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ノーノ:カンタータ「生命と愛の歌」(広島の橋の上で)(1962)

プリッチャード指揮LSO、Collier,Dorow(sp)リチャード・ルイス(t)(PASC)1962エジンバラ音楽祭初演live(bbc放送音源)

三曲からなり両端は8分強、中間が短い。それぞれノーノらしいメッセージ性の強いテクストが採用されており、最初の曲が広島においてかかれた書籍に基づく「広島の橋の上で」として全曲の題名となっている(このpristine久しぶりの発掘音源(CDでも入手可)ではアナウンスが入っており、曲名を「広島~」としている)。まさに往年の前衛音楽といったらこれ、という響きで耳を懐かしくつんざくノイズが1楽章を支配し、アイヴズを思い出させる弦のグリッサンドから「戦後現代音楽の同時代性」を披露するもので、わりと聴きやすいと思う向きもいるだろう。3楽章の打楽器主義的(アフリカを象徴しているのである)音楽にはラヴェルのマダガスカル島民の歌まで遡れるわかりやすさがあり、全般には本質的直系ともいうべきシェーンベルク無調時代の作風に近似した要素がちりばめられており、ソプラノにシェーンベルクやツェムリンスキーの「どこかの遊星へ行ってしまいそうで結局行ってない」風味がよく残されている。ブーレーズらの先鋭さ、発明、削ぎ落した表現からすると古いのかもしれないが、「人を不快にする前衛」としては音響が肉付きよく耳なじみよく、たとえ聴衆がブーイングを叫んでいても拍手の中に埋もれるくらいには「不快ではない」。それはプリッチャードがロマンティックな味付けというか、この人はフランスでも活動していたと思うが(このあとドビュッシーの夜想曲になる)耳なじみよくならしていて、wergoのギーレン盤のように冷たく構築したものではない、すなわちロスバウトのような演奏ではないから、逆に、迫真性を損なっていると思う人もいるかもしれない。対照的な三章を束ねた作品だが両端で似通った雰囲気を持つ、そういう形式的に整ったようなところも人によっては「甘すぎる」演奏と感じられてしまうかもしれない。放送レベルの録音水準。ステレオ。

チャイコフスキー:ヴォイェヴォーダ~間奏曲

マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(HMV,EMI/SLS)1950/12

短い曲で特に盛り上がりもない。穏やかな曲を普通にやっている。CD化不明(SLSはSP起こしCD-R)。

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

マルコ指揮フィルハーモニア管弦楽団(HMV,EMI/SLS)1947/3/26

SLSは針音がきついが音像が明瞭に捉えられる。当時のマルコの独特の解釈表現~音を尽く短く切り詰め粘らず、即物的傾向のもと太くハッキリ発音させ、リズムを強調し直線的な流れを重視する~がのちの煮え切らないスタジオ録音の演奏スタイルと異なり耳を惹く。正規販売されなかったのかフィルハーモニア管にしては一楽章前半からして速いスピードの前に弦楽器が乱れるなど「らしくない」部分もある。二楽章は音に憂いが一切なくリズム処理が明瞭な独特のワルツで、木管の棒吹きなど「単純化」された表現に好き嫌いはあるだろうが、憂愁の主題に入ると起伏が作られ対照的に感情を揺さぶりにかかり、トスカニーニふうの範疇ではあるものの染み入るところはある。シャキシャキした表現が活きてくるのは三楽章でチャキチャキである(何だそれは)。ナポレオンがロシアに生まれたらこういう歌が作られたであろうという軍隊調のところを煽っている。ただ行進曲というのとも違って、音量操作など小技を効かせた特徴的な解釈が光る。四楽章はオケの精妙な響きを活かしたであろう部分が悪録音のせいではっきりわからないのは残念だが、しっとりした夢、そして闇の表現は悲愴そのもので、三楽章との対比は見事である。クライマックスではスピードをむしろ上げ弦楽器の旋律を装飾する肥大化された上行音形は半音階を明確に聴かせずグリッサンドか単なるスラーのかかった音階であるように聴こえるほど速く、チャイコフスキーの書法の異様さが変に響かないのは、録音のせいでもあるか。ロシア流のローカルな色を出さず、しかしイギリスオケの中庸なる限界を超えており、これはSLSだからリアルに実態を聴き取れているせいだと思うが、精度は甘くも勘所だけは厳しく律せられたマルコのやり方が上手に働いて、ライヴでとんでもない名演の出てくることのある地盤の部分を感じ取ることができた。CD化不明(SLSはSP起こしCD-R)。

グラズノフ:交響曲第5番

児玉宏指揮大阪シンフォニカー交響楽団(rohm,KING)2010/3/17live・CD

ロシアの演奏と比べればそれはパワー不足は否めないが、一楽章の流れ良さやその最後の方のブラスの「だからこその切迫性」というようなものはあるし、二楽章はエンジンがかかってきて、このオケのバレエ音楽適性(グラズノフのシンフォニーのスケルツォはたいていバレエ音楽である)、木管楽器をはじめとする美しい響きと雰囲気の典雅さは一聴に値する。カリンニコフ一番の二楽章のようだ。リズム取りの上手さなど、この曲に慣れきった人ほど聴くべき、ロシアのローカル作曲家ではなく、プロフェッショナルな教師兼作曲家としての腕をしっかり浮き彫りにする名演だ。三楽章はロシア調ではないものの、旋律の起伏に重きが置かれ過ぎている気もするがライヴ感はあり、ラフマニノフを想起させる弦楽器の表情の豊かさ(響きは薄いのが残念)は「ここで本気出したか」というくらいそれまでの楽章と差がある。リズム取りはワルツ風というか、前の楽章もそうだがこのコンビは舞曲が上手いらしい。これもロシア色が出ないのは良い、透明感あるセレブリエルとは違って、熱いものの安易に気を煽る解釈に走ってはいず独自性を魅せる。ここで異様なスケールの盛り上がりを作って一気に四楽章の疾走。なかなか派手に打楽器を鳴らし、現代的な演奏レベルは保ちつつ、グラズノフ屈指のメロディを抱く民族的フィナーレを時には力強く時には軽快に、弦楽器に後半疲れがみられるがグラズノフはそんなことで瓦解するスコアは作らない、ブラスや打楽器によって音楽は弛緩することなく、実際テンポにタメを作らず最後まで真っ直ぐ走りきる。ブラヴォが出てもいいくらいだが。今は日本でも普通に演奏されるそうである。

ルーセル:バレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」第二組曲

ミュンシュ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya)1965/5-6LIVE・CD

冒頭少し録音がイマイチだがおおむねまずまずのステレオ録音(レンジが広く分厚くクリア過ぎるのは録音操作かもしれない)。ロシアオケのパワーを発揮しやすい曲のようで聴き応えはある。ミュンシュ色よりロシア色が強いというか、弦楽器も他のオケとは比較にならない力強さとスケール感、ブラスはワグナー張りの吹きっぷり、それがやや重さにも通じているがルーセルをこうやることもできるんだと思う。繊細さ、描写性に欠ける感もあり客席反応は少しブラヴォが飛ぶ程度の理解のさせ方(まず初耳の聴衆が多かったろう)になってしまったようだが、ミュンシュ晩年の徒に煽りまくるだけではない円熟した芸風も出ていると思う。まあ、曲に慣れないオケに奏でさせるために客観的に大人しくしているのだとは思う。

ビゼー:交響曲ハ長調

プレートル指揮シュツットガルト南西ドイツ放送交響楽団(hanssler)1991/6live・CD

荒々しく覇気に満ちている分、ベートーヴェン中期以降交響曲、とくに5~7番の影響を強く感じさせる聴感となっている。この人はドイツものも得意としていただけありビゼーの習作から個性的な(フランス的な)部分を取り出して強調あるいは繊細に描くよりも骨太の曲構造そのものをしっかりとらえ、前時代的な交響曲であることを明確に意識づける。それが個性の薄さを覆し聞きやすさに通じている面はあり、通俗的というか、庶民的な演奏というか、わかりやすい。ビゼーらしいとも思える新鮮な旋律、適度な工夫、それらがいわゆる後期ロマン派の「国民楽派」(といっても19世紀末のドヴォルザークなど先進的な交響曲よりまったく古風だが)と歩調を合わせたぐらいの感じにおさまっている。聴き映えがするのはあくまで押しの強いプレートルだからで、ビーチャムくらいだとぴんとこないかもしれない。「アルルの女」の片りんすら見当たらないが、旋律の中、明るい響きのなかに欠片くらいは聴く人もいるだろう。

バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」

ドラティ指揮読売日響(tobu)1982/03/13live・CD

モノトーンの破裂的演奏。雑味はあるし鈍重さも感じるが、同オケの特にソロの上手さにドラティのオケコントロールの熟達した技が聞きどころ。決してバラケはしない。フライング気味のブラヴォほどではない。

シマノフスキ:バレエ・パントマイム「ハルナシ」

トマーソ・フランスカーティ(T)ロジンスキ指揮ローマRAI交響楽団&合唱団(SLS)1955/12/31live

最近はハルナシェと表記されることが多い。単にバレエ音楽としてもよいのだが、独唱も合唱も入り、一味違う合唱管弦楽曲となっているので、本来の副題をつけておく。ウィーンのリヒャルト・シュトラウスの影響下にある第一期、パリからの風を受けスクリアビンの影響下にある第二期、ポーランド民族主義に基づき同時代のストラヴィンスキーやバルトークと歩調を揃えた第三期に完全に別れるが、これは最もわかりやすく、しかし書法の独特に完成された第三期の作品で、タトゥラ山地の音楽や舞踏への取材結果をそのまま取り入れてしまっていること、オリジナリティが薄れ全ての曲が同じ調子でオーケストレーションされていることから余り評価されないが、私は逆に「垢抜けて明るいバルトーク」のような音楽が好きで、この時期の作品しか聴かない。ロジンスキはシマノフスキもスクリアビンも親しみを持っていたようで録音があるが、もちろんリヒャルト・シュトラウスにも一家言持っていたからうってつけの指揮者だ。聴かせどころを、とくにリズムのメリハリとメロディの起伏を充実した合唱と楽団の激しい響きの中でしっかり届ける。覇気漲る演奏でないと民族主義の力が出ない。ここでは合唱とブラスがやかましいくらい印象に残る。独唱が終わると盛大な拍手。SLSらしい針音の目立つモノラル音源。

ハイエフ:交響曲第2番

ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA) 1958/11/30(1961初出)・CD

アメリカの初演好きなオケを振るのに避けて通れないアメリカ産現代音楽であるが、ブラックウッドと組み合わされたこちらはピストンに近くストラヴィンスキーの香りを嗅いだ新古典主義の交響曲であり、むしろあっさり聴けてしまう3楽章制の「中品」である。何も残らない、と言ってしまっては何だが、ブラックウッドよりは聴きやすい、アメリカのあるある交響曲、として好きな人は聞いてもいいだろう。

ブラックウッド:交響曲第1番

ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA) 1958/11/9(1961初出)・CD

2016年秋のRCA録音全集で初めて復刻された音源で、LPでも出ていなかったかもしれない。曲はしかし無調であり、よくこういう曲を録音したものだ、という殺伐としたもの。アメリカでは珍しい新ウィーン楽派ふうの作品なのに、アメリカ的なアカデミックな交響曲のていを取っているのが不思議だ。半音階的な動きに刺激的な響きを伴い、それらはミュンシュにしっかり律せられているものの、曲の個性の薄さ、魅力のなさはいかんともしがたい。ステレオなのでまだ聴けるが、二度聴きたいと思うものではない。真っ昼間に聴く曲ではない。

ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲

プレートル指揮シュツットガルト南西ドイツ放送交響楽団(hanssler)1997/10・CD

冒頭から木管の音が硬く表情も強張り、鈍重な響きはドイツオケの悪いところが出ている。夜明けの感じがしない。ただゆったりとしたテンポで、柔和な交錯、法悦的な表情付けを連ねてから、やがて過度に人工的に表情が付加され(最弱音でやり取りされるソロ楽器への緩徐部の繊細な操作は耳を澄ませないとわからないほど細かいがとてもソリスティックでいながら予定調和的なまとまりを見せる)、良録音なりの内部の細かな動きまで聴き取れるのも含めて、チェリビダッケよりこなれていないものの、やはりその遅くじっくりとやる点において同傾向の構築的で壮大な演奏となった。さてしかし「全員の踊り」となると無骨で野蛮な面が出てきてピッコロが吹けていなくても関心なしに突き進むプレートルらしさが表立ってくる。整えたようなアンサンブルはまだ残るが、雑味を抑えまとめることにより迫力に昇華されていく。音符間に空気の通るようなデジタルな響きは現代的だが、破壊的に切れ落ちる終幕はきっぱりしていて清々しい。

ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

プレートル指揮パリ管弦楽団(ERATO/EMI/warner,icon)CD

後年よりかなり慎ましやかではあるが主として内声に独特の解釈が施され、音符の長さが長めに取られたり、響きが妙に雑(これはオケの力量の問題か)、さらさらしているかと思えば急激なリタルダンドをかけたり(四楽章ではポリリズム化寸前のテンポ感の極端にずれた場面がある)、表面上音色が変わらないのでわかりにくいがしっかりアゴーギグをつけている等、シルヴェストリには敵わないものの個性は感じ取れる。

ジョリヴェ:舞踏交響曲

作曲家指揮クリーヴランド管弦楽団(youtube)1959/1もしくは8live

正体不明の音源だが、ジョリヴェにしてはドビュッシー「遊戯」の範疇に留めたような作風で、妖しくもわかりやすく美しい曲だけに左右の安定しないモノラル録音なのは惜しい。オケはセルにきたえられているだけあって、超高音で酷使されようが弱みを見せることなく派手に弾ききっている。中間部で銅鑼にのって古臭くもわかりやすい妖気をはなつ箇所など全く舞踏的ではないが、その後にわかにストラヴィンスキー的な低音からのリズムの打ち出し方は、ジョリヴェに期待されるものを十分に示している。それはメシアンまではいかない、ブーレーズまではとてもいかない、我々の理解可能なコープランドレベルの現代性を提示するもので、長続きせず弱音に落ち着いて、銅鑼にのって中低音で奏でられる旋律はどことなく、ハルサイのオリエンタルなものより遥かに人好きするところが、ジョリヴェの「人間性」なのだろう。ヴォーン・ウィリアムズすら思い出させる良い民謡風旋律だ。不安げな終わり方も格好が良い。拍手カット。くれぐれも演奏は充実し音はよく出ている「よう」なのだがyoutubeのものはレンジも狭くボロボロで残念だ。

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲

ワルター指揮NYP(ASdisc他)1949/6/19live・CD

あからさま。リアルな音。ゆえに冒頭フルートから入り込めないが、止揚するテンポに噎せ返るような響きには渡米前のアグレッシブな芸風の残り香が強く感じられ、このともするとモノトーンになりがちなオケより引き出される豊潤な色彩については、文句のつけようがない。高音域でのぬるまゆい音の交歓はさすが熟練の指揮者によるものであり、バーンスタインより遥かにフランス的である。録音が生々しすぎるのかもしれないが、後半はワルターのフランス物も悪くないと思わせる、そんな記録となっている。きわめてノイジーだがそのぶん情報量はある。

リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲

ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(MEMORIES他)1959/2/28live・CD

ミュンシュ唯一の記録であり、非正規ライヴ音源なりの状態の悪さであるが、情報量の確保されたステレオなので迫力が違い、解像度もそれなりにある。ライヴだから当然このスピードでミスが皆無とは言わないが恐るべきブラスの力量を見せつける、特に4楽章は圧巻である。リヒャルト・シュトラウスを語るのにまずもって金管しか語られず(一部コンマスソロなど役割を持つ弦楽ソリストも入るが)管弦楽の扱いがきわめて巧みといってもほとんど金管好きないし金管奏者、およびオペラ寄りの大曲好きしか話題にしようとしないのは一曲でも聴けばわかることで、せいぜいウィーン情緒をかもすフレーズ(モチーフ)や響きが弦、木管により担われるだけで、聴き映えがするのは決まってホルンが吠えトランペットがトレモロを吹くような部分ばかりだ。したがってブラスに圧倒的なメリットを持つアメリカオケに、ミュンシュのような強力な統率者が加わるだけで成功が約束されているようなものである。私のようにたとえ表題があったとしても「交響曲」である以上中核には抽象的なものが存在してほしい向きは退屈さと腑に落ちなさで二度と聴かない類の曲である(明確な内容の対比を示す四楽章から構成されているとはいえ、どう聴いても同じムードに支配されつながった3部に終幕が加えられた長々しい「無歌詞オペラ」としか聴こえない)が、この演奏は奇跡的に最後まで聴けた。ミュンシュBSOコンビでもかなりコンディションの良かった演奏だと思う。強権的とすら感じられるミュンシュにはアルザスの血をも想起させる中欧的な色がしっかりあらわれている。ウィーン情緒的な部分はどうでもよい、中低音域の轟音は緩みない奔流を作り出し、超絶技巧を前に負けるわけないだろというブラス陣の底力も聞き取れる。

同じような調子が続くこの曲もアルプス交響曲もそうだがリヒャルト・シュトラウスにとって表題交響曲は型式的な交響曲ではなく表題をもつ拡大された交響詩であり、細かく配置された無数の具体的モチーフ同士が音の律動によって舞台上で演劇を繰り広げるものだ。この曲をそういった前知識なく聴くのはほかの短い曲より難しい。アルプスのように想像のしやすいダイナミックな気象を相手にしているのではなく、夫婦と子供という登場人物のおりなす生活の機微を大げさに増幅してやっている。しかしミュンシュ盤は前知識なく聴いても「わかる」だろう。その意味で稀なる演奏といえる。

ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲

ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1962live

いささか乱暴な録音だが(全曲からの切り出し?)まとまっていてミュンシュのものとしては聴きやすい。外しがなく、不格好なデフォルメもない。なかなか聴き応えがある。ラスト近くできついノイズが入るのは痛いが、物凄いスピードにもものともせずやりきったオケにブラヴォが飛ぶ。

ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第8番

ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文科省交響楽団(melodiya)live・CD

スピーディーでさっさと進み即物的傾向を示す。アンサンブルは緩く音響は派手で起伏の伏に欠け憂いがない。ヴォーン・ウィリアムズの晩年作品でもともと耳やかましい響きを孕んでおり(難聴を患う身ですべて自分で確かめて作れた作品なのかどうかわからないが)それは指揮者の責任ではないかもしれない。ニ楽章などリズミカルな表現に利を感じるし、弦楽合奏による三楽章はしめやかではあるが、あまり良くない録音のせいだろうか、まだ押しが強過ぎると感じるところもある。もっとも、ヴォーン・ウィリアムズらしさの点では最もしっくりくるし、さらにオケの技巧的メリットを誇示する楽章にはなっていると思う。盛大なフィナーレである四楽章の重さは好き嫌いがあると思う。低音打楽器を鳴らしまくりテンポは遅く前に向かわず、どんくさいと感じもするものの、交響曲のフィナーレとしては構成的にバランスが取れている。楽章内の構成はあの映画音楽的な美しさを際立たせるようなものではなく、あくまでスコアをドイツ風の音響的に整えメトロノーム的に追っている感。この曲の軽快なイメージとは違うが、ひとつの見識ではあろう。

ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

ミュンシュ指揮ORTF(ina配信)1966/9/13live(1966/10/13放送)

本編ステレオ。しょっぱなからミュンシュが猛り狂っており、掛け声だらけ。それに対してオケも荒々しく、性急で即興的な印象が強く(ほかの録音を聴くにつけミュンシュにとってはとっぴな解釈の入れづらい曲っぽいので細かな伸縮などはない)、けして名演とは言えない。強いライヴ感がカタルシスに昇華されておらず、大声を上げて終幕となっても客席反応は即時ブラヴォとはいかない。雑味は多いがオケはよくついてきたと思う。弱音部のニュアンスに欠けているとは思った。

ランドスキ:交響曲第2番

ミュンシュ指揮ORTF(ina配信)1965/11/16(1966/1/1放送)live

プレートルも録音しなかった番号で、表題を持たず(楽章には付けられているが抽象的)全般に1番とくらべオネゲルに回帰したような地味な響きと律動、ミュンシュだからその求心力(細かな動きのオケの統制含む)で聴いていられるが、とりとめなくフィナーレが(冒頭こそランドウスキらしい新しい響きも入るものの)どこで終わったかわからない感じもあり戸惑い気味の拍手が入るのも、けして当時前衛ではなくかといって古い見地からも新しくなかったことは窺い知れる。しかしランドウスキは「わかりやすい」。きちんとした楽想を持ち、それなりの創意ある音楽は戦後の「娯楽的空気」も伝えており、一部で揶揄されたのもわかる。テレビドラマの劇伴のような今や古臭いあからさまさも含まれるのだ。逆に、今こそ再評価されるべき「忘れられ方」をしているとも思う。ここでのORTFは細部までよくやっている。ミュンシュはボストンでの新曲演奏のように少し引いてやってはいるが悪くない。ノイズの少し気になるステレオ。

リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」

ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(MEMORIES他)1955/9/30live・CD

ブラスのパワー、弦の技術、指揮からくる集中力を求める曲にピッタリの組み合わせである。モノラルだが情報量はあるため、覇気溢れる演奏ぶりを堪能できる。リヒャルト・シュトラウスでもこの曲は別格だろうし、ミュンシュも適格だろう。

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