのせいか。ホール残響が強いので、真実はまた別かも。なにせブラヴォが凄まじ過ぎる。○。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」

○ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1965/3/12LIVE

比較的有名な放送音源でストコフスキの革命では素晴らしくよい録音。開放的なアンサンブルだが決定的な崩れはなく、ブラスとパーカスを強調し分厚い弦楽器のうねりで響きを盛り上げていく。確かにBSOの音だがフィラ管のように華々しく聞こえるのはさすがだ。大きな表現の中で非常に煽情的なテンポ設定、特徴的なアーティキュレーション付けはいずれも別録に聴かれる解釈とほぼ同じだが、細かくは弦にオールドスタイルなポルタメントを導入したりなど、ミュンシュの繰ったボストンSOの力量と特性が、少しきしんではいるけれど、遺憾無く発揮されているといっていい出来。アタッカで度肝を抜く異常なクレッシェンドで幕あける終楽章、テンションを途切れさせず(かなりあざとい表現ではあるが)大ブラヴォを煽る結末はききものだ。ソリストのレベルも大きく影響している。中間楽章の木管が素晴らしく力強いのが印象的。編成のせいもあろう響きが低くやや重い、それに引きずられるようにテンポも遅くなる、両端楽章では気になるところではあるが、けして単調でないこと、リズムのキレが素晴らしくよいことでカバーされる。ステレオ。○。ストコフスキはこの曲を好んでいたようだ。

ヒンデミット:交響曲「画家マチス」

○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(放送録音)1959/10/24

じつは怪しんでいる。熱過ぎやしないか?それほどにアンセルメの「ライヴ顔」の出た演奏であり、もっとも公衆ライヴではない可能性もあるが、精緻な再現音楽の表現者としての顔は微塵も見られず、再現音楽の「その先」をおおいに熱をあげてやってこなしている。一部ノイズがひどく聴きづらいがクリアで、聴くに堪えうる。マチスは新古典とかだけ言ってないでこういう暑苦しさもあってほしい。クーベリック等の同時代の演奏に非常に似ている。○。

ヒンデミット:コンサート・ミュージック

○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(放送録音)1958/3/12live

アンセルメのびっくりヒンデミットだが、驚くべき集中力と破壊力である。アンセルメの二面性を改めて思い知らされた。こういうアンサンブルの権化のような曲では「構造はスコアに書いてある、あとはドライヴするのみ!」といった高速機関車のごとき表現をとるのだ。プロコフィエフの6番正規録音がこういう演奏だったが、思えば構造的な現代曲で、自分の理解の及ぶものに対しては大いにやらかすような指揮者だったということだろう。音は悪いがクリアで不足なし。クーベリック的ですらある。オケもよくやる。

ラフマニノフ:交響曲第2番

○オーマンディ指揮ミネアポリス交響楽団(VICTOR)1934/1/18,19,22・SP

録音悪いにもかかわらず演奏は素晴らしく現代的で、冒頭ひとしきりの重さと弦のポルタメント奏法を除けば今でも通用しそうな充実ぶりである。この時期にしてはオケがとにかく巧い。オーマンディの芸風は決して確立していたとは思わないが、寧ろ前のめりの精力的な演奏ぶりは客受けしそうな感じである。2楽章の速さとキレには度肝を抜かれた。カット版だがそれほど違和感はない。なかなかのもの。

プロコフィエフ:交響曲第6番

○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(COLUMBIA)1961

録音は素直でクリア。オーマンディのロマンティックな重さが一部出ているけれども、この曲の通俗的な構成、7番にも通じる平易な旋律の一つ一つを裏や細部までしっかり表現することでおのずとプロコフィエフがこの時期に感じていたと思われる不穏な空気も浮き立ってくる。ただ晦渋に響かせるのではなく、ちゃんと理解させるべく整理された中間楽章の「魅力」は禁欲的なソヴィエトの演奏とは違った娯楽性を含みとして持ちながら、しかしそれこそ重層的なプロコフィエフの「仮面」の再現なのだと言わんばかりである。通俗に流されていることはなく、ただ派手なのではなく、アンサンブルの引き締まった筋肉質の楽団から繰り出されるのはよく言われた「余裕しゃくしゃくの職人的演奏」ではない。この時代の同じ空気を吸った異邦人としてのオーマンディなりの「矢を当てるのではなく当たる」やり方が、楽曲のスコアの裏から引きずり出してきたものが「大団円なだけではすまない」気分のもやもやを残すような音楽になった、そういうことであろう。基本的には「わかりやすい志向」なのだが、録音がクリアすぎないことが過剰な印象を与えずに済んでいるという部分もあるのか。巧さは折り紙。○。

リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲

◎ムーシン指揮ロッテルダム・フィル(RPHO)1997/4/13アムステルダムLIVE・CD

素晴らしくキレのある、実に「スペイン」。生命力の塊のような演奏で、現代の録音とは思えない表現自体の迫力と喜遊感はこのどちらかといえば透明感ある伝統オケとは思えない。打楽器をつねに前面に出しアクセントを極めて強く、強い色彩と明快なリズムが印象的だが、音線に左右されることなくグズグズにならないのはロシア指揮者としては異例というか、コンドラシンよりムラヴィンスキーを思わせる統制感である。楽しいというより軍隊という感じもあるが、オケ側からの信頼性が並ならぬことも伺わせる。これだけあればこの曲はもう十分かな。ロッテルダム・フィル自主制作。

プロコフィエフ:交響曲第1番「古典」

○ムーシン指揮ロッテルダム・フィル(RPHO)1997/4/13アムステルダムLIVE・CD

サンクトペテルブルグ派の巨人と言われた「理論派」ムーシン晩年の珍しい記録。新しい録音とはいえライブであることもあって、激しいアクセント、ティンパニの過剰な轟き、弦楽器の力強く少々ラフなキレ、すべてがいかにもロシア風で、やや遅めのテンポで壮大だが重い表現は特有と思われるものの、マルコよりはガウクの気風を確かに伝えている。独特の解釈理論と豊かな感情表現の乖離具合はスヴェトラに近いように思う。北欧のすっきりした名門オケとはいえしっかり相性はよい。90をゆうに越えた指揮者の演奏とは思えぬ生命力があり(もはや「振る」必要はなかったかもしれないが)、それだけしっかりした方法論をもって伝えるわざを身につけていたのだろう。ブラヴォが飛ぶ。

ハンソン:交響曲第2番「ロマンティック」

○作曲家指揮イーストマン・ロチェスター音楽院管弦楽団(COLUMBIA)1950年代?・LP

アメリカ交響曲史上に大きな足跡を残すハンソンのネオ・ロマンチシズムを高らかにうたう名作・・・1回目はシベリウスみたいと思う、2回目はドはまりする、3回目は飽きる・・・だが、モダニズムからポストモダンという時代にあって強烈に単純な保守性を押し出したイデオロギー的色彩の強い作品でもあり、結局のところハンソン自身の指揮による録音が最も多い状況がある。この盤は旧録として知られ、mercuryの有名なステレオ録音とは別とされる。実際音や表現は更に古いとされる自作自演盤に近いものを感じるが、そちら(CD化されている)は40年代以前とされ、50年代という非公式情報が正しければ別となる。いずれスタジオ録音であること、自身が教授であった学校の手兵によるという「厳密な」状況下のものということで、ブレがないと思われ、完全なる判別は難しい。mercury録音はクリアだが音場が狭く、良く言えば凝縮された、悪く言えばかなりせっかちでせせこましい直線的解釈が今一の印象を与えるが、旧録はいずれもモノラルでクリアさも無い半面もっと大きく一歩引いた、ただ少したどたどしいテンポどりの演奏になっている。この盤は技巧的に振るわない感もある。アクセントが弱く楽想のコントラストがすっきりしない。これはのちの自作自演ライヴ(アマチュアオケ)でも聴かれる傾向でハンソンの解釈指揮の問題もあるのかもしれない。○にはしておく。プライヴェートCD-R化されている。

アイアランド:チェロ・ソナタ

○サラ(Vc)作曲家(P)(columbia)1928/10/25・SP

古い録音だが、英国ではこのころ同時代音楽が沢山録音されており、その中で取り立てて音が悪いわけではない。しかし、バックスのように多様な表現手法をつぎ込んだりディーリアスのように独特のロマンチシズムを作為的にしつらえていくようなところのないアイアランドの曲は、録音群中いまひとつ記憶に残りにくいものがある。偏愛する旋法的表現や和声によってのみ個性を主張するため、保守的で幅が狭い印象をあたえる。ただ、逆にアイアランドに、たとえばピアノのための「サルニア」だけを求めるような偏愛組にとって、アンサンブル以上の規模の楽曲の中では親しみやすい内容だと思う。チェロの音域はこの音質ではやや聴きづらいが、特に特殊なことはやらせていないし、オーソドックスな楽曲構成ゆえわかりにくいことはない。晦渋に聴こえるのはとりとめのない音線の問題もある。女性チェリストを輩出した英国においてこのソリストの位置づけはわからないが柔らかくも纏綿とし過ぎずちゃんと弾いている。○。

アイアランド:二つの小品~Ⅰ.4月

○作曲家(P)(columbia)1929/2/18・SP

自作自演の旧録。50年代の新しいものよりも快活で明るく、速さもあって若々しい印象。クリアな音ではあるが、どうしてもSPなりのノイズが気になるところもある。いい曲。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:オーボエ協奏曲

○レオ・グーセンス(O)ジュスキンド指揮フィルハーモニア管弦楽団(HMV、EMI/WMS)1950年代・LP

長生した被献呈者による録音で、1楽章のみWEB正規配信されている模様。録音年月日諸説あるようだがステレオ直前のモノラル期と思われる。それほどクリアな録音状態ではないが、聴感が落ち着いている。ソリストは一貫してアクセントのない平板でレガートな表現をなし、深みのない軽い音色で突き通しており、面白みはない。技巧的な衰えを感じさせるところすらある。始終ダイナミックな変化より、ここぞのところの微細な揺らぎに美学を篭めている、というところか。オケは厚みがありかといって煩くもなく、寸分も足りないところがない。オケだけでアンサンブルをとり進行していく場面では、もっと明確な絡み合いを演出してほしかったがこの演奏はどちらかといえば総体の落ち着いた雰囲気を聴かせるのが主眼なのだろう。ただどうにも構成が不明瞭で、こだわりがなくあっさりし過ぎているのは気になった。

アッテルベリ:交響曲第4番

○ヘーガー指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(PADA他)1930年代・SP

ヘーガーがいい。さすがこの時代のドイツオケであり、はっきりロシア国民楽派の影響下に自国の主題等を加えたチャイコフスキー風折衷性の強い楽曲を、野太い響きと正確なリズムによって引き締め、新しい音楽としての民族主義音楽を聴き取れるレベルにまで昇華させている。現在web配信されている。

ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第6番

○クーベリック指揮イリノイ大学管弦楽団(私家盤)1952/3/29live

イリノイ大学管弦楽団のライヴ音源がWEB配信されているので参考(近年CD-Rで出た模様)。非常にクーベリックらしいアグレッシブな演奏で、1楽章冒頭からオケが崩壊しまくったさまが凄まじいが、パーカッションを中心にリズムを引き締め、(はなから取りまとめることの難しい)RVWなりの新古典的書法が印象的な弦楽合奏部をとにかく「単純に」整えていくことが功を奏して、2楽章は名演と言っていいであろう、戦慄すら感じさせる集中度の高いものになっている。クーベリック自身のバルトークを思わせるところがある。3楽章はややラフさが出、4楽章は前楽章とのコントラストと弱音表現に雑さを感じさせるが、依然前のめりでクーベリックらしい「擬フルトヴェングラー」なものになっており、音もまあまあで、RVW好きなら一度聴いてみていいと思う。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:幻想曲「あげひばり」

○ワイズ(Vn)サージェント指揮リバプール・フィル(COLUMBIA他)1947/4/18初録音盤?

元がSPゆえノイズがひどく(現在はWEB配信で手に入る)、楽曲の本質といえる静謐さを損なうことしきりだが、ソリストの安定した表現にもまして弦楽オーケストラの繊細な味わいの音表現が印象に残る。ソリストと構造的に絡んでいくような曲でもないのだが、民謡旋律の平易な表現が目立つ曲ゆえそこでの掛け合いに強く挑んでいく演奏もある中、ここではあくまでバックに沈んで、「ひばり」の舞う情景を浮き立たせている。○。

ロジェ・デュカス:弦楽四重奏曲第2番

○レーヴェングート四重奏団(MANDALA)1954/2/27パリ・CD

楽団に敬意を表して○にしておくが、駄作。絶筆であり作曲後間もない録音であり資料的価値はある盤にせよ音楽はまとまりがなくひたすらだらだら長い。フランクよりは新しいだけあって新旧様式混淆の多様な聞かせかたをしてくるが、明らかに「アメリカ」を意識したような前時代的な表現に、フォーレの室内楽の作法を重ね合わせ、国民楽派の影響をうけるもドビュッシーにまで踏み出せないフランス派SQとしか言いようのない1楽章からしてうんざり。楽章が進むにつれフランク的マンネリズムを打破しようというような暴力的なリズムや不協和音がおりまざるも、ルーセルの明快さもオネゲルの思索性もない、思い付くままの老いた繰り言。よくわからない構成以外、新味がない。3楽章はかなりつらい。この盤で17分、アダージォだ。4楽章制を守るはいいが、全部で50分となると、時間配分は完璧だが(この盤で14、7、17、11分くらい)、全部が長すぎる。4楽章で型にはめたようにわかりやすい五音音階を繰り返すにいたり、ウォルトン10代の佳作ピアノ四重奏曲か!と80代の作曲家に突っ込みたくなった。むろんもっと捻った構成に組み込んだものではあるが。フランクやショーソンの室内楽好きならいけるのかな。あと、私がデュカそしてフローランが余り得意ではないことを付け加えておく。レーヴェングートQの新しい録音を早く復刻してくださいdoremi。かれらはベトも得意だったけど、十字軍だったのだから。

アイヴズ:交響曲第2番

○C.アドラー指揮VSO(SPA)1953/2初録音盤・LP

マーラー最後の使徒チャールズ・アドラーによる「現代」音楽紹介レーベルSPA録音だが、同曲初録音であること以上に、クレンペラーやホーレンシュタインが録音していた当時、意気軒昂のウィーン交響楽団(表記上はVPO)を使って録音しているということに価値がある。アドラーの解釈は正直スコア(確定版がなかったせいもあるが少し手を入れ整理している模様)に忠実にやろうという方針が裏目に出た起伏のないもので、非常にあっけらかんとした「おらが村交響曲」、形式を意識する余りだらだらした部分も多いだけに、各主題を際立たせ音量やテンポにコントラストを付けて意思的な演奏を仕立てていかないやり方(つまりバンスタ的でないやり方)では飽きてしまう。かといって隠し扉の多いアイヴズの曲だけに、構造を明瞭に浮き立たせて解体分析的に聴かせていくティルソン・トーマスのようなアプローチをとることも可能なのだが、時代的に仕方ないとはいえ、軸をどっしり据えた求心的なロマンティックな音表現にも色気を出してしまっている。録音バランスが従来的なロマン派交響曲向きの整え方をされており、裏で特徴的なフレーズや楽曲構成上重要な断片をソロ楽器が奏でていても、殆ど聴こえないのも痛い。あまつさえアイヴズは机上論者なので音量バランスが悪い書き方をするのだ。

ただそういった方法により、「まとまり」はバンスタNYPを始めこの曲に取り組んできたどの有名指揮者のものよりもあるように思った。中欧風の充実した響きと強い流れが、前半楽章、とくに1楽章では見違えるような重厚さと格調をかもしている。バンスタのような揺らしが無く安定した表現で、オケがばらけない。ローカルな響きを出さないVSOの節度がいい。さすがに無理のある異様に細かくとっぴな音符が頻出しだすと、危うくはなるが、これはちゃんとやっている録音のほうが少ないのだ。編成が小さいらしく音数が少ない感じがするが、そのぶん各楽器がんばって強くアンサンブルをとっているようで、書法上薄くなってしまっているのに目立たない。ここは評価すべきところだと思う。バンスタの解釈は扇情的で楽曲共感的だが、アイヴズ自身は改変、とくに2及び終楽章の終止音を異様に引き伸ばす「ミュンシュ方式」を非難していたという。アドラーはきっちりと音符の長さで切る。ぶちっと切れる。こういう演奏はわりと無いように思う。真意がしっかり伝わるという意味ではいい。ただ、アイヴズ自身が改訂した、最後の大不協和音は取り入れていない。ここはアドラーなりの見識だ。総じてこの指揮者は上手いのであり、ただ、録音と表現に異論がある、というべきだろう。アメリカの指揮者以外ほとんど取り組まない曲で、ゆえにアメリカ的というべき響きの軽さや生硬な構造を剥き出すやり方が目立ち、その中でこのような求心的で古典的とも言えるアプローチは面白い。○。

マーラー:交響曲第10番~Ⅰ及び各楽章クック補筆断片・レクチャー

○デリック・クック(解説・P)ゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管弦楽団(私家盤?/testament)1960/12/19BBC番組・CD

有名な10番補筆に関するレクチャーと試演で、WEB上で音源が出回っているゆえ挙げた(2011年2月にtestamentよりCD化)。荒削りではあるがこんにち聴けるクック完成版に至る、最初の段階での状況を聴くことができる。最初はクックがピアノを交え解説(一部オーケストラ)、のちゴルトシュミットが黄金期フィルハーモニア管を振って全楽章の主要部分を聴かせている(1、終楽章はほぼ全部)。断片しかない楽章について、付け加えるハーモニーをどうするかを主軸に、オーケストレーションをどう展開させていったかがわかる、かなり無理のある部分が今はいくぶん丸められているのだなと思わせるところが多々あり、正直聴きづらいほど生硬なところもある。ゴルトシュミットはオーケストラをきわめて分析的に繰る人で(ここでは特に意識しているとも思われる)遅めのインテンポでリズムをひたすら単調に整え、「響き」を前面に押し出すやり方をしている。そのため和音の一つ一つが重過ぎて胃がもたれてくるが、これはウィン・モリスの有名な録音にも共通するところがあり、クック完成版が「やりにくい曲」だったことを伺わせるものでもある。しかしそういう棒に対しダレも飽きもせず緊張感と技術の精度を保っているフィルハーモニア管がほんとうに素晴らしい。モノラル録音なのが惜しい、クレンペラー組の音である(同様に音色の魅力という部分ではイマイチ)。ごく一部ソロミスのような音があったようなかんじもするがひょっとするとスコアがそうなっているのか。特徴的なのは3楽章プルガトリオの異様なテンポ設定。クック初期版の指示がそうなっているのか異常な高速、中間部での異様な遅速、ここではオケに軋みが生じている。非常に参考にはなる。○。

グラズノフ:交響曲第5番

○イワーノフ指揮チェコ・フィル(supraphone)1950・LP

チェコ・フィルとのセッションを何度か構えたようで、知る限りグラズノフは二枚出ている。スプラフォンはソヴィエト音源をそのまま出していることがままあるが、音からするとチェコ・フィルで間違いないようだ。オケが違うと洗練される。しかも同時期のチェコ・フィル、線は細いが正確で独特の金属質の肌触りがあり、オケ全体としてのまとまりは巨熊のようなロシアオケより余程上である。この曲もこの遅いテンポだと、ロシアオケならグズグズになり駄目演奏になりかねない(同指揮者は同曲ソヴィエト録音もあるがよく覚えていない)。だがぴしっと揃っているので、聞く側がハラハラするだけで問題なく、イワーノフの作為的解釈が生のまま届く。イワーノフ解釈で驚かされるのはその巨視的なテンポ設定で、4楽章の冒頭やはり遅速から、再現部以降のアッチェランド、そして祝祭的展開の鮮やかさは感服させられた・・・やはりベートーヴェン指揮者なのである。歓喜へ至るためには敢えて落とすのだ。1楽章のポリフォニーに満ち溢れたグラズノフ的展開、その中で窮屈ながらも無限転調を繰り出していくグラズノフらしい部分があるのだが、この転調がごちゃっとする演奏もある中、非常に鮮やかに聴こえ、その現代性に驚かされる。譜面を見たり室内楽をやればこういったグラズノフの時代なりの和声的挑戦は時折見かけることができるのだが、音できちんと、しかも大管弦楽で正しく聴けることはあまり無い。くらべ中間楽章はぱっとしない。3はともかく2、スケルツォは疾走感が薄く、この指揮者のリズム感のなさがわかる。総じて◎にしたかったくらい、見事な部分が混ざるのだが、オケを整えるかのような不自然なテンポの遅さを引いて○。webで聴ける。

モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」

○ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(RCA)1945・LP

ロシアの演奏と聴き惑うくらい威勢がいい演奏で表出意欲の強い、大編成オケの迫力がモーツァルトの書法の精妙さを損なう反面、とにかく正しいリズムや響きよりも旋律のうねり、という向きには向いている。今の耳からするとしょうじきモーツァルトとすら認識できないくらい重くロマンティックなのだが、オケの底力も感じられるし、私は楽しめた。録音は悪い。
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