ブラームス:交響曲第1番

ロジンスキ指揮NYP(SLS/columbia)1945/8/2-22・CD

原盤はテストプレスで実際に発売されたものではない模様(流通しているものは録音年月が違う)。状態は推して知るべし、ノイズにまみれボロボロで、SLS直販のCD-Rでも日本焼きCDでもまったく差はない。ロジンスキにしては直線的な推進力のみならず粘り腰の表現もきかれるが、世界史的にきわめて重要な時期に行われた録音~広島長崎への原爆投下と第二次世界大戦終結~だという特別なものは一切感じられない。いつものロジンスキスタイル、というか重量感の無い録音のせいかむしろ軽さすら感じさせる即物的なものだ。四楽章冒頭からなどいつもの引き締まった筋肉質のスタイルが緩んでいるように聞こえる。これはオケのせいだろうとは思うが、音は美しい、技術もそれなり、でもどこかよそよそしい。ブラスが音を重ねつらねヴァイオリンの主旋律に入るまでのくだりは、音がぜんぜん重なった感じが無く、数珠つなぎに吹いているだけで、何の盛り上がりもない。録音のせいと思いたい。弦楽器はたかまりを伝えてはくるし、木管も綺麗でうまいが、中音域以下があまりに弱い。加えてテンポも性急に流れがちで、変な焦りがある。あのロジンスキのセッション録音とは思えない緩い演奏だ。軽々しく旋律を撫でていくだけで、戦前のSP録音かと思うような「想像力を要求される」代物。終盤でやっとブラームスらしいアンサンブルの妙味が伝わってくるものの、この曲ではそのくらいはどうやっても伝わってくるものである、遅い。思い入れとかそういうものとは無縁、ロジンスキの志向が近現代の大曲でいかに自分の棒さばきを魅せるかにあり、古典志向の曲は後期ロマン派であっても、こういうことをすることがあるのだろう。影のない、でも明るく吹っ切ったわけでもない、ただの思い入れの無い録音。太平洋戦争への痛烈な皮肉か、という皮肉を書きたくもなる。
スポンサーサイト

ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番

メイ・ハリスン(Vn)バックス?(P)(SYMPOSIUM)1937・CD

先に譜面からやつれて枯れ落ちる曲のイメージを持ってしまったため、どの録音を聴いても快活で生命力に溢れ過ぎて聴こえてしまう。この一楽章も若々しくて、健全で、世紀末作曲家の代表格で、計算ではなく感覚的に歪んだメロディ、半音階的なゆらぎ、奇妙に重い響きを特徴とするディーリアスには似つかわしくない感じがするのは先入観だろうか。ムンクとパリのモルグに死体を見に行ったような人で、放蕩の末に梅毒に罹患し遂には半身不随にいたるも、それでも激しい性格は抑えられなかったと言われる。この作品は白鳥の歌とされるが、晩年は(その存在には賛否あるが)イエルカ夫人のみならず若きフェンビーの手を借り、極端に単純で素直な作風で、素直に涙を誘う作品を「口述筆記」した、そのうちでもとくに民謡の引用が際立ち、郷愁とともに諦念を感じさせる作品である。おそらく間違いないと言われているバックスのピアノも明晰でタッチが強めに感じられ、作曲家と交流深かったソリストの活き活きとした動き、しかしオールドスタイルのメロメロな音程感(ディーリアスで音程が悪いとわけがわからなくなる!)が非常にアマチュアっぽい印象を与えて入り込めない。録音はノイズはあるが音像はよくとらえられていて、とくに二楽章の「老人のダンス」みたいな激しくもハラハラ枯れゆく趣は出ている。特有の浮遊感ある進行に沿いひたすら旋律を歌うだけの三楽章ではさすがにその域を理解したような調子になるが(ピアノの音数も極端に少なくなる)、感傷は煽られない。この録音については、歴史的記録としての価値のみのものであろう。

ヒンデミット:主題と変奏「4つの気質」

ハスキル(P)作曲家指揮ORTF(パリ国立管弦楽団)(m&a/king)1957/9/22モントルーlive・CD

ナチからアメリカに逃れた時期の作品で、もともとバレエ音楽として企画されたこともあり、わかりやすい方の作風に依っている。弦楽合奏により奏でられる、音のズレた感じがする特有のメロディ感は、ヒンデミット独自の理論にもとづく音響工学的な観点からくるもの(と思う)、そこに「ズレの発生し得ない」ピアノを協奏的に絡ませることで芯が通り、ヒンデミット慣れしていないと取っ付きづらい作風を丸めている。作品の表題はまったく即物的なもので、主題提示のあと性格分類の四気質に沿った楽想による四つの変奏が続く。滑らかなワルツを伴う第二変奏「血液質」が躍動的で面白い。ピアノ協奏曲と扱われることが多いが、ヒンデミット自演ではピアノは技巧的パセージはしっかり盛り込まれながらも融和的で決して前面に立ち続けることはない。また、単に主題と変奏と呼ばれることもある曲で、鑑賞するさい取り立てて表題性を意識しなくてもいい。楽章間の対比の明瞭さが伝われば良いのだ。ハスキルはこの曲をよく演奏しており、楽曲内の役割もよく理解して、シャープなヒンデミットの指揮にあわせている。太くも明瞭な発音で些かのブレもなく緩急付けて弾き続ける。オケのコンディションも良い。自演はいずれも私の知る限り戦後、orfeoにバイエルン放送交響楽団と(同じハスキル)、他1955/8ないし10にベルリン・フィルとのものが残されている。ほどほどの長さと職人的な面、何より表題の珍奇さが評価されたのか、演奏機会は多い方である。

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」~ワルツ抜粋

ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(SLS/columbia)1940/12/14

SLS(CD-R)ではシカゴ響との酷いツァラliveの後に入っているのでじつにホッとする。音も相対的に良いし、クリーヴランドは安心して聴ける。ばらの騎士なんてワルツ抜粋しか演奏されない曲だが、そのワルツがじつにウィンナーワルツ風でかつリヒャルト・シュトラウスならではの現代的な色彩も加えられ、時代考証がおかしかろうが音楽が成り立っていればいいのだ、と聴衆にもえらく受けたという。ロジンスキーがヨーロッパではオペラなど得意としていたことも改めて思い出させてくれた。

リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

ロジンスキ指揮シカゴ交響楽団(SLS)1947/11/21live

ロジンスキの短いシカゴ時代にあって、きわめて珍しいライヴ記録。尤もこのコンビでは同年RCAに同曲の正規セッション録音を残している。

だがしかし、これはダメだ。

ノイズが酷い。音が鄙びすぎている。もう、冒頭の放送開始音はともかく、その次の曲の開始を告げるファンファーレが、

非力過ぎる。

まるで田舎の角笛のようだ。夜道のチャルメラといったほうが適切か。こんな状態の代物を御子息が放出されるとは、まあ、何というか。録音のせいだけではないと思う。弦楽器主体の主部に入るとロジンスキの出自を物語るようなウィーン情緒溢れるフレージングが、あの冷たく、組合も聴衆もガチガチのシカゴオケから生温く引き出されてきて、こんな曲だったっけ?いや、リヒャルト・シュトラウスって結構こんな小洒落た曲書いてたよ!と、やっと人心地つく。その後は曲のせいもあってやや飽きつつも、音色がじつに時代を感じさせて、録音状態一つでこんなにも印象は変わるのか、いやこれは演奏自体が良いのだろう、という気分のまま尻すぼんで終わる。ロジンスキーのツァラをきくなら正規で。SLSでも復刻されています。大曲志向のロジンスキーはエレクトラも録音しています。その志向ゆえにシカゴから追い出されたとされてますね。

ブルックナー:交響曲第9番~Ⅱ

セル指揮クリーヴランド交響楽団(SLS)live

厳しく律せられた音楽はおのずとテンポよくリズミカルになっている。悪い音なのに迫力もありアメリカオケ的な軽さは無い。拍手が入るため楽章抜粋だろう、交響曲の中のスケルツォとしての構成感よりも、単発の曲の完成度を高めようとしているところはあり、単純さの中にも意味を込めるようなブルックナーとなっていて、現代的な感じはしない。セルのブルックナーはいくつかあったと思うが強烈な個性は皆無なものの軸のある意思的な演奏ではあると思う。完全にデータ不詳のようである。

ヒナステラ:クリオールのファウスト序曲

ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1958/8/8live

取っ付きづらい重い和音のぶっ放しから始まり、リズムにラテン要素はあるもののミヨーよりも中欧志向が強いのかヒンデミットを思わせる新古典主義的構造が織り交ざり、こけおどしのような大太鼓と低音ブラスが晦渋さをかえって煽る形で不穏に終わる。さあこれから始まるぞ的な祝祭っぽい序曲感が無い現代アメリカ音楽の系譜といった感じの、個性が板についてない作品。ミトロプーロスがまた無駄に力感があり表出力のあるのが仇にも思った。録音は新発掘音源レベルのノイズ多め。

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番

ミトロプーロス(P、指揮)NYP(SLS)1944/4/23コンサートホールlive

オケとのシンクロ度が凄く、弾き振りならではの一体感がある。スピーディーで揺れのない力強い表現という点でまったく一心同体である。ミトプーはこの曲の偶然の弾き振りで名を売っただけはあり指は回るし悪い録音の中からも余技と言うには余りにしっかりした演奏となっており、不協和音の一部が不自然に響く、二箇所ほどテンポが流れたりするなど細かい部分は余技ゆえ仕方ないところがあるとはいえ、いくつかある弾き振り記録の中でとくにニュアンスの面では「録音に良く捉えられている」。ノイズだらけの悪い音でもノイズがゆえ削られなかった部分が聴こえるのがこの盤のメリットだろう。もっともオケはゴチャッと中音部が潰れてしまっている。二楽章にもっと「思い」が欲しかったか。音色の硬さも仕方ないか。新発掘音源とのこと。

プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」~抜粋

ストコフスキ指揮NBC交響楽団(RCA)1954/10/5,7・CD

正規のステレオ最初(期)録音として知られ、ステレオ録音時代突入のきっかけとなったものの一つ。ストコフスキー自身すでにベル研究所と10数年前より実験を進めており、商業録音として出せるレベルとなったのが本盤であろう。左右のバランスが悪いというか分離が激しく音も古びているものの、録音操作も念入りに施され、各楽器が浮き上がるように明確にひびき当時のシェフであったNBC響の名技も余すところなく伝えるものとなっている。ストコフスキーの解釈によるところもあるが当時のヴァイオリンのポルタメントを駆使したつやめかしい音色、フレージングの美しさも堪能できる。これはストコフスキーによる抜粋が先鋭なものや激しいものを除き、すべて叙情的で大人しいものであるところにも依るだろう。この音で存分に歌を歌わせたかったのだ。聞き覚えのあるフレーズはすべて暗示的に示されるのみで、そこがまた感情的に揺り動かされる。高音偏重で明るい色調はプロコフィエフにおいてはまったく適している。同曲を得意としたストコフスキーの、通例である選曲抜粋演奏を逆手に取ったような無名曲ばかりの編成で、聴く気が起きない方ほど聴いてほしい。ヴァイオリンのパワーに圧倒。現在は正規の廉価ボックスに収録。

噴水の前のロメオ/ジュリエット/ロメオとジュリエット/ジュリエットの墓の前のロメオ/ジュリエットの死

プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」

オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(columbia/sony)1953/4/26・CD

復刻盤CDについて。モノラル末期のセッション録音にもかかわらず、不安定で粗雑な録音であることは信じ難い。オーマンディがこの時期(ないしそれから現代に復刻されるまで)にそういう扱いであったことは仕方のないことだが、西側初演の大成功で同曲の認知度を一気に上げた功労者であり、シベリウス同様作曲家の国においても多大な支持を受けた指揮者の、この原盤保存状態は理解できない。同時期に同曲の別の大指揮者盤があったならいざ知らず、これはまったく同傾向のライヴ録音を残しているミュンシュ同様、米国において政治的なものが背後にあることを勘ぐらせる。想像で補って書くしかないほど荒れた録音ではあるが、各声部がいちように非常に強力に発音しているのが印象的で、膨れて鳴りすぎるほどであり、シャープさよりボリュームを重視したアンサンブルは古風な感もあるが、この旋律的でハーモニーも構造もさほど複雑ではない曲については問題ない。力感で押し切るのは前記のミュンシュと同じものがあるが特徴的なのはひたすら素っ気なくインテンポで進めるところで、その速さの中に要素を緻密に詰め込んでいる。同曲のしっとりした旋律をひとつひとつ慈しむように楽しむより、数珠繋ぎの楽想の奔流に流されるのが良い聴き方なのだろう。三楽章など、余裕しゃくしゃくなところは気になるが、構造的な部分も明確に立体的にひびかせ、メロディやハーモニー、リズムだけではない、管弦楽の楽しさを伝えることも怠っていない。全般メリハリのハリしかないところはあるが、職人的な上手さ、オケの力強さを楽しむには、何とかなっている録音である。

※モノラルステレオ表記について

大前提として1950年代前半以前の録音はすべてモノラルで、いちいち触れていません(ストコフスキなど先駆例は触れます)。それ以降なんですが、各社競ってステレオ再録音を進めていたため、原盤復刻については50年代終盤以降はステレオ前提となります。マイク本数、配置など差異は当然出ますが、ここもオーディオマニアではないので、悪すぎる場合を除いてはあまり触れません。初期のステレオ録音は焼く側(海外再版含む)の都合や、おそらく再生機械の普及具合への配慮もあって元々ステレオでもモノラル焼きのものがあり、LPはおろかいわゆる「板起こし」CDでそれがみられる場合があります。たまたま私がモノラルにしか接していなかった場合、誤認による印象変化の可能性がありますすいません。セッション録音は以上ですが、ライヴになると、とくに「オーディエンス録音」「インホール録音」「エアチェック音源」では70年代までモノラルのものがあります。書けるだけ書きますが、入手当時データ不備で古い録音と思って書いてないこともありえます。ご注意下さい。一応放送用正規ないしそれなりの技師が個人的に収録したものでも、ライヴ記録を目的達成後も置いておくという概念はかなり後年のもので(日本の放送局が80年代前後まで自局放送のドラマすら満足に残していない例はご存知でしょう)、同じように70年代でもモノラル録音はあります。後方にステレオマイク一本で、ホール残響が大きく事実上擬似ステレオと変わらないものもあります。擬似ステレオかどうかの判別は状態次第で案外難しいものもありますので、そこも誤認があればご容赦ください。

プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」

マルティノン指揮パリ音楽院管弦楽団(decca,london/testament他)1959・CD

後年の録音にくらべ心なしか情感が滑らかにこめられており(マルティノンで弦のポルタメントなんか聴こえるのは珍しい)暖かみを感じる。技術的には国立オケに劣るのだろうが、録音のせいもあるのだろう、高音偏重で薄く透明感のある響きがそこまで目立たず、速めにスラスラ流れていく中にしっかりオケの主張がある。このオケのこういうところは好きだった。マルティノンなので耳に残るような特長は無いが、この旧録のほうが音楽が身近に感じる。激烈な楽章のバラケっぷりも全体の中では調和している。軽快な楽章冒頭主題に回帰して終わる。木管は上手で音色が懐かしく、明瞭に捉えられたハープも好きだ。このオケとは五番とこれのみ録音している。ステレオ。

プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」

ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト大放送交響楽団(melodiya/venezia)CD

立体的な書法で簡素に書かれた作品だけに個々のパートがちゃんと主張し、全体はバランスをとってしっかり肉付けする必要がある。旋律だけ流し下支えと分離するようではピンと来ないし、情感に鈍感ではつまらなく、わかりにくい。変な解釈を加えずとも中低音域の楽器が高音楽器を圧するほどに強靭に演奏しているだけで、チャイコフスキー後期交響曲並の大衆的魅力を発揮する。加えロジェストはひときわわかりやすく、ロシア式にのっとって各楽想、音要素を強めに起伏を付けて演奏させる。録音バランスについてそもそも低音が強く(ソヴィエト録音が粗いのはいつものことで置いておくとして)高音楽器が相対的に弱いせいもあるが、構造的に書かれた曲は内声を決して軽んじてはならないという基本を改めて実感させられる、目の詰まった佳演だ。職人型の指揮者がときどき陥っている、自分のやり方に曲を寄せてしまう方法を、ロジェストはとらない。真の万能型指揮者であった。この時代のロジェストは神がかっている。ここでは文化省オケにない力感、技術もメリットとなっている。終わりはガチャガチャを再現しない静かな方をとっており、珍しい。しっくりくる。ステレオ。

ケクラン:ピアノと管弦楽のためのバラード

ブルーノ・リグット(P)アレクサンドル・ミラ指揮モンテカルロ・フィル(EMI)1982/6/15-23・CD

印象派とは繊細な和声のうつろいの醸す雰囲気を大事にしながらも、横の流れが重視される音楽と理解している。その意味でケックランは本質的に印象派の作曲家であり、バッハの研究や新しい音響への探求も怠らなかったとはいえ、1860年代生まれという時代性を感じさせずにおれない。この作品は題名に象徴される通りいくぶんにフォーレの影響下にはあり、冒頭からピアノに旋律的な要素が強いが、次第に雰囲気音楽に呑まれ、静謐な世界に溶け込んでいくように終わる。なかなかの耳触りのよさはあるが、後代のアメリカアカデミズムの作曲家たち・・・フランスの教師陣に教えを受けた者を含む・・・に似た「無個性さ」も否定できない。派手さがないのでまずもって演目にあがることはなく、ケクランが(自作において)いかに自分の世界に忠実で、自分のやりたいようにやっていたかがわかる曲となっている。教師として著名なリグットがソリストを受け持っているが、指揮者ともどもまだ若年期にあったせいか、少し深みが足りないようにも思う。ドビュッシーの「アッシャー家」断片など秘曲を紹介した「フランス音楽のエスプリ」シリーズの古いCDで、そういう意図からか時間をかけてゆっくり作った感じがしない。録音状態が決して良くはなく、とりわけ静謐な作品においては今なら環境雑音は極力除去されたことだろう。併録は「7人のスター交響曲」。

ケクラン:交響組曲「7人のスター交響曲」

アレクサンドル・ミラ指揮モンテカルロ・フィル、フランシス・ペリエ(OM)(EMI)1982/6/15-23・CD

opus.130台の後期作品にあたる。四楽章にオンド・マルトゥノ表記があるが三楽章の誤り。映画スターの名前を各楽章の題としそれぞれに副題が付けられているものの、映画との関連性は皆無で、あくまでケックランの受けた印象を抽象化した曲の集合体となっている。散文的で楽章間の対比は明確ではなく一貫して個性を主張せずに職人的作風を保ち、同時代音楽の雰囲気を漂わせ、デュティユすら超えるような現代の印象派的音詩が連ねられており、三楽章「グレタ・ガルボ」のオンド・マルトノ(融和的で木管楽器のように自然に旋律楽器として取り入れられている)に至るまでは音響的な音楽が続き、鉄琴やハープ、ピアノなど高音打楽器系の楽器が空間的な拡がりを感じさせる。四楽章でやっと派手な音楽が登場するが、その後は後退したような晦渋な楽章も登場する。いずれ題名となっている俳優のイメージを知らないと、まとまりのなさに退屈してしまうかもしれない。アメリカアカデミズムの同時代曲も彷彿とさせる。長くても6分程度の曲の中で終曲のチャーリー・チャップリンは16分を越える深刻な音楽であり、ベルクを思わせるフレーズを含めその感じが強い。後輩オネゲルからメシアンに至る音楽をも飲み込んだケクランの世界の広さとともに、広過ぎるがゆえに構成感を失い散漫で掴み所のない作風を露呈している。大半が静謐なため環境雑音の気になるところがあり、調和の取れた音ではあるが強い押しが無く(フランス的ではある)、紹介者的な範疇を出ない演奏となっている。合わせれば結構な大曲、併録はフォーレに倣ったようなメロディアスなピアノと管弦楽のためのバラード(ブルーノ・リグット(P))のみ。

ブラームス:交響曲第4番

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive

生命力に満ちたブラ4で、トスカニーニっぽいと思う人もいるかもしれないが、オケが決定的に異なる。弦楽器は言うに及ばず、ロシア式の良い部分を押し出したパワフルなブラスも聞き所。どっちも、あの音色で歌う歌う。まるで一人一人がソリストであるかのように音色を主張し、我先にと重なり轟く。オケがこの曲をとても愛しているのがわかる(直前のバルトークとの違いは明らかだ)。二楽章の心根を揺り動かされる美しさ、三楽章のリズムと音色の饗宴は素晴らしいの一言。四楽章の本来もつ古典的な佇まいは、強奏部においてはあまりに表出意欲が強すぎて軋みを生じてしまっているが、そのたぐいのことはムラヴィンスキーのライヴ全般にあることで、ロシア式とも言え、ライヴならではの魅力と捉えるべきである。音色の不統一感も音楽を分厚くすることはあるのだ。ダイナミックだが休符を効果的に使って音楽を引き締め、ラストへ突き進んでいくさまは圧倒的。ムラヴィンスキーのブラームスは素晴らしい。録音は放送レベルのモノラル。

バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive

ここに立ち返ると物凄く厳しい演奏で、息が詰まる。熱量の高く目の詰まった演奏ぶりは、目前にしたら唖然としたであろう激烈なアンサンブル、ピアノが出てくるとホッとするくらい弦楽が凄い。雑味もいとわない音が激しくて焦燥感しかない。もはや楽章間の対比がどうやら言うレベルではなく終始強烈な音が途切れず、息が詰まる。終楽章にてロシア式の呻くようなポルタメントを交えた表現が出てくると、音楽の高揚に逆行して滅滅としてくる。色彩感がなく、険しい不安な光景。ただ、これは元はラジオ放送されたもので、かなり不安定で穴もあるモノラル録音(ORGANUM盤は安定していると聞いたが未聴)。そのせいで実態が歪んで伝わっている可能性が高いのは、ムラヴィンスキーの実演に触れた人間のことばからも明らかだ。最盛期には録音に収まりきらないほどの情報量をぶつけてくるコンビだったようだ。ムラヴィンスキーに対する無用な不安感を抱かないために、最近プラガからドヴォルザークホール(スメタナホール)ライヴがリマスターSACD復刻されたので、ライヴならそちらを聴くほうが良いだろう。この放送ではブラ4、ライモンダなども録音されている。

サン・サーンス:交響詩「オンファールの糸車」

ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1957/11/1live

一見無邪気だが機知に満ちた小品。モノラルであまり良くない録音のため、作品の軽やかさが伝わってこない。知的に構成された作品に対しミュンシュとBSOは手慣れた調子で仕立てている。元から完成度の高い作品に余計な解釈はいらない。

シベリウス:交響曲第7番


ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1965/7/30live 放送

驚くほど後期シベリウスになっている。壮大なクレッシェンドの音楽。いつもの性急なミュンシュはここにはいない。強奏が強すぎることもなく、弱音は繊細な配慮が行き届いている。この解釈にアンサンブルの乱れはありえない。音色的にブラスに気になるところはあるが、弦は素晴らしく、終盤の長い音符での詠嘆の表現にはミュンシュではありえない感傷的なものを感じる(感情的ではない)。良好なステレオ録音(右側からヴァイオリンが聞こえてくるのは苦笑するが、高音は右、低音は左という感じ)であることも同曲を聴く必要条件を備えており、ほんとにミュンシュか?と思ったらトゥッティでヴァイオリンが振り下ろすときいつもの掛け声が聞こえた(最後のナレーションでもしっかりミュンシュと言っている)。光明の中に静かに消えていく音楽もまったくシベリウス的で、クーセヴィツキー以来の伝統というべきか、いや、クーセヴィツキーのシベリウスは前期交響曲的な物語性を持ち込んでいた、これは永遠に綴られゆく音詩である。いいものを聴いた。聴衆反応はやや良い。

※過去に真逆の感想を書いているのでご興味があれば。聴取環境によって違って聴こえるということだろう。

ラヴェル:クープランの墓組曲

チェリビダッケ指揮デンマーク放送交響楽団(FKM)1971/4/1live

ホワイトノイズが乗り穴もあり音像の安定しないステレオ録音。環境ノイズも多い。オケは個性的ではなく技術的にもセンス的にも優れているわけではない。細部は聴き取れないが素直なテンポ設定でさらっと流れていく。二楽章は木管の表情付けがやや恣意的で、頭拍の強いアクセントや長い音符のフレージングが耳を惹く。三楽章はとにかく繊細。四楽章は無個性さが出ているが、透明感だけは伝わる。普通の拍手。
プロフィール

岡林リョウ

Author:岡林リョウ
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
リンク
カテゴリ
TAG

ストコフスキ 四重奏団 フィテルベルク ミュンシュ トスカニーニ コンドラシン バルビローリ 作曲家 モントゥ アンセルメ 作曲家演奏 ブール エネスコ ガウク ミトロプーロス ロスバウト サージェント オイストラフ フランセ ワイエンベルク ORTF アンゲルブレシュト サモスード デゾルミエール イワーノフ ゴロワノフ ムラヴィンスキー ピエロ・コッポラ モイセイヴィチ ベーム セル クーベリック カルミレッリ シュヒター バーンスタイン ビーチャム パシャーエフ ツィピーヌ アルベール・ヴォルフ パレー ウォレンスタイン アラール オーマンディ サモンズ 山田一雄 ロストロポーヴィチ シェルヘン モートン・グールド ギレー モイーズ 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード